ぞわぞわと悪寒が止まらない。

 目の前におどろしき存在がいる。
 本能が警鐘を全身に鳴り響かせる。
 しかし、激しい警告を受ける身体は全く言うことを聞かない。
 あのおぞましい白い光を受けた身は、内なる邪悪が力を増し全ての感覚を麻痺させる。
 僕を支配しようとしている。

 金眼が。

 劉備は噛み締めた歯の隙間から呻きを漏らす。


「劉備、大丈夫か!?」


 周瑜が身体を揺らして来る。


「く、苦しい……。僕の中で、あの恐ろしい呪いが……力を増してきている……」


 こうなることは分かっていた筈だ。
 ここで呪いに、金眼に負けてしまう訳にはいかない。
 負けてしまえば一体何をしに来たのか――――。

 どんどん勢いを増していく狂気に勝てる気が、しない。


「う、うぅ……」


 尚香が、呻いた。
 はっとして顔を上げれば尚香が突っ伏している。僅かに身動ぎ、顔を上げた。
 ぼんやりと周りを見渡すこと暫し、床に腕を突っ張って重たそうに上体を起こした。

 意識が未だはっきりとしていない妹へ、孫権が駆け寄る。
 劉備も周瑜に支えられながら続く。

 孫権が尚香の身体を仰向けに起こし、頬に触れる。
 何度も呼びかけると、尚香は不思議そうに兄を見上げた。


「お……兄……様? どう……して……? あれ? なんで……みんな……」

「気が付いたか、尚香」


 尚香は一呼吸を置いて、空を仰いだ。


「ああ……私……長い夢を見ていたよう……」


 孫権が長い長い息を吐いた。
 その命を確かめるように、そっと抱き締めた。


「尚香……。お前が生きていてくれて嬉しい。無事でよかった……」

「泣かないで……孫権お兄様……」

「孫権様。尚香様を連れてお退がり下さい」


 逼迫(ひっぱく)した声は周泰のものだ。
 彼は尚香が目覚めた瞬間、孫権らとは別の行動を取った。
 尚香と《彼女》の間に立ち、攻撃態勢で牽制する。

 その顔色は、打って変わって悪かった。
 朝には持ち直していたのに、今は死人の如き色の悪さである。

 そんな状態の周泰を、《彼女》が恐れる筈もない。むしろ小馬鹿にするような笑みで、余裕の佇まいであった。

 劉備が視線を向けると、表情は一変、艶やかな微笑みで秋波を送る。


「君が……」


 白銅。
 金眼と同じ場所から生まれ、金眼を愛した大妖の、本当の姿。
 おどろおどろしい白と血のような鮮やかな赤に彩られた半獣人。

 その瞳は、金色。

「さあ! お兄様! まずは手始めにそいつらから殺しましょう!!」


 騒ぎ出す。
 出せ、支配権を渡せと劉備の自我を圧迫して来る。

 劉備は今にも破裂しそうな胸を押さえうずくまった。無意識のうちに周瑜の腕を振り払う。
 抗わなければ。
 負けるな。
 負けてはいけない。


「僕は……負けない……」


 自身に言い聞かせるように絞り出した声に、しかし膨れ上がる狂気の力を止められない。

 興覇……。
 心の奥で呼びかける。


 彼の声は、聞こえない。


 どうして……さっきまでは……。

 じわじわと、絶望が劉備の意思を弱めていく。
 もう駄目かもしれない――――。

 劉備は息を震わせた。


「……周泰、周瑜、孫……権……。君……たちは、逃げて……。万一のことが……あったら……僕は……」


 殺してしまう。
 全てを。
 何もかもを自分の手で壊し尽くしてしまう。

 抗わなければという思いがどんどん弱まっていくことに恐怖を抱くと同時に、己の弱さに吐き気がした。


「何言ってんだ! お前、猫族の長なんだろ! しっかりしろ! 金眼の呪いに負ける為にここに来たんじゃないんだろ!」

「……駄目、なんだ……。もう……聞こえ、ない……声が、聞こえないんだ……!」

「声……? 声って、」

「この……ままだと……僕は、きっと……みんなを――――」


 目を剥いた。
 爪が伸びていく。
 自分の、爪が。
 まるで研ぎ澄まされた細剣のようではないか。

 これならば、人の肉を容易く裂けるだろう。
 これならば、心臓を容易く貫けるだろう。

 これならば、

