30
乱暴な戦の喧噪に、波の音が掻き消される。
強い追い風を背に受けながら、戦場を見晴るかす曹操は目を細めた。
「追い込まれているな」
兵士から報告を受けていた賈栩が、側へ戻ってくる。
「曹操様。ここは逃げた方がいいのでは」
曹操は賈栩に顔を向け、口角をつり上げた。
「言葉を選ばぬやつだ」
賈栩は僅かに険しい面持ちで戦場を見、
「敵は、ここが最後の決戦だと強い決意をもって攻めてきてます。そうい言う相手は、面倒ですよ。それに、少々厄介な報告がありました」
曹操は軍師を視線で促す。
「前線の戦況は、呉の水軍が粘っている上に狐狸一族の援護で思わしくありません。更に、すでにこの本陣周辺に十三支の部隊が迫っています。少数ですが、勢いは全く衰えず、止まらない」
「劉備は?」
「報告を聞く限り、彼は来ていないようですな」
「そうか」曹操は視線を前へ戻す。
少し、面白くなさそうだ。
「やはり、劉備は来ていないか。相変わらず、甘い連中だな」
「は?」
目を瞠って訊き返す賈栩を無視し、曹操は確認する。
「先陣に立っているのは、あの娘だな」
「……はい。そのとおりで。更に驚くべきことに、その側に、李典殿に刺されて連れ去られた筈の狐狸一族の四凶の姿もあるそうです」
「何だと?」
曹操の眉間に皺を寄せる。
狐狸一族の四凶、幽谷。侍女として孫尚香と共に曹操軍陣営に現れた女。
思い出されるのは、何もかもが異常だったあの昨夜の出来事だ。
あれから兵士に李典を探させているが、未だ見つかっていない。
あの時の李典は、普段の李典ではなかった。口調も、まとう空気も。
夏侯惇程ではないが曹操とて目をかけていたからこそ、あの夜の李典が別人であると断言出来る。
あの時、あの場で何が起きていたのか、今なお分からない――――。
だが、孫尚香も幽谷も、生きていられる怪我ではなかった。どちらも確実に致命傷だった。
それだけは確かだ。
「何故、幽谷が生きている?」
「分かりません。兵士の報告ですと幽谷は関羽の露払いをしているようですね。その動きを聞くに、とても怪我人とは思えません。ですから、逃げた方が良いと申し上げているんですよ。狐狸一族、或いは四凶であるから、彼女だけが生き残れた。だとすれば彼女の恨みは今曹操様へ向けられています。人の領域を越えているらしい猛者二人、お一人で相手出来ますか?」
言外に自身が戦力外であることを宣言する賈栩。
曹操は一考し、「いいだろう」
「私が相手をしよう」
「正気ですか?」
「ああ。お前は退がっていろ」
奇妙なものでも見るような眼差しを向け、しかし賈栩は命令通り曹操の場を立ち去る。一応、曹操を守る為、兵士を増やして。
幽谷に訊けば、李典のことが――――否、あの場で何が起こっていたのか分かるやもしれぬ。
賈栩の危惧する通り、関羽と狐狸一族の四凶を相手にするのはこの身一つでは危うかろうが……。
それでも李典の生死を確認出来るならしたいと思うくらいには、曹操は李典という武将を気に入っているのだった。
‡‡‡
「いたぞ!!」
警戒を促す鋭い声に、関羽の緊張が一気に張り詰めた。
立ち止まり敵兵から奪った剣を構える李典の隣で偃月刀を構えた。
探し求めていた因縁の敵――――曹操はすでに得物を抜いており、あたかも関羽が我が元へ来ることを待ち受けていたように悠然と佇んでいた。それでも、一切の隙が無い。
関羽を見、曹操は黒い瞳に狂気を宿らせ微笑む。
「いつになく威勢がいいな、関羽よ」
曹操はゆったりと首を巡らし、この大戦の舞台を見渡す。
「さすが呉の水軍だな。狐狸一族の援護を受けているとはいえ、この私の大軍を前に、よく戦う。それにお前たちも見事なものだ。十三支の戦闘能力、改めて見せてもらったぞ」
関羽は偃月刀を握る手に力を込める。
「力み過ぎだ、淫乱」
「……っ!」
ぼそりと呟かれた暴言に反射的に睨め上げると、
ぽん、と。
背中をとても優しい力で、あやすように叩かれた。
驚いて固まっていると、
「俺達が手間取れば間に合わなくなる。呉軍も曹操軍も人外の脅威に蹂躙されるぞ」
幼子を諭すように、忠告された。
打って変わった彼の態度に関羽は戸惑いつつも、そのお陰で身体から無駄な緊張は無くなった。
幸い、ここに来るまで利天が関羽に戦わせなかった所為で体力はさほど消耗していない。
この状態なら、一瞬一瞬の判断さえ間違えなければ、負けることは――――。
え?
そこで、関羽は気付いた。
まさか……まさか?
じっと利天を見上げていると、咎めるように強めに背中を叩かれた。
「思案する前に状況を考えろ」
「……分かってる」
関羽は頷き、曹操に視線を戻す。
曹操は我が軍と呉と猫族の連合軍がせめぎ合う戦場も、関羽も見ていなかった。
真っ直ぐに、幽谷を見ている。
……そうだ。幽谷は曹操の目の前で胸を貫かれたんだったわ。
致命傷を負って連れ去られた彼女が怪我をしているとは思えぬ体捌きでここへ到達するなど、考えられないこと。
無表情に見つめてくる曹操へ、利天はどう対応するつもりなのか。
関羽が利天の様子を窺っていると、利天は徐(おもむろ)に口を開き、
「先に行っておく。今の俺は幽谷じゃねえ」
大昔の死人が、この身体を借りてるだけだ。
利天として、発言した。
曹操は目を剥く。
関羽は青ざめた。
「な、ちょっと、り」
「李典はどうした」
慌てる関羽を遮り、曹操が問いかける。驚いていたのもつかの間のこと、すぐに冷静に立ち直っていた。
「お前が何者だろうがどうでも良い。幽谷の身体を持っているならば、昨夜それを連れて姿を消した李典のことを知っているだろう」
「……臣下冥利に尽きる御仁だな」
利天は口角をつり上げて賊めいた不敵な笑みを浮かべる。
関羽は見慣れてしまったが、幽谷の顔でそんなことをして欲しくない。幽谷はそんな顔、絶対にしない子だもの。
抵抗感が目に出てしまったのだろう、利天にぎろりと睨めつけられてしまった。
関羽が慌てて視線を逸らすと彼は舌を打つ。
「李典は、少なくとも今はまだ生きている。だがこのままだと危うい。そこで、一つ俺から頼みがある」
「……聞くだけ聞いておこう」
「ああ。じゃあ――――」
今すぐこの長江から引いて欲しい。
淡々と、利天は言った。
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