劉備と孫権らの乗る船が見える位置に待機していた蒋欽は、その気配を捉えた瞬間、胃の腑を震わす程の大音声を上げた。


「曹操軍!! 呉軍!! 猫族!! 人の子らよ!! 今すぐに武器を納め撤退せよ!! 我が弟達よ、これよりは人の子を等しく守れ!!」


 風を操り我が声を乗せ、弟達へ、人の子達へ指示を届ける。



‡‡‡




 何処からともなく聞こえてきた鼓膜を容赦なく殴りつける声に、夏侯惇と刃を交えていた狐狸一族はあっさりと身を引き翻した。


「なっ!? 貴様……!」


 追おうとした夏侯惇は、しかし狐狸一族の表情に動きを止めた。

 狐狸一族は夏侯惇と相対していた時よりもずっと緊迫した面持ちで空を仰ぎ、かと思えば周りを見渡している。
 苛立ち、焦り、恐怖――――それらが混じった顔は、何かを強く警戒している。

 夏侯惇は、その様子から得体の知れない何かを察した。


「全員戦いを止めろ!!」


 周囲の部下に命令する。
 彼らがぎょっとして上司を見たが、夏侯惇が睨むと逆らわずに従った。

 昨晩の孫尚香や李典の異常行動を見てからずっと、夏侯惇の胸中に言いしれぬ不安感が蟠(わだかま)っている。
 自分達の領域の外で、何か……よく分からない異物が蠢いていると、そんな気がして落ち着かなかった。

 戦に出ればそんな雑念は消えると思っていた。

 だが――――いざ戦の喧噪に身を置いてみると、それは強まる一方だ。
 この場に長く留まってはいけないと、自身の《経験》が告げているような……。

 おかしな話だ。
 自分にそんな非現実的で不吉な経験、ある筈がないと言うのに。

 しかし今狐狸一族の変化を見て、胸は更にざわめきを強める。無視してはならぬ不吉を訴えてくる。

 夏侯惇は狐狸一族に近付いた。


「……おい、何が起こった」


 狐狸一族は険相を崩さず夏侯惇を振り返る。


「金眼が暴れた時代、奴の他にも多くの異形がいたことは?」


 張遼が話していたことだ。
 夏侯惇は頷いた。


「その中に、白銅っつー金眼の妹分って言うか、まあ、結びつきの強い奴がいたんだよ。それが、今この戦場に現れた。お袋が白銅の相手をしている間に、敵味方関係なく人間達を避難させるように指示されてる」

「俺達に撤退しろと?」

「お前らだけじゃねえ。呉軍と猫族も――――」


 ごおぉん。


「「!!」」


 強烈な閃光が眼球を貫いたと同時に船体が大きく揺れた。
 未だ船上に不慣れな夏侯惇はよろめき、転倒するところを狐狸一族に支えられた。


「大丈夫か?」

「……っ、な、何事だ!?」


 目が眩んだ夏侯惇はその場に膝をつき、瞬きを繰り返す。


「分からねえ……けど、光った瞬間嫌な感じが一気に強まった。もしかすっと、白銅のものかもしれない」


 この近くにいやがるのかも……。
 恐怖とも怒りとも取れる震えた声を絞り出す狐狸一族。

 彼の不穏な言葉を聞いて夏侯惇は全身から血の気が引いた。

 この近くには、曹操と賈栩がいるのだ。

 まさか曹操様を襲ったのでは!?
 視界もままならぬ状態で、夏侯惇は立ち上がった。

 多少の揺れは残っているが走れる程度には収まっている。
 視界も、閃光を受けた直後よりは幾らか回復している。

 行かなくては。

 曹操様をお守りせねば!!


「おい、何してんだ! もう視界は良いのかよ?」

「そんなことより、早く曹操様のもとへ向かわねば……!」

「あっ、おい! まだふらついてるじゃねえかよ、あんた!」


 夏侯惇を引き留めようとする狐狸一族を振り払い、剣を抜いて駆け出す。

 が、また船体が揺れた。


「く……っ!」

「ほら! 無茶すんなってば! そんなに心配なら、俺が保護しに行ってくるから……」

「その必要はねえ!!」

「おわっ!?」


 どんっ、と重量のある物が落ちる音が聞こえた。


「お前は、っ……だ、大丈夫か!?」

「……っ?」


 狐狸一族は驚きからか一瞬詰まらせ声を裏返らせた。

 先程の声は幽谷によく似ていたが、幽谷はあんな風に荒っぽくはない。
 夏侯惇は正確に捉え切れぬ視界に、彼女らを収めた。

 輪郭は瞭然としないが、辛うじて二人の人影は分かる。


「う、ぅ……っ」


 聞こえた呻きに、夏侯惇は即座に反応した。


「この声は……!?」

「おい! こいつ、もしかして……!」

「ああ。俺が連れ出した。……曹操だけ、辛うじてな」


 気を失ってるが命に別状は無い。
 疲労が僅かに滲んだ声で告げられた名前に夏侯惇は身体から力を抜いた。

 しかしこの女……口調がまるで男ではないか。
 幽谷の声にそっくりなだけに、粗暴な言葉遣いは違和感が強く、小さな嫌悪も抱く。


「曹操とこいつらを、急いで避難させろ。この近くに白銅が出た。関羽もいたんだが、安否は分からねえ」

「関羽って、あの猫族の娘が!?」


 ふらり。
 片方が立ち上がる。恐らく、言葉遣いの乱暴な女の方だ。


「お、おい、何処に行くんだよ」

「戻る。関羽の安全を確認した後、なるべく白銅を足止めしておく。その間に少しでも多く逃がしとけよ」

「じゃあ俺も!」

「馬鹿。勝手なことをしたら、お袋さんに怒られちまうだろ」

「あっ、おい!! 待てって……!」


 女は狐狸一族の言葉を一蹴し、船から跳躍。別の船に軽やかに移動した。

 この時すでに夏侯惇の視界は元に戻りつつあったが、その姿をはっきりと見たのは女の後ろ姿。


 衣服は違うものの、背丈と黒髪も幽谷に似ていなくもないように思えた。



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