6
船縁に佇む一人の少女。
真っ赤な衣に身を包んだ愛らしいかんばせは冷めきった無表情で、船の上をおおわらわで逃げていく人間達を眺めている。
と、
「尚香!」
不意に、彼女へかかる声。
しかし無反応。ぴくりとも動かない。
「やっぱり……」
風に衣がたなびく。
つんとした血の臭いが鼻を突いた。
衣自体が赤いのではない。血で赤く染まっているのだ。
誰の血か。
足元に累々と倒れる無惨な者達の血である――――。
尚香が、僅かに身動ぎした。
「あー………………」
内臓食べたい。
可憐な声が発した、惨い言葉。
劉備達は声を失った。
「内臓食べたい内臓食べたい内臓食べたい内臓食べたい内臓食べたい!!」
欲求を吐き出すように早口に繰り返す彼女へ、劉備は震える唇から声を搾り出す。
「尚……香……?」
ぴくり。
尚香の小さな肩が震えた。
身体を反転させ青ざめる劉備を視界に捉える。
花が咲いたように輝かしい笑顔を浮かべた。なんとも無邪気で、なんとも残虐な――――。
「お兄様!!」
両手を広げ、尚香の身体を奪った大妖は大股に劉備へ歩み寄る。劉備の前に立つと広げた両手は胸の前で指を組み、うっとりと恍惚に瞳を潤ませた。
「ついに! ついに来てくれましたのね! やっと会えた……私のお兄様……」
感極まった瞳から、涙がこぼれ落ちる。
小さな身体から放たれる濃密な邪気に眩暈を覚え劉備が一歩下がったのを追い、ひしと抱き着いた。
白銅は胸に仄かに赤い顔を埋め、幸せそうに頬擦りする。
彼女の視界には、孫権らの姿は入っていないようだ。
想いの丈を伝えるように、彼女は早口に語る。
「ああっ! お兄様! お兄様! お兄様! お待ちしてました。ようやく準備が整いました……。随分お待たせしてしまって、ごめんなさい。でも、これでようやく事足りる……。お兄様のために、これだけの数揃えたのよ。この戦場にいる人間は全てあなたのもの。あなたの贄。あなたの糧! その血も、憎悪も、恐怖も、悲しみも! 全て全てあなたのもの!」
「さぁ、好きなだけ殺して下さい!」劉備を解放した白銅は再び両手を広げくるくる回りながら死体の上を踊る。
人間の血の臭いが、劉備の心を残虐に揺さぶってくる。封じ込めるべき負の衝動を煽ってくる。
「血を浴び、内臓を喰らい、長江を赤く染め上げ、何万という死体を、この川底に沈めましょう!」
「尚香……君は……やっぱり……はく、」
「おい、尚香」
戦慄する劉備の言葉を遮り、周瑜が厳しい面持ちで白銅を敢えて尚香の名で呼ぶ。
「お兄様は孫権だろ? なんで劉備に向かって話しかけるんだ」
そこで、白銅は初めて孫権達の存在に気付いたらしい。
きょとんと首を傾け、周瑜の言葉を半芻すること暫し、理解した途端失笑した。
「そんな尚香だなんて。いつまでも入れ物の名前で呼ばないで下さい」
心底おかしそうに言う。
「入れ物?」
周泰の背に庇われた孫権の声は震えている。
『入れ物』の兄を小馬鹿にするような目で一瞥した白銅は、鼻を鳴らした。
「ああ……でもとてもいい入れ物だったわ。とても健気でいじらしい娘……」
溜息をつきながら白銅は血にまみれた手で己の胸を撫でる。
「だけど意外と強情だった……。だってこの体ちょうだいって言ったのに、結局最後まで手放してくれなかったもの……。自分から手放してくれなきゃ、流石の私も、完全に自分のものに出来ないわ……」
「それって……」
「この娘は、ただの器。……お兄様、忘れてしまったの? 私の名前は、白銅……。そしてあなたは、三百年前この大陸を恐怖で埋め尽くした、伝説の大妖怪……」
金眼。
まるで愛おしい恋人の名を紡ぐように。
白銅はうっすらと笑みを浮かべ、幸せそうにその名を呼ぶ。
刹那、どくりと劉備の中で異物が大きく脈動した。
駄目だ。
いけない。
