3
愉しげな甲高い笑い声は酷く耳障りだ。
人を殺し、血肉をまき散らすことの何がそんなに愉しいのか。
人間の俺には分からない。分かりたくない。気持ち悪い。おぞましい。
利天は船上から俊敏に動き回る孫尚香の姿をようやっと見つけ、睨めつけた。
胸の内にざわざわとした不快感がとぐろを巻いてるような感覚に、舌を打って後頭部を掻く。
これは利天ではなく、幽谷の感情だ。犀家ではなく、狐狸一族の幽谷の。
主の姿で無慈悲に醜く嗤(わら)い、可憐な小さき手で兵士達の喉笛を握り潰していく姿に、押し殺しようのない憤懣(ふんまん)を感じてるのだ。
孫尚香の身体を使って、白銅は舞台を整えている。
金眼と玉藻の為に。
止めろ。
そんなことに尚香様を使うな。
あの人をこれ以上辱(はずか)めるな!!
内側から幽谷の怒号が聞こえる。
彼女を宥めるように利天は首元をそっと撫でた。
落ち着け。
俺が今、止めに行く。
これ以上あいつに曹操軍を壊させてはいけない。
あそこは、李典の帰る場所だ。
守らなければ。
全てが終わった時、安心して帰れるように。
即座に返る抗議の意思に、利天は舌打ちした。
「寝言は寝て言え。冷静さを欠いた状態で白銅を相手に出来るか。それに自分の主の身体だ、傷つけたくはねえだろ」
未婚のまま死んでしまった娘の身体を傷つけることは、利天も避けたい。
白銅を孫尚香の身体から追い出すことが最良の方法。
その手段は危ういが……仕方がない。
「劉備と接触させて、身体を捨てたその一瞬でしとめるしかねえな……」
と、利天の独白に抗議するのは、犀家の幽谷。
万が一、白銅が尚香の身体を捨てる前に劉備が金眼の力に狂ったらどうするのかと。
だがそれ以外、利天に良い策は無い。
これよりも良い案は、どちらの幽谷にもあるまい。
孫尚香の身体を傷つけずに白銅の身体を追い出せるような術など、狐狸一族とは言え、四霊とは言え、全く扱えないのだから。
出来ることと言えば、白銅が劉備の中の金眼を揺さぶるような言動をなるべく阻害(そがい)してやることくらいだ。それも、尚香の身体を傷つけぬように。
「ここでああだこうだ議論している暇はねえんだ。行くぞ」
白銅が移動を始めた。
利天は会話を無理に中断させ跳躍した。
狐狸一族の身体能力を遺憾なく発揮し、移動しながらも惨状を広げていく白銅を追いかける。
追いつくと同時にその辺の兵士から奪った槍を突き出した!
貫く寸前尚香の小柄な身体が消える。
容易く回避されることを分かっていた利天は自身に影が降りた瞬間に前に前転した。
立ちながら身体を反転させ槍を盾に素早い一閃を受け止めた。
長く伸びた爪の鋭利な先が眼前に迫る。
無垢な少女のものとは到底思えぬ膂力(りょりょく)で槍の柄を押してくる、白銅。
尚香の顔に冷酷な表情を浮かべている。
白銅は利天の顔をじろりと睨め上げ、「あら」驚いたように目を丸くした。
「あなた、確か……」
「……」
利天は無視して白銅を押し返した。
眉根を寄せた白銅は跳躍して利天と距離を取った。
利天をじっと見つめて、首を傾げる。
「記憶違いだったかしら……あなた、私の侍女でしょう? 侍女のあなたが、私に刃を向けるの?」
「悪いな。今のお前と同じで、この身体を動かしているのは元の持ち主じゃねえ」
怪訝そうに眉が顰(ひそ)められる。
利天は肩をすくめた。
「幽谷の代わりに、白銅とか言う化け物を孫尚香の身体から追い出しにきた」
親指で自身を示しながら告げる。
白銅は目を細めた。
くすり。笑う。
「私を? この子の身体から? どうやって? あなたに出来るの?」
嘲笑する白銅。
こちらの言葉から自身の器が恰好の人質になると理解したらしい。
勝ち気な、それでいて無邪気で残虐な笑顔だ。
生前の彼女を知らない利天でも気持ち悪いと思える程、孫尚香の愛らしい顔にその表情は似つかわしくない。
器を捨てたら、速攻でぶん殴ってやる。何発も。
嫌悪感を表に出さぬよう押し殺し、利天は槍を片手で軽々と回して見せた。
「その身体を傷つける訳にはいかないが……躾のなっていない大型猫にはこれしかねえよな」
ふふふ、白銅が笑声を漏らす。
「あらそう。この身体に傷を付けるつもり? 幽谷……だったかしら。良いの? 彼女の大事な大事な主の身体を痛めつけても」
「崇めるべき女性を傷つける気は無い」
「私も女よ?」
「お前は血に飢えた醜い雌猫だ。不思議だな。お前を見ていると、誰のとも知れない糞に群がる蝿の方がまだ綺麗に思える。純真無垢な愛らしい姫君の器を借りても所詮その程度ってことなんだろうな。それでよく、あの金眼の隣に並ぼうと思えたもんだ」
「純真無垢? あの子が純真無垢!」
不意に白銅が声を大きくした。
「知らないの? この子の中、凄く居心地が良かったの。だって心の中は嫉妬嫉妬嫉妬! 気持ち良いくらい澱みが渦巻いていたわ。それなのに純真無垢だなんて……! ふふ……あははははっ! ああ、おっかしい!」
堪えきれずに失笑し出す彼女に、利天は眉根を寄せた。
……そういや、劉備と婚約してたんだったか。
劉備が同盟の為、猫族の為、嫌々結んだ婚約。しかし孫尚香は劉備に本気で想いを寄せていた、ということか。
どうやらそこにつけ込まれたらしい。
恋をすれば誰しも嫉妬心からは逃れられない。
大切に想う相手が、自分と違う異性に心を向けることを恐れるのは、男女問わず至極当然のこと。
嫉妬とは、厳密に言えば妖が好むような澱みではないと利天は思う。
そんなもの、好きになれば誰だって抱く感情。それに対し自分が罪悪感、後ろめたさを感じたり、悪い方法で発露させた時などに、醜く澱んでしまうと。
孫尚香は、純真さ故に自身が抱いた妬心を汚らわしく思い、そんな自分が嫌いになっていたのだろう。そして誰にも言えずにずっと秘めて……もしかすると白銅が内側から助長したのかもしれない。尚香の身体を乗っ取る為に。
本当に……言うことやること全てが汚い雌猫だ。
さっさと追い出してやらねえと。
利天はもう一度槍を回した。
「彼女が本当に良い娘だったのは分かった。さっさと出て行ってもらうぞ」
「出来るの?」
「大事なのは可能か不可能かじゃなく、やるかやらねえかだ」
劉備がこの騒ぎを聞きつけて白銅に会いに来るのを待つだけだ。
あいつが来るか分からないが……その時は劉備のもとへ誘導してやれば良い。
また抗議に胸がざわめいたのを利天は無視し、白銅へ肉薄する――――。
.
- 196 -
[*前] | [次#]
ページ:196/220
しおり
←