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これは夢か。
そうだ、夢に決まっている。
夢でなければ、こんな光景は有り得ない。
甘寧は最初、己の頭を疑った。
だが自分自身嫌になるくらい意識はしっかりしている。
次に疑ったのは、己の目である。
この眼球は、頭より信用が出来ない。
無意識に指を眼窩に入れ込もうとし、姪の婿に掴まれる。
さすがと言うべきか、婿は彼を凝視しつつ甘寧の行動に気が付き顔の向きはそのままで甘寧を制止したようだ。
「……おい、俺は幻覚でも見てるのか?」
それはこっちの科白である。
婿の独り言に対して返したかった言葉はしかし、口から出ることは無かった。
さっきはあんな大声で怒鳴り付けていたというのに、打って変わって声が上手く出せなくなっていた。
それ程の、衝撃だったのだ。
無理もない。
甘寧の前に立っているのは、間違えようも無い――――、
遥か遠い昔に命を落とした、彼女の弟なのだから。
「興覇……」
もう一度、その名を呼ぶ。
どちらかというと玉藻に似た顔の弟は――――興覇は、姉を振り返ってにっかと笑った。
「お久し振りです、姉上。身体が小さくなっていて驚きました。華佗も、随分と長生きをしているんだな」
「お、まえ……」
華佗の声は震えている。何故、と掠れた声が漏れた。
彼も甘寧と同じく混乱しているだろう。いや、甘寧よりも強かろう。何せ、興覇の最期を看取ったのは華佗だったのだから。
一つ、解せないことがある。
この場にいる劉備軍の者までもが彼の姿を見て、甘寧らと似た種類の驚愕を見せているのだ。
孫権達は事態を把握出来ず、問いたげな視線をこちらに寄越しているのに。
猫族の祖である劉軍ならともかく、彼らが興覇を知っている筈がない。面識を持つことなど有り得ないのだ。
怪訝な視線を劉備に向けるのに答えたのは、興覇だった。
「この姿で会うのは初めてだな、劉備。しかし俺に向かって『亡霊』とは酷い。あの言葉には、少々傷ついたぞ」
「あ……ごめん、なさい……興覇」
劉備はびくんと身体を奮わせ、叱られることに怯える幼子のような顔で興覇に謝罪する。
その隣で目を丸く見開いた関羽が忙しなく劉備と興覇を見比べていた。
そんな彼に、
「見てみろ、俺にはしっかりと足があるぞ!」
何故か自慢げに自分の両足を指差して見せる興覇。
「いやお前死んだだろ! あの時! 俺の目の前で!! 金眼から劉光の義弟を庇って!」
怒鳴るように指摘したのは華佗だ。
それに対しては、
「ああ、あの時俺は死んだ。十二分に燃えて尽きていた故、悔いなぞ微塵も無かった!」
またも自慢げに肯定するのである。
華佗が頭を抱えてよろめいた。混乱は収まったようだが、今度は弟の調子に掻き乱されてしまっている。
ふと、興覇の肉体を見て何かに気が付いたようだ。口角が引き攣った。こめかみに血管が浮き上がる。
「おい……ちょっと待て。その《器》は、まさか――――」
「丁度近くにあったのでな、すまんが借りたぞ、華佗」
「テメェ何勝手に人の予備を使ってんだゴルアァッ!!」
……懐かしいな、こういう感じ。
そう思える程度には、頭が冷めてきたようだ。
この状況にそぐわないなんとも呑気なやり取りで、あんなに激しく動揺していたことも馬鹿馬鹿しく思えてくる。
本当に、懐かしい。
ああ、そうだ。興覇はこういう奴だった。
人がどんなに頭を悩ませてても、こんな調子で心を解きほぐしてしまうのだった。
甘寧は冷静さを取り戻した。
懐かしさついでに思い出した。
「……興覇。取り敢えずお前、こっち来い」
「何でしょう姉上」
素直に前に立ち、しゃがんで目線を合わせてくる興覇。
甘寧は呆れと苦々しさを含んだ笑みを浮かべ――――。
「ふんっ!」
「うぐっ!?」
素早く首に腕を回し容赦なく絞め上げた。ごきっと骨が鳴ったような気がしたが、空耳だろう。仮にそうでなくとも構わない。
死んだ筈の弟は、甘寧の細い腕をばしばしと叩いて抵抗する。
「あだだだだだだっ! 姉上! 姉上、いきなり何を!」
「五月蠅え馬鹿。懐かしいと思ったついでに思い出しただけだ」
あー、そうだったそうだった。
こいつが生きていた頃オレの頭を悩ませていたのは八割こいつだった!
だのにこいつの調子に呑み込まれて許してたんだったな昔の馬鹿なオレ!
ぎちぎち絞め上げて来る姉に、さすがに興覇も命の危険を感じたらしい。
劉備に向かって手を伸ばして助けを求めた。
おい、そこは娘婿じゃねえのかよ。心の中でツッコむ。
求められた劉備は、困惑の表情で九尾姉弟を見比べている。
「おーおー、そうだ。お前何で劉備や関羽と知り合ってんだ? 返答によっては姉様の手であるべき状態に戻してやるから。さっさと答えろ」
「それは、」
「残念時間切れだ」
「なんと無体な!!」
こう言いつつも、興覇の膂力(りょりょく)なら今の甘寧の腕を剥がすことなど造作もない。
それをしないのは、彼も甘寧の弱体化を察しているからだろう。
弟に気を遣われる我が身のなんと情けないこと。
興覇を解放し、甘寧は溜息をついた。
「まあ、良い。尋問する時間は無えし」
言いながら興覇の首根っこ掴んで、ようやっと立ち上がった白銅を睨んだ。口の中が切れたらしい、口端から血が垂れている。
「これの一撃はそんなに堪えたか? 意外と脆弱なんだな、お前」
「姉上。久し振りに会った弟に『これ』呼ばわりは酷いぞ」
「分かった今度は股間を踏んでやろう」
「おい、空気、空気読め。さすがにそれは狐狸一族の長がやることじゃねえ」
華佗に止められた。
「く……くううぅぅぅぅっ!」
白銅は顔を真っ赤にして歯軋りする。
甘寧達の滑稽なやり取りは、彼女の神経をざらざら逆撫でする。
わざとである。
示し合わせた訳ではないが、途中から煽り目的で話していた。断じて、大昔の鬱憤をぶつけようなどと、そんな私情は少しも入っていない。
「ああもう腹立たしい腹立たしい腹立たしい! 何なの!? 何なのオマエ達!!」
「何って、九尾の狐姉弟と」
「九尾弟の娘婿。それと―――」
「暗殺者です」
華佗が肩を竦めた直後である。
白銅に、影が落ちる。
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