「ああ……関羽……!」

「嘘だろう? おい、幽谷!! 利天!! 関羽!!」


 周瑜が、声を裏返して彼女らを呼ぶ。
 身動ぎするのは、関羽だけだ。幽谷は何の反応も無い。今、彼女が幽谷に戻っているのか利天のままなのか、判別がつかない。

 劉備は目を剥いて関羽を凝視している。

 全身の血が冷えていく。
 関羽が。
 幽谷が。
 あんなに傷だらけで。

 何で。
 どうして。

 幽谷の中には利天がいたのではなかったか?
 どうして、利天は、幽谷を守れなかったのか?


「う……うわああああっ!」

「あははははははは!」


 劉備の絶叫と白銅の哄笑が重なる。


「そうですわ、お兄様! もう少しです! このバカ女を目の前で殺せば、お兄様も、きっと目を覚まされるはず! そうでしょう、お兄様!」

「う……や、やめろ……やめろ……! やめろぉぉぉぉぉぉぉっっっ!」


 劉備の叫びに、関羽がみたび身動ぎした。



‡‡‡




「りゅ、劉備……ダメ……」


 いけない。
 このままじゃ劉備が!
 関羽は全身を苛む痛みに顔を歪めながら、何とか身を起こそうと力を込める。
 しかし、力むだけで痛みは更に増す。至るところの骨が軋む。

 白銅に引きずり出される前から意識のあった関羽は、劉備達の様子を気にしながらずっと小声で幽谷に話しかけていた。

 幽谷の身体を借りた利天の実力は間違いなくこの戦場の誰よりも上だ。
 だのに、関羽を痛め付けた白銅が戦場に踊り出た後、戻ってきたその手に脇腹から血を流した幽谷が引きずられていた。
 以来、彼、或いは彼女は目覚めていない。
 けれど幸いにして、白銅は何故か幽谷の身体を手荒に扱うことが無かった。

 劉備が金眼の呪いに負けそうになっている今、幽谷を無理に起こすのは一旦止めて、劉備のもとへ行った方が良いかもしれない。
 白銅に幽谷を害する気が無いのなら、先に劉備を助けるべきだろう。
 そう判断した関羽は、大きく息を吸ってもう一度全身に力を込めた。

 腕を突っ張って、呻きながら身を起こす。
 白銅に散々痛め付けられた身体が悲鳴を上げる。
 ちょっとでも気を抜いたらまた倒れてしまうだろう。

 でも、劉備はもっと苦しい筈だ。
 わたしがこんな痛みに負ける訳には……!

 よろめきつつも立ち上がった関羽に、劉備は苦痛に歪んだ顔を更に泣きそうに崩した。


「そんな身体で動いたら……!」

「……大丈夫よ劉備」


 白銅から距離を取りつつ、深呼吸をする。
 大丈夫。この痛みは耐えられる。
 劉備を想えば、こんなもの――――。


「わたしは……わたしは劉備がいたら強くなれる! 一緒にいれば乗り越えられるわ! だから心を強く持って……!」


 関羽は幽谷に視線を落とした。
 ごめんなさい。利天、幽谷。
 今は、劉備を助けるわ。
 もう少し待ってて。

 その時だ。

 幽谷の腕が動いた。


「……! 幽谷っ」


 がくがくと震えながら持ち上がった腕。
 真っ赤な人差し指がある方向を指した。

 少し離れた場所。
 そこに、関羽の偃月刀がある。

 使い慣れた得物を認識した次の瞬間、関羽は殺気を感じてその場から飛びのいた。偃月刀へと転がるように近寄り、しっかりと握り締める。
 襲い掛かった白銅へ偃月刀を向ける。