 これならば、

 これならば、

 コレナラバコレナラバコレナラバコレナラバコレナラバコレナラバコレナラバコレナラバコレナラバコレナラバコレナラバ。

 血ノ宴ヲ、

 血ノ宴ヲヲヲ ヲ ヲ


「ぐ、うあああああっ!?」

「お兄様、ご無理なさらないで。赴くままに力を解放すればいいのです」


 白銅が、優しく語りかける。

 劉備は激しくかぶりを振り拒絶する。


「や、やめろ……やめてくれ……呪いの力を……目覚めさせないで……くうっ!」


 周泰は白銅に襲い掛かった。
 肉薄する一瞬に青炎を纏った右手を、大きく振りかぶる。

 白銅は劉備を見つめながら軽やかに避けた。

 白銅の高い素早さもあるが、周瑜の動きが明らかに精彩を欠いている。


「周泰!」

「周瑜! 孫権様達を連れて本陣へ戻れ!! これは俺が足止めする!」

「足止めって言ったってオマエ……! その顔色、さっきの動きだって、」


 その時である。


「劉備!」


 新たな声が、聞こえた。

 それに真っ先に反応したのは劉備である。


「張飛! 関定に……、蘇双まで!」

「一瞬だけ劉備が見えた気がしたけど、気のせいじゃなかったみてーだな!」


 声に少しだけ安堵を含ませた張飛は、白銅を見て顔を険しくした。
 苦痛に堪える劉備と交互に見、状況を把握したらしい。


「おいっ! 劉備しっかりしろよ! おっちゃんにも言われたんだろ! 呪いに負けるなって!!」

「……世……世……平……!」


 ぞっと、全身に鳥肌が立つ。
 脳裏に浮かぶ、世平の最期の姿。
 世平の肉を裂いた感触が蘇る。
 また、あの感覚を欲している自分がいる。


「あ、ああぁ……!」


 違う。
 僕はそんなこと望んでいない。
 本当に?

 違う。
 欲しくて欲しくてたまらないんだ。
 本当に。

 止めろ。
 黙れ。
 止めろ。
 止めろ。
 黙れ。
 黙れ。
 黙れ。


 オ前ガ黙レ!


「おっちゃんが体張って教えてくれたんだろ! 呪いに負けないでくれ! 誇り高い猫族の長であれ! って!」

「そうです! 劉備様なら出来ます!」

「世平も力を貸してくれます!」


 張飛達が声を張り上げて励まして来る。
 劉備を《責める》ように。


「……ああ……世……平……」


 劉備は首を横に振った。


「……だ……駄目なんだ……。僕……は、もう……何度も……何度も……呪いの力に……負けている……んだ……」


 世平が命を賭して劉備に教えた。
 彼は、ずっと劉備を見守ってくれていた。守ってくれていた。
 幼い頃に《初めて》過ちを犯してから、ずっと――――。


「……殺した……、殺……したんだ……君たちの……両親……を……」


「え……」


 張飛達は固まった。
 開けたままの口をぎこちなく動かし、震えた声で劉備の言葉を繰り返す。

 突然の衝撃はあまりに重たかっただろう。
 蘇双がふらりとよろめいた。


「ごめん……本当に……ごめん……。僕が……僕さえ、いなかったら……君たちは、もっと幸せ……だったのに……」


 繰り返し、謝罪する。
 自我を必死に繋ぎ止めながら。
 諦めていく自分自身に憎しみを燃やしながら。

 何も出来ない。


「もう、お兄様ったらまだ抵抗するの? じゃあやっぱりこいつを殺しましょう」


 白銅が溜息をつきながら身を翻した。
 無防備な背後を晒しているにも拘(かか)わらず、周泰も誰も彼女に襲い掛かろうとしない。
 相手は大妖。無防備であろうと、襲えないのだ。

 白銅は悠然と歩き、死体の隙間から二つの身体を引きずり出す。

 焦げ茶色の長い髪の少女に、黒い髪の女。
 どちらも頭に、或いはこめかみに獣の耳を生やしている。

 劉備は目を剥いた。


「姉貴! 幽谷!」

「幽谷! 関羽!?」


 張飛と周瑜が叫んだのはほぼ同時のことである。

 白銅は関羽を乱暴に、幽谷をやや丁寧に寝かせ、にやりと笑った。

 二人は、動かない。



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