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※注意



 ごろり、と男の裸体が地面に転がる。
 じゃり、と砂利を女の白い素足が踏みしめる。

 女は艶やかな黒髪を白磁の如き手で弄びながら、ぴくりともしない男を冷めた空の瞳で見下した。
 股間から鬱血痕で埋め尽くされた太腿へ垂れる粘着質な液体よりもなお白く透き通った柔肌を撫で、鬱々と艶やかな吐息を漏らした。

 激しい情事の影を全身に色濃く残しながらも、女は清らかに美しい。豊満な生気を花の如き甘い香りと変えて身に纏い、その内に秘めたる蜜のように甘く輝かしい魅力が溢れ出る。

 対して、男はすでに命の色を失っている。
 その様相の奇異なること。
 彼の死に顔は恍惚として、甘い幸福感に満ち満ちているではないか。

 女は髪を払った。身体を反転させ、ふんわりと柔らかい甘菓子を彷彿とさせる魅惑的な笑みを浮かべるのだ。

 彼女の正面には一人の兵士がいた。

 曹操軍の兵士である。多少の傷と血が鎧に付いているが、身体には何の損傷は無い。
 されども気だるげに下がった剣の先で地面に蛇行した線を掘りつつ、右へ左へ揺れる頼りない足取りで女の方へ歩いてくる。

 剣が、手から滑り落ちた。大きな金属音が立ち、女は煩わしげに柳眉を潜めた。
 兵士がそれに気付くことはない。

 女の魔性の色香に魅了された哀れな男。今の彼に、すでに自我は存在していない。
 今、彼の意識を占めるのは性欲という生物の本能。
 この女と交わりたい。
 この女を孕ませたい。

 この女と子孫を残したい。

 自分に合った雌と子を成すことで、自分の種を次へ次へと永く繋いでいく――――それは全ての雄の本能が望むこと。

 女の存在感は、それを増長させ、自身にのみ向けさせる。

 そうして、《捕食》するのだ。

 女の後ろには、先程転がした男の他にも大勢の男が全裸となって伏している。彼ら全てに苦痛の色はなく、うっとりとした恍惚の死に顔を晒していた。

 数え切れぬ男の命を喰らっても、女の腹はまだ満たされない。

 女は鼻を鳴らし、顎を僅かに上に向け、高圧的な目で本能の塊とされた兵士を見る。
 す、と右手を前に掲げ、誘うように艶めかしく指を動かす。

 兵士はにたり、と笑った。端から垂れた涎を啜り上げもしない。
 自らを守る鎧を脱ぎ捨て蹴り飛ばし、服すらも荒々しく脱ぎ去っていく。

 女は突進する勢いで飛びついてきた兵士を受け止め、後ろに倒れた。美しい黒髪が紗幕のように地面に広がる。
 足を持ち上げ噛みつく兵士の手を撫で、嫣然と微笑む。

 兵士は、本能のままに女に溺れた。

 そして――――何があったかも分からぬまま極上の快楽に命果てるのだ。


 ごろり、と哀れな死体が地面に転がった。


 女は首を振って立ち上がる。
 また冷めた目で価値の無くなった肉塊を見下し、ふと空を見上げる。

 青い目が、すうっと細まる。


「……そうか。白銅が動いたか」


 紅唇が歪み、嗜虐的な笑みを浮かべる。


「腹はまだ満たされてはおらぬ……が、白銅の暴れる様を見るのも、暇潰しには良いか」


 あれは鬱陶しいが、金眼に似て暴れ様は悪くない。
 共に行動するには五月蠅い子猫ではあるが、白銅がひとたび暴れた後の惨状は金眼には及ばぬとは言えなかなかのもの。
 故に、女は白銅の前に姿を現さぬ。姿を消したまま白銅の暴れ振りを見物するつもりだ。

 まあ……妾の気に入る働きが出来るならば、終わった後に愛でてやっても良いが。

 この戦場には金眼の呪いを受けた劉光の子孫がいる。
 白銅の狙いは、その呪いからの金眼の蘇生。

 その願いが成就すれば、人間達の戦場はたちまちに恐怖で混沌の修羅場と化そう。
 何とも面白き余興ではないか。

 存在を思い出すだけでも苛立つばかりなのだ。あの憎々しい赤狐と相対し我が手をその命で汚すのは考えるだけで不愉快極まる。
 だが殺さねば、永きに渡って閉じ込められた怒りも憎悪も収まらぬ。

