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何言ってるの!?
関羽は声を上げようとして、鋭い眼光に口を噤んだ。けれど、非難がましい目で見上げてしまう。
曹操が軍を引く訳がない。
李典のことを案じていたとしても、部下一人の為に曹操が撤退するなんて絶対に有り得ない。
利天だってそのことは分かっているからここまで強行突破してきただろうに――――ここまで来て本人に撤退を交渉するなんて!
曹操は目を細めて利天をじっと見つめている。
ややあって、
「……どういうことか、一応は聞いてやろう」
利天は頷いた。
「猫族を猫族たらしめた大妖金眼は知ってるな? その同類一匹と、金眼を含む三百年前に人界を蹂躙して回った化け物どもを率いていた女妖がこの地の何処かに潜んでいる。双方今すぐに撤退しなければ、被害は甚大……いや、その言葉で足りるかも分からん」
お前は李典が心底尊敬していた男だ――――利天はほんの少しだけ語調を和らげて、言葉を続ける。
「夏侯惇共々ここで異形に殺されるのを黙って見過ごすのは忍びない。奴らが現れる前に、撤退してくれ」
曹操は沈黙する。感情の一切が抜け落ちた顔で利天を見つめたまま。
それがふと、不敵に微笑んで言うには、
「そう言いつつ、我が首を求める関羽の露払いをしていたところを見ると、私がその言葉に応じることは無いと分かっていたのであろう?」
「……ああ」
利天は肩をすくめた。
「……一応はな。少しでも可能性があるなら、賭けずに棄てたくなかった。撤退する意思が無いならもう俺は何も言わねえ」
数歩後退し、関羽の背中を軽く押す。
「死人が出しゃばるのはもう終わりだ」
「え?」
「お膳立てはもう十分しただろ」
『お膳立て』
その言葉に、関羽はやっぱり、と声も無く呟いた。
やっぱり、この人――――。
関羽は思考を無理矢理中断した。
ついさっき『思案する前に状況を考えろ』と言われたばかり。
確かに曹操を前に考え事などしていられない。
偃月刀を握り直し、大きく一振りして感触を確かめた。
それを視認し、利天は関羽から数歩離れる。そして周囲を見渡し、この船から去った。
きっと、別の味方を援護しに行ってくれたのだろうと、関羽は思う。
言動はともかく実力は自分よりも遙かに上を行く存在が去ったことにほんの僅かに不安を覚えたのも一瞬のこと。
関羽は眦を決して曹操を睨めつけた。
「この戦い、迅速に終わらせるわ。――――劉備の為に」
そう、後ろで皆の無事を切に願っているだろう猫族の長――――いや、自分の大切な人の為に。
関羽は何度も繰り返し、言い聞かせる。
それを、曹操は面白く思わない。
共に生きていくべき愛する同胞の心が、全く別の男にひたに向けられていることが気に食わぬなど、関羽には知る由も無い。
曹操は嫌悪と憎悪を露わに、
「劉備の為、か。……気に入らん」
舌を打つ。
「言ったはずだ。劉備の存在を許す訳にはいかない、必ずこの手で討ち果たすと。そして、その暁にはお前を手に入れると」
曹操の言葉に秘められた甘い狂気に、関羽はぞわりと寒け立つ。
冷や汗がこめかみを伝い落ちる。
「どうして、わたしなの?」
「お前が私と同じ血を持つ者だからだ。この世でたったひとりの、私の同胞……」
「どういうこと……?」
「それは後でゆっくり説明してやろう。まずはお前を手に入れる」
ふわり。
曹操が戦場に似つかわしくない柔和な微笑みを浮かべる。
彼の手が、徐(おもむろ)に剣を鞘から抜く――――。
関羽は唇を引き結び半歩引いて腰を低く沈めた。
柔和な笑みが、消えた。
「よもやお前を無傷で手に入れられるとは思っていない……覚悟しておけ。お前は、私のものだ!」
そう断言する彼の狂気を正面から受けた関羽は声無き悲鳴を上げた。
「安心しろ。決して殺しはせぬ。手足の一、二本はわからんがな!」
本気だ。
曹操はわたしの身体を欠けさせてでも――――!