「わたしはあなたを倒してみせる! たとえこの身が滅びても!」


 白銅は忌々しげに舌を打った。


「人間の分際でぇ! この私に刃向かうかぁ!!」


 関羽が立ち上がったことも、関羽に攻撃を避けられたことも、白銅の神経を逆撫でしただろう。
 ぎりぎり歯ぎしりして憎らしげに関羽を睨めつけ金切り声を上げる。


「許さない! 許さない! 許さない! 許さないぃぃぃぃっっっ!」

「わたしだってあなたを許すつもりはないわ! 劉備を、あなたのような化け物になんて絶対にさせない!」

「ぬかせえええええぇぇぇっ! 私とお兄様の邪魔をする奴は全部! 全部殺してやる!」

「――――させんよ」


 それは、上から降ってきた。


「あ……!」


 関羽と白銅の間に着地した真っ赤な影。
 ふわふわした九つの尻尾がゆらりと揺れる。


「か、甘寧……!」


 周瑜が、その名を呼ぶ。
 狐狸一族の長が、その身には剰りに大きな大剣を片手に立っていた。

 白銅が唸る。


「お前ぇ……っ!!」

「よぉ。小物。どうした? 随分とお怒りのようじゃないか。もう少し余裕を持ったらどうだ」


 甘寧は白銅に言葉をかけつつ、関羽に劉備を指差して見せる。
 今のうちに劉備のもとへ行けということだろう。

 彼女の容態が心配だが、関羽はその指示に甘えた、短く頭を下げてその場を離れた。
 劉備に伝えなくてはいけないことがある。ちょっとだけ、ちょっとの時間だけで良いのだ。

 白銅が関羽の動きに気付き「行かせない!」襲い掛かろうと跳躍した。

 が、そこへ物影から飛び出した恒浪牙が狼牙棒で殴りかかる。

 更に回避したところへ今度は蒋欽が。

 彼らの援護に感謝しつつ、関羽は死体を避けて劉備に近付いた。
 何とか辿り着くと劉備は玉の汗を顔に浮かせながら縋りつくように肩を掴んできた。


「ああ……、関羽……関羽……」

「劉備……大丈夫よ……! 前に言ったじゃない! 呪いの力に負けた劉備も、いつもの劉備と同じだって! この事実を受け入れるの! 劉備自身が認めてあげないでどうするの!?」


 腕を掴み、軽く揺さ振る。
 「わたしは劉備を信じてる!」関羽は力強い言葉を熱を込めてぶつけた。

 はらり、と劉備の目の端から涙が落ちる。


「か、関……羽……。僕は……君を……」


 直後、劉備は関羽を押し飛ばし頭を抱えた。
 絶叫する。

 かと思うと、苦悶に満ちた大音声がぴたりと止んだのだ。

 俯いて、動かない。


「劉備……!」


 関羽が手を伸ばすと、触れる寸前に劉備の身体が揺れ、立ち上がった。
 もう一度、名を呼ぶ。


「ふふふっ」


 瞠目。


「ふふふ、あははははははっ!」


 この場にそぐわない、なんとも愉しげな笑い声。
 関羽は全身から血が引く感覚に襲われた。

 嘘。
 ダメだったの!?


「ああ、この感じ……戦場はやっぱり僕を高揚させるね」

「!!」


 嘘だ。
 そんな……劉備……!

 視界が、滲む。

 偃月刀を抱きしめた直後。


『大丈夫だ』


 優しい声が、関羽を励ましたのである。


「!?」


 咄嗟に周りを見渡しても、その声の主はいない。

 でも今の声、あの人の声だったわ。 
 何処にいるの?


『劉備を信じると言っただろう。あの子は大丈夫だ』


 やっぱり、あの人の声だ。
 狐狸一族の、あの男の人の……。

 ああ、そうか。

 ここには狐狸一族の長がいる。
 だから姿を現さないのだろう。

 でも近くにいる。
 近くで、関羽に声をかけているのだろう。

 関羽は深呼吸を一つした。

 信じる……うん。
 わたしは、劉備を信じてるって言った。

 まだ諦めるのは早いわ。

 関羽は顔を上げて劉備を見上げた。


「ああっ! やっとお兄様と一緒にいられる……嬉しい、嬉しいわ!!!!」


 甘寧は横目で劉備を見つめている。

 恒浪牙と蒋欽は、構えを取りつつ白銅と劉備の動向を注意深く窺っている。

 満面の笑みを浮かべた白銅は両手を劉備へ向けて広げて見せた。


「さあ! 一緒に殺しましょう! その女を八つ裂きにしましょう!!」


 劉備は笑みを消した。


「ああ……でも、……それは出来ないよ」


 淡々と答えたのである。

 関羽は、全身から力が抜けた。



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