馴染みのある邪気。
 自分にではなく、自分の中に潜む悪意の塊が、その存在を知っている。

 間違い無い。
 この気配は――――《彼女》は。


「白銅……」


 劉備は我知らず呟いた。



‡‡‡




 不自然に周りの戦況が《崩れて》いる。
 そう感じた張飛は周りを見渡しながら襲い来る曹操軍をいなしていった。

 近くの船を見れば曹操軍兵士のほとんどが戦意を喪失し、何かに酷く怯えた様子で猫族にも呉軍兵士にも目もくれずに曹操軍本陣とは真逆、敵本陣の方角へ逃げていく。

 こちらでは、現在猫族へ攻め寄せる兵士らも同胞の異変に戸惑いを露わにしつつ、剣を振るっていた。


「いったい、どうなってやがるんだよ。これ。姉貴とか大丈夫かな?」

「まったく、大混乱だぜ。関羽達もどこ行っちまったのかわかんないしなっ! ほらよっと!」


 背後から躍り掛かった敵兵の一閃を関定は軽々と避け、うなじに得物の柄を叩き落とす。傾いた敵兵の身体を蹴りつける。

 敵兵は転がり、呻く。
 取り落とした剣を、蘇双が蹴り飛ばした。

 三人は背中を合わせ周囲の敵を睥睨(へいげい)する。

 周りを見渡しながら、蘇双は耳を動かす。


「さっきから、化け物がどうとか言ってる声が聞こえるけど。まさか……」

「……白銅か?」


 張飛の言葉に、関定が青ざめる。


「いや、待て。白銅じゃなくて関羽かも知れないぜ? アイツ、怒ったら化け物並に怖いだろ」


 真顔で言う。

 それが関定の現実逃避であることは蘇双も張飛も分かっている。
 呆れ顔で溜息をついた。


「関定、それあとで言っておくね」

「お願い! ヤメテ! ちゃんと現実を受け止めるから!!」


 張飛は関定の頭をはたき、「白銅……」もう一度、その名を呟く。


『死人だ。華佗――――お前らが恒浪牙と呼んでる男の古い知り合いだよ』


 幽谷の身体を一時的に借りていると言った、恒浪牙の知人。

 彼女へ感じた違和感は、開戦前尚香と共に死んでしまったと思われていた幽谷が本陣内を歩いて大騒ぎになったあの時からあった。
 駆けつけるのが遅かった張飛は、分厚い人垣越しにしか彼女を見ることは出来なかったが、それでも彼女の挙動に違和感を覚えたのだ。
 その正体が、まさか戦場で明らかになるとは思わなかった。
 名前も、幽谷の身体を借りることになった詳しい経緯も聞く暇は無かったが、悪い人物ではないと分かっただけで今は十分だ。


「姉貴と幽谷のこと……頼んだぜ」


 拳を握り直し、張飛は一つ深呼吸。

 この戦場が人外の領域に在ることなど、連合軍はとうに分かっている。

 なら―――オレ達は、何が起きても臨機応変に、冷静に自分達の戦いをするだけだ。



‡‡‡




 白銅が現れた。
 劉備は肌で感じて確信した。

 尚香の身体を借りて暴れ回っているのだ。

 急行しながらそれを話すと、孫権は手にした弓をキツく握り締める。

 孫権にとって、尚香は唯一の家族。
 白銅に利用され命を落としただけでなく、死した後も残酷な扱いを受けている。
 許せる筈がない。

 だが許せぬからと言って、大妖相手に仇討ちなどは無謀だ。
 甘寧が尚香死した後も隠し通そうとしていたのは、きっと孫権が復讐心に囚われ無駄死にする恐れもあったからだろう。