負けられない。
負けてはいけない……!
曹操には一分の隙も無く、狂気を孕んだ威風は曹操軍の兵とは――――否、武将とも比べものにならない。
さすがは曹操と思いながらも、自分がそれだけの執念を燃やされることに戸惑いを隠せない。
同じ血を持つ同胞と、曹操は言った。
それは一体どういう意味なのか、考える余裕は無かった。
曹操を討つ。
わたしが今考えるべきことはそれだけ。
「どうした、かかってこないのか。安心しろ。兵たちに手は出させん。これは、私とお前だけの戦いだ。私を倒すなどと、大言壮語を吐いてくれたのだ。せいぜい私を楽しませろ」
「余裕ね。だけど、わたしは負けないわ。絶対に、あなたに負けたりなんかしない!」
関羽は腹に力を込めて、駆け出した。
裂帛(れっぱく)の気合いを大音声に乗せ、斬りかかる。
容易く受け止められ、押し返される。
「甘い。その程度で、この私を倒せるものか!」
一瞬よろめいたところへ右肩口を狙い剣を突き出してくる。
関羽は身を捩り紙一重で避けた。
不安定な体勢でありながら関羽は偃月刀を一閃、曹操の脇を狙う。
しかし、
「ほう、やるな。だが、弱いっ!」
「くっ!?」
間一髪反撃をかわす。
曹操は、楽しんでいる。
右へ左へ、或いは前へ後ろへ揺れる不安定な戦場に在って、彼は常と変わらぬ武技を見せる。
幾ら利天のお陰で消耗をしていないとはいえ、彼我(ひが)の差は否めない。
付け入る隙がない。
「やはりお前の武器はその神速か。ならば、逃げられぬようにせねばな」
曹操の目が、関羽の足を捉える。
「今すぐおとなしくさせてやろう!」
曹操が関羽に迫撃する。
鳩尾狙った一薙ぎを関羽が回避したのを、すかさず足へ向けて突き降ろす。
素早く身を引くと更に追撃。
その鋭さに関羽は肝を冷やした。
かわせない!
いや、かわさなければ。
どうやって――――。
「……っ!」
上しか無い!
関羽はほぼ反射的に高く跳躍。かろうじて避けた。
しかし空中では無防備。防御は出来るだろうが回避する術は無い。
防御して上手く着地出来るような攻撃を、曹操がする筈がない。
「愚かな……。跳べば次の攻撃をかわすこともできまい!」
やはり、曹操は強烈な攻撃を繰り出してくる!
が――――。
ごうぅん……っ。
「なにっ!?」
一艘の船が、二人が戦う船へ衝突したのである。
些細な揺れをものともしなかった曹操も、さすがに大きな揺れに耐えきれず、よろめく。
空中に在ったことが幸いして影響を免れた関羽はこの隙を逃さない。
偃月刀の柄を強く握り締める。
討ち取るは、今!!
「曹操! かく――――」
「関羽!! 曹操!!」
逃げろっ!!
何処からか利天の怒号に刃が止まる。
瞬間。
世界が眼球を貫く眩い光で覆い隠された。
目を閉じた瞬間横から強い衝撃を受け、関羽の身体が甲板に叩きつけられる。
息が詰まり、咳き込んだ。
ゆっくり目を開くが、突然の閃光に眩んだ目は、者の輪郭を正確には捉えきれない。
ただ……誰かが、目の前に立っていることは何となく分かった。
「う……い、いったい……今のは……?」
「そう……。やっぱりお兄様は戦場に出ていらっしゃらなかったのね……」
聞き覚えのある声である。
でも、そんなことは有り得ない。
視界が、徐々に判然としてくる。
痛む身体に呻きながら関羽はその者を捉え、顎を落とした。
「しょ、尚香……さん…」
どうして、あなたが……。
孫尚香。
関羽らの目の前で曹操の凶刃に倒れた孫権の妹が、冷めた顔で関羽を見下していた。
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