劉備の頭の中で警鐘がけたたましく鳴り響く。
「私たちは、同じ地脈の気より生まれ出でし兄妹。お兄様は私のすべて……私の愛……」
また接近しようとしてくる白銅から、劉備は大きく距離を取った。
白銅は寂しげに眉を下げた。
「……覚えていらっしゃらないのですね。でも、私はそれでも構いません。こうして、お兄様のおそばにいられるだけで、私は幸せなの……」
劉備は何かに強く殴られるような感覚に襲われた。
大きく脳を、意識を揺さぶられ、その場に膝を付く。
胸が痛いのか、頭が痛いのか、痛いのではなく熱いのか――――。
「ああ、可哀想に、お兄様。そんなところに閉じ込められて……苦しいのですね?」
ダンッ。
白銅が憎らしげに床に足を叩きつける。ミシリと悲鳴を上げ僅かに凹んだ。
「ああ、劉光が憎い! 憎い! 憎い! あの者の刃で、お兄様は討たれ、私は、私は、あの女に……!!」
ダンッ。
ダンッ。
ダンッ。
白銅は何度も何度も床を踏み付ける。
やがて、耐え切れなくなった床板に穴が開いた。
床抜けする程八つ当たりして、少しは落ち着いたようだ。
「お兄様は、呪いという形で、劉家の血の中で生きるしかなかった……」
白銅の目が、劉備を真っ直ぐに見据える。
一瞬、金色の凶悪な色が瞳に写ったように、劉備には見えた。
「ああ、お兄様。私は、お兄様をその忌まわしき血の中から助け出したい!」
その為だけにこの戦を起こしたのだと、白銅は高らかに語る。
人間の血で船が、河が染まっていくに連れ、人間達の憎悪も恐怖も悲しみも膨れ上がる。
それらは全て、金眼の糧となる――――。
ざわざわと身体の奥底で轟く異物が、勢いを増して行く。
歓喜している。
僕の中の金眼が。
抑え込もうと抗うも、勢いは急速に強まっていく。
助けて。
助けて。
興覇――――。
だが、さっきまで劉備を励ましていた声は、聞こえない。
そこへ、
「……白銅といったな」
孫権が白銅に向けて矢を番えて、声色低く脅す。
「尚香を返せ」
「それで脅しているつもり? 矢を受けたからって、力を蓄えたからどうってことないわ。なめないでくれる……?」
白銅は孫権を嘲笑う。
「でももう身体も必要ないかしら……? さっさと捨てて、私はお兄様と永遠に一緒にいようかしらね……」
「なんだとっ!」
「こんな異常な陰の気が充満してるなら、こんな器に入っていなくても十分一人で動けるわ! まあ、結構居心地は良かったけどね? この身体、嫉妬と悲しみで溢れていたから……」
「な、何を言っているんだ……」
白銅は、くすりと嗤う。
孫権は奥歯を噛み締めた。
ただの人間に過ぎぬ己には、この一矢でこの女妖を討つことなど出来ぬ。
それが、堪らなく悔しい。
「でも、もう十分。これで思う存分、殺せるわ……」
すべては愛しいお兄様のため。
甘ったるく言い放った言葉は、劉備――――彼のうちに息づいている者へ向けられている。
その凶悪な誘いに応えようと、金眼が暴れ始める。
このままでは、危険だ。
孫権が、周泰が、周瑜が、僕に大切な仲間が――――。
「さあ、お兄様! 血に狂い、大河を赤く染め上げましょう! かつてのように、数百万の屍の上に立ち、高らかに哄笑を響かせる妖怪! それこそが、私のお兄様!! この戦場に集った人間たちは、そのための餌。曹操軍の愚か者も! 呉の痴れ者も! みんなみんな、お兄様のための贄!」
殺せと、白銅は促す。
人間を殺し尽くせと。
今こそ復活しろと。
「ほら! 狭い器から抜け出して、暴虐の限りをつくしましょう!」
白銅が、哄笑する。
両手を広げ、全身から真っ白に澱んだ光を放つ。
視界が、おどろしき光に塗り潰された。
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