 今の自分達の行動は甘寧の意思に反している。
 四人揃って彼女に怒られてしまうだろう。

 そう。
 怒られるだろう。

 きっと。

 全て、終わってから。

 あの人を死なせたくない。
 ここであの人を終わらせたくない。

 『守られる劉備』のままで、終わりたくない――――。

 劉備は奥歯を噛み締める。

 その時だ。
 何かに気付いた周泰が前に飛び出し孫権らを止めた。


「どうした、しゅ」

「う、うわああああ! 化け物! 化け物だぁぁっ! 逃げろ! 逃げろぉぉぉっ!」


 孫権の言葉を遮り、数十人の曹操軍兵士がまろびながらこちらへ走ってくる。しきりに後方を気にしていた先頭の兵士は周泰に気付くと足を止めてよろめき、別の兵士に押されて倒れた。
 すぐに立ち上がり、四人の脇を通過していく。

 彼らを見渡し、周泰が眉間に皺を寄せた。


「向こうの船も、似た状態か」

「どうなってんだよ、これ。曹操軍の連中、四方八方に逃げ出してるぜ」

「ああ……」


 状況を聞こうとしたのだろう。周泰が一人の兵士の肩を掴んで引き留める。


「はっ、放せ! 放してくれえええっ!」


 恐慌極まりもがく兵士を周瑜が宥めて何事か問い質(ただ)す。


「そ、曹操様……曹操様でも勝てなかったんだ! あんな女、見たことない!」


 『女』
 その単語に四人同時に反応する。


「その女とは……やはり尚香なのか」

「ってことは、やっぱり白銅が……」


 孫権は周瑜と顔を見合わせ、手にした弓を見下ろす。目を細め、唇を引き結ぶ。

 劉備は敵兵が逃げてきた方を見やり、よろめいた。
 周瑜が咄嗟に支えるも、足に力が入らずにその場に座り込んでしまう。


「劉備。大丈夫か?」

「う、うん。だけど……ものすごい邪気だ」


 きっと、近くに白銅がいる。
 このまま近付けば、僕は……暴走するかもしれない。

 皆を危険な目に遭わせてしまうかもしれない。
 そうなれば、あの官渡の地で自分達の為に幽谷がしたことが全て無駄になる。

 劉備は深呼吸をして、自身に言い聞かせる。
 大丈夫……僕は、大丈夫。


『そうだ。お前は大丈夫だ。行きなさい。怯えずに、真っ直ぐに、希望を持って』


 また声。
 大事だった者の幻聴。
 背中を押してくれる。
 一人じゃないと鼓舞してくれる。

 劉備は深呼吸を一つして、立ち上がる。


「大丈夫か」

「うん。……急ごう」


 腹に力を込めて、言う。

 周瑜は頷いた。


「じゃあひとまずは曹操の所だな。教えろ。曹操の船はどこだ!」

「ひいっ! そ、曹操様の船ならそこに……」


 震える手で後方を指差した敵兵は、次の瞬間には首を大きく振り頭を抱えた。


「オ、オレはもういやだああああああ!」

「うわっ!? あ、おい!?」

「アイツだ! アイツが見ている! うわぁあああああっ、アああアァァあぁぁ――っ!!」


 恐怖のあまり、もう狂ってしまっている。
 すでにこの船を過ぎてしまった仲間を追いかけて、敵兵は逃げていった。

 孫権はその背を痛ましげに見送り、彼が示した船に視線を移した。
 すっと目を細める。

 一見、その船には誰の姿も無いようだ。


「あれが曹操の船か。だが、もぬけのからのようだ」


 曹操は何処に……言い掛けて、口を噤む。


「いや、誰かいるな」


 船縁にふら、と立ち上がった影があった。
 小さな影だ。
 あの小柄な体格、曹操では――――否、男ですらない。

 じいと見つめ、孫権は目を剥いた。
 あれは……。


「あれは……まさか!」


 劉備が声を荒げる。


 その影は小さな小さな――――真っ赤な姫君だった。


 尚香……。


 孫権が声もなく、影の名を呼んだ。



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