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「戦局はどうだ?」
船縁にて戦場を見渡す諸葛亮が、戦場より戦況報告の為戻った猫族の男に静かに問いかけた。
平静を装いつつも、顔色は悪く、額には脂汗が浮いている。
猫族の男は彼の様子を不安そうに窺いつつも、視線に促され口早に報告する。
「張飛たちが、先陣きって敵陣に切り込んでいってくれてる。そろそろ、誰か一人は曹操の船にたどりついているんじゃないか?」
「た、大変だー!!」
男の言葉尻に重なり、船の下から別の猫族の悲鳴が響いた。
長身の周泰がいち早く下を見下ろしたのに続き劉備と孫権が身を乗り出し覗き込めば、そこには偵察用の小型船が。青ざめた猫族が必死に手を振っている。
「ば、化け物が出た!! 化け物が暴れまわって曹操軍の方が大変なことになってるみたいなんだ!」
諸葛亮は瞠目、戦場に視線をやった。
「なんだと?」
「すでに船がかなりの数沈められてる!」
「もしかして白銅?」
焦った劉備が問うが、
「分かりません。ただ、情報によると化け物は女の姿で……尚香様にそっくりだったと」
「何……」
愕然と漏らす孫権を見やった劉備は、諸葛亮と目を合わせた。
諸葛亮はみたび戦場を見据え、「白銅……」小さく漏らした。
劉備が己を見て口を開いたのに先んじて、
「白銅出現の際の対処法は用意しています。私がなんとかします」
と。
言外に戦場に出ることを制した。
されども、劉備は首を左右に振った。
「いいや諸葛亮、やっぱり僕は行くよ。行かなくちゃいけない。……止めても無駄だ」
白銅。尚香を死に追いやった遙か昔の大妖にして、自らのうちに潜む呪い――――金眼に縁のある異形のモノ。
尚香の姿で暴れ回っているのなら、それは白銅に間違いない。
白銅が動き出したことはもう甘寧にも伝達……否、彼女自身が察知しているだろう。すでに白銅を迎撃せんと移動している筈。
甘寧に任せてはいけない。このまま甘寧に守られていてはいけない。
白銅のもとに行けば自身も金眼の呪い呑み込まれる可能性が高い。
劉備もそれが怖い。呑み込まれて呉軍を、曹操軍を、猫族までも傷つけてしまうことが……何より呪いに負けることで関羽を悲しませ、幽谷に見放されることが、どのような死を与えられるより恐ろしい。
だけど、だからといっていつまでも逃げてはいけない。守られてはいけない。それじゃあ何も変わらない。
白銅は金眼を求めて戦場を荒らし回るだろう。
劉備を戦場に出さなかった猫族を殲滅にかかるやもしれぬ。猫族が、関羽が、劉備の為に果敢に立ち向かっていくかもしれない。
猫族の長でありながら、猫族の皆が殺されていくのを何も出来ずに見ているのか?
張飛も、関定も、蘇双も、趙雲も、諸葛亮も。
……関羽も幽谷も。
それなら、劉備は立ち向かいたい。
甘寧に《安全な場所で守られる長》と思われたまま終わらせたくない。
僕だって皆を守りたい。
その為に、この姿になったのだから。
決然たる目で諸葛亮を見つめていると、
『お前は大丈夫だ』
不意に、耳元で声。
劉備ははっとして振り返る。
が、そこには誰もいない。
けれど。
『劉備。俺がいるから大丈夫だ』
また声だ。
懐かしくて苦しくなる、優しい声だ。
前にも、この声を聞いた。
きっとこれは僕が望む幻聴だ。
こんなものが聞こえるくらい自分は弱っているのかと情けなく思った。
下唇を噛み締め、俯く。
声は、穏やかに劉備を励ます。
『共に行こう。俺が支えてやろう。暴走した時にはお前がお前の宝物を傷つける前に俺が必ず止めてやろう。恐ろしいことなど何一つ無い。ほら、俯いていないで顔を上げなさい。お前はお前の望む未来だけを見ていなさい。希望は強ければ強い程光を増し、どんな闇でも祓ってしまうのだから。行くならば希望という光を胸に、視線をひたすら前に』
「劉備様? いかがされました」
「何でもない。とにかく、僕は行くよ。……大丈夫だから」
劉備は深呼吸一つして首を左右に振った。
都合の良い幻聴だ。
彼はもう僕の傍にいない。
僕が消してしまったから。
それでも、彼の言葉に安堵する。緊張していた身体から要らぬ力が抜けていく。
ごめん……本当にごめん。
こんな時に君に勇気を貰おうとしている。