 今や赤狐の命は風前の灯火。捨て置いてもそれ程経たずに衰弱死するだろう。
 簡単に死なせはせぬ。
 永年積もったこの激情をその身に刻み込まなければ。

 妾を否定したこと、
 妾を封じたこと、
 妾から狐狸一族を奪ったこと、
 妾を殺そうなどとふざけた考えを持ったこと――――。

 後悔させるなど生温い。
 赦しを乞おうとも決して赦さぬ。赦すものか。


『姉上、姉上。オレ達三人はずっと一緒だろう? ずっと、仲の良い三姉弟でいるんだろう?』


 妾は、決して赦さぬぞ。


「楽に死ねると思うな……甘寧」


 心底憎々しげに、女――――玉藻は呟いた。



‡‡‡




「全然うまくいかない……。どうしてこうなるのよ……」


 関羽の傍に立つのは、間違いなく孫尚香。
 曹操の凶刃に倒れこの河に落水した尚香だ。

 全身を苛む激痛に身動きも声を出すこともままならぬ関羽。声ならぬ声で彼女の名を呼び、冷然としたかんばせを見上げることしか出来ない。今の彼女には現状の把握も難しかろう。

 そんな関羽に、尚香は抑揚に欠けた声をかける。


「……いいのよ、わかってるんだから……。お兄様がここにいないのだって、どうせあなたのせいでしょ……? ……ええ、わかっていたわ。あなたの考えることなんて……」


 そう、わかってた……。
 尚香は息を震わせた。
 獣の唸るような声を漏らしたかと思うと目を見開き大口開けて悪罵した。


「本っ当にどこまでも邪魔なクソバカ女! 邪魔邪魔邪魔邪魔! ほんっと邪魔!! どうせあんたの考えることなんて下らないことなんでしょ!」

「あうっ……!?」


 関羽の身体が跳ねた。

 尚香が関羽の腹を蹴りつけたのだ。

 可憐な姿からはとても想像出来ぬ程の力だった。
 当たり所如何で一介の武人すら意識が飛んでしまいそうな程の剛力を、戦えない尚香が出せるなんて有り得ない。

 喘ぐ関羽に、尚香は下品にも唾を吐きかける。


「下らない下らないくっだらない!! どうしてそんなことするの? ねぇ? どうして? どうして? ねぇ? なんで? なんで!」


 尚香の足が何度も何度も関羽の身体を容赦ない力で蹴りつける。
 蹴られる度に力なく転がる関羽は次第に反応が弱まっていく。

 とうとう呻きすら漏らさなくなった関羽に、ようやっと尚香は足を止めた。

 しゃがみ込み、顔を覗き込む。


「……あら? 死んじゃった? ちょっと強く蹴っただけなのに。今死なれても私、困るんだけど」


 可憐な手で関羽の髪を掴み、持ち上げる。

 ややあって、関羽の薄く開いた口から微かな声が漏れた。

 途端、


「あ、よかった、まだ息してるみたいね」


 尚香は手を離す。

 ごんっと関羽の頭が床に叩きつけられ僅かに眉間に皺が寄った。


「うふふ、そうよね。これぐらいで死ぬような繊細な生き物じゃないものね。無神経で図太い女だもの……よかった。よかったわ。クズ程の価値しかないあんたにも、まだやってもらいたいことがあるのよ」


 私のお兄様のためにね!!
 尚香――――否、尚香の姿をした何者かは、高らかに哄笑する。

 彼女の言葉に、まだ微かに意識の残る関羽は内心首を傾げる。


「お……兄様……? 孫権様の……こと……?」


 彼女は酷薄な笑みで鼻を鳴らす。


「孫権? そんな奴が私のお兄様なわけないじゃない」

「え……?」


 彼女は打って変わって恋する乙女のように頬を赤らめた。
 自身の身を抱き締め、うっとりと熱のこもった吐息を漏らす。


「お兄様は、私と同じ地脈の気より生まれ出でし者……私の愛……。ずっと待っていたわ……! この三百年間ずっとね!!」


 何を、言っているの……。
 分からない。

 分からないけれど、その言葉に潜む得体の知れないモノははっきりと感じられる。

 おぞましい何かが、尚香の姿で何かを企んでいる――――。

 また、蹴られる。
 今度はこめかみ。
 一瞬、刃物で貫かれたと錯覚した程の激痛と、頭の中心が大きく揺さぶられる感覚に、関羽の意識は限界だった。

 瞼が退がる。
 身体から己が遠ざかっていくぞっとする浮遊感の中、輪郭を映せなくなった瞳が不穏なモノ捉えた。

 孫尚香の身体を、何かが覆っている。

 ……光?

 とても白い、光。

 真っ白いのに、なんて……禍々しい。

 これに似たモノを、わたしは見たことがある気がする。

 何に似ているのだったか。
 それを考える前に、関羽は意識を完全に失った。



●○●

 はらころは十章まで続きます。
 まだまだ頑張らなければ……!



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