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 周りの敵を殲滅したのを見計らい、利天が関羽に耳打ちした。


「そのまま曹操の船まで真っ直ぐ駆けろ。雑魚は俺が払う」

「でも、それじゃあなたが……」


 「あ?」利天から殺気とも取れる重たい怒気が関羽の口を閉じさせた。


「それは俺に対する侮辱か? 良い度胸だな」


 地の底から這い上がってきたような低い声にぞっとした。
 殺される――――そう本能が察知し、無意識に利天から距離を取った。


「反応も動きも遅い。それが猫族随一の武勇とは笑わせる」

「……」

「戦場に在るうちは微かな殺意も悪意も見逃すな。身内だろうと敵だろうと関係ない」


 利天は関羽を見下した目で関羽を睨めつける。

 関羽は言い返すことも出来なかった。
 それをするには、わたしには《経験》が足りない――――。

 彼の重く鋭い怒気を受け怯んでいるのがその証左。

 人間の華佗だった恒浪牙の腹心の部下であり、異体同心の相棒の実力には、きっとこの戦場の誰も敵わない。

 味方であればこれ以上無く心強いが、敵であれば彼の存在そのものが難攻不落の砦だ。
 危機感にざわめく胸中を、深呼吸を繰り返して宥め、視線を曹操の船へ向ける。

 曹操の船に至るには最短で六隻の敵船を経由しなければならない。


「……忠告、胸に刻んでおくわ」

「刻んでおくだけなら誰にでも出来る」

「……あなた、そんなにわたしのことが嫌いなの?」


 すげない、というより辛辣な言葉ばかりを浴びせてくる利天に、関羽はとうとう文句を言った。

 利天は表情を消し、関羽を見下ろす。
 目を細め、これ見よがしに溜息をついてみせ、


「お前はまだ状況が分かっていないらしいな。下らん話で貴重な時間を潰すな。でなけりゃ何もかも終わるぞ」


 やれやれと言わんばかりに首を横に振り、次の船へ跳躍した。

 関羽は不快感に顔を歪めながらも利天に答えを求めることを諦めた。彼の言葉の通り、少しの時間も無駄には出来ない。一瞬でも早く、人間の戦いを終わらせなければならないのだ。
 飛び移った船の敵兵はすでに利天の刃を受けて半数が沈黙しており、瞬く間に繰り出される凶刃に恐れおののき逃げ腰だった。

 利天は関羽を一瞥し、迅速に兵士をしとめていく。

 自分もと偃月刀を握るも、動こうとした時にはもう船上の敵兵は一人。これも利天が殺めてしまう。

 殲滅すると、利天は次の船へ。
 わざと不快にさせているとしか思えない。

 関羽は急速に募っていく苛立ちを押し殺し、利天を追いかけようとし――――。


「嗚呼、あの男は本当に憎まれ役が上手いのに、本当に似合わない」

「!」


 背後で、声。
 戦場に似つかわしくない、暢気で、愛しげで、呆れた声だ。

 そして、関羽には聞き覚えがあった。

 振り返って、血相を変えた。


「あ、あなた、狐狸一族の……!」


 いつの間にか関羽から三歩程離れた場所に立っていた狐狸一族の男は、やはり戦場には不釣り合いな柔らかな笑顔で、関羽の苛立ちを和らげた。

 こんなところにいては危ない。
 近付いた関羽の頭を大きな手で撫で、


「関羽。利天は、生者と深く関わるまいとしているだけなのだ」

「生者と……」

「あれは遙か古の死人。本来なら李典とも関わるべきではなかったのを、李典を守る為に李典に文武の重要さを説き強く育て、そして今、李典を救う為に李典以外の生者に多く関わらなければならん。あれなりに、越えてしまった生者と死者の境界線を、これ以上生者の側へと進んでしまわぬようにしているのだ」


 関羽は顔を歪めた。
 そんなこと言われても、李典に抱いた不快感は拭えない自分は、きっと心が狭い。
 唇を真一文字に引き結び、憮然と沈黙する。

 拗ねたような表情の関羽に、狐狸一族の男は、小さく笑う。
 もう一度頭を撫で、双肩をそっと掴んで身体を反転させる。


「さあ、行きなさい。ここで死んではいけない。必ず生きて、猫族皆で無事を願って待っている長のもとへ帰りなさい」

「あ、はい……勿論です」


 男は慈父の如き微笑みで関羽を見下ろす。
 されど、ふと思い出したように曹操の乗る船を見やり、


「しかし、出来ることならあまり曹操を虐(いじ)めてやらないでくれ」


 慈しむ眼差しである。

 関羽は目を瞠った。


「え?」


 曹操を知っているの?
 それも、とても親しげだ。

 思わず一歩退くと、男は悲しげに眉尻を下げた。仕方ないとは分かっているが、出来れば……と僅かな期待を持った目で関羽に視線を戻す。


「狐狸一族に、あの子の母親と懇意にしていた者がいるらしい。その者の気持ちを思うと、な……」

「そうなんですか……? でも、そんなこと、誰も……」


 言い掛けて、口を噤(つぐ)む。

 男は関羽の考えを読み取ったのか、首を縦に振る。


「そうだ。長の態度と世の情勢を思えば、とても言える訳があるまい」

「……」


 関羽は俯いた。
 何か、記憶に掠るものがあった。
 それはさして離れているものではない。

 記憶を辿ろうとするが――――。


「痛いっ!」


 突然誰かに頭をはたかれた。

 男かと思って顔を上げれば、そこに狐狸一族の男の姿は無く。


「また……」


 呟く関羽の頭を、もう一度はたく手がある。

 横だ。
 首を巡らせれば、そこには頗(すこぶ)る機嫌が悪そうな幽谷――――もとい、利天。


「随分と大袈裟な独り言だな。幻覚作用のある危険な薬でも飲んできたのか」

「そ、そんなんじゃないわ……。す、少し……そう、少し、変な気配を感じただけよ」


 利天は眉間に皺を寄せる。
 周りを見渡し、


「まだ何の邪気も感じねえが?」

「そ、そうなの……? 変ね……」


 誤魔化し誤魔化し、関羽も周囲を見渡してみる。
 戦の血生臭い喧噪に包まれた長江。
 近くの船で大勢の曹操軍や呉軍の兵士が致命傷を受け、船縁から落ちていく姿が見えた。

 そうだったわ。わたし達に、悠長にしている暇は無い――――。

 暢気な男の態度にすっかり呑まれていた。
 悪い人ではなさそうなのだけれど……。


「わたしの気の所為だったのかしら?」

「……いや。猫族は妖の呪いを受けている身だ。俺には分からずとも、お前らには分かるものがあるのかもしれん。急ぐぞ」


 思わぬことに、利天は関羽の咄嗟の嘘を真に受け、背を向ける。

 関羽はほっと胸を撫で下ろし、「ええ」頷いた。


「一気に駆け抜ける」

「分かったわ」



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