あんなに大事に思っていた君のことを、ずっとずっと忘れていたのに。
呪いを解放してやっと思い出した薄情者なのに。
こんな時に。
『構わぬさ。俺達の友情は何をしても揺るがない。そう言ったじゃないか。さあ、行こう。《お前の力》でお前の大好きな猫族(いえ)を守りに行こう』
「私もやはりじっとはしておれぬ。急ぎ周瑜を戻し、共に前線に向かいたい」
孫権の言葉が重なるが、劉備が作り上げた主の姿無き声は劉備の胸に浸透する。
今だけだ。
今だけ、この勇気を貸していて欲しい。
胸を押さえ、劉備は諸葛亮を真っ直ぐ見据える。
「お願いだ諸葛亮、事態は急を要する。暴れている化け物はきっと白銅だ。昨夜の約束を違えてしまうことになるけれど、僕に、今度こそ猫族を守らせてくれ」
諸葛亮は顔を歪めた。苦しげな表情で劉備を見つめ、やがて溜息をつく。
「……わかりました。指揮は私がとります。劉備様は孫権様と向かってください」
「ですが」諸葛亮はそこで一度言葉を区切る。劉備、孫権と視線を移し、
「気をつけてください……。白銅が出た今、この戦場は、何が起こるか分からない。玉藻という脅威がいつ現れるか分かりませんから。その時、甘寧様のお力が……」
諸葛亮は最後まで言わなかった。
だが言わんとしていることは劉備にも分かった。
甘寧の弱った姿を思い出すと、胸が締め付けられる。
あんな状態で白銅と玉藻を迎え撃とうなんて、無謀にも程がある。
いや、そうさせたのは自分の不甲斐なさ故か。
これ以上情けない醜態は曝せない。
甘寧の宿願は実の姉、玉藻を倒すこと。
僕が白銅を倒せればあの人は玉藻に集中出来る。
それでも彼女が勝つ可能性は極めて低いけれど、少しでも希望の光が差し込むならば……。
希望を持てと《彼》は言った。
だから、僕は――――。
「ああ、ありがとう諸葛亮……。ここは任せたよ」
「私も周泰と周瑜がついていれば問題ない」
孫権が見上げるのへ周泰は大きく頷いて返す。今も彼の顔色は悪いが、体調は幾分か回復しているらしい。
「……劉備殿、行こう!」
「ちょっと待った!」
頷き合った劉備と孫権に待ったをかけたのは、呼び出すと言ったばかりの周瑜。急いできたのか息が荒い。
孫権は目を瞠って周瑜に駆け寄った。
周瑜に頭を軽くはたかれ、きょとんとする。
「周瑜?」
「人を呼びつけておいて、合流待たずに行こうとするなよ……!」
「呼びつけた? 誰が……」
「お前が急いで戻れって兵士を走らせたんだろうが!」
「……何?」
孫権の反応に周瑜も眉根を寄せた。
「違うのか?」
「私は今、お前を呼びに行かせようとしていたところだった」
「はっ? じゃあ……」
周瑜が劉備と諸葛亮、周泰を見る。
だが三人共、首を横に振った。
「孫権じゃない。周泰でも諸葛亮でも劉備でもないなら、一体、誰がオレを……」
「……いや、そんなことは今は考えまい。それよりも早く向かおう」
「……そうだね。行こう」
そんな些末なことを考えている暇は無い。
とにかく、急いで白銅のもとへ……。
ざわり。胸がざわめく。
これは不安と危機感だ。
大丈夫。
大丈夫。
大丈夫。
今だけ、彼に勇気を貸して貰っている。
彼の声と共に、前を向いて、自分を強く持って――――。
ごめん。
ごめんね。
興覇(こうは)。
‡‡‡
移動を始めた四人を見つめるのは、諸葛亮と事態の呑み込めぬ猫族だけではなかった。
諸葛亮らの背後に、堂々と仁王立ちしている男がいる。
狐狸一族のあの男である。
ほんの二歩歩けば隣に立てる距離にいながら、諸葛亮らは彼の存在に気付かない。
気付かぬまま諸葛亮は船上と水上の猫族の男に、仲間に白銅の出現と劉備達の援護を急ぎ伝えるよう指示を出す。
男は顎を撫でながら走っていく劉備達の背中を見つめる。
すっと青い目を細めた。薄い唇は笑みを描いている。
それはさながら、息子の成長を喜ぶ父親の表情のようであった。
無言で佇んでいた男は、不意にはっとした。
「いかん、いかん、ぼーっとしている暇は無いのだった。劉備に置いて行かれてしまう」
苦笑いし男も動き出す。
船縁に足をかけ、飛び降りる。波紋を広げ水上に立った。
「姉上よりも早く、到着しなければ」
黒の九尾は水面を疾駆する。
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