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「……これで、この船はもう動かないわね」


 ふう、と関羽は吐息を漏らし額に浮いた玉のような汗を手の甲で拭った。
 この船を制圧するだけでどっと疲れた。

 敵兵が多かった訳でも、精鋭揃いだった訳でもない。
 原因はただ一つ。たった一人。


 利天である。


 ことあるごとにわざとだとしか思えない、あたかも偶然であるかのように振る舞った妨害を執拗に繰り返していたのだ。
 お陰で関羽は利天と背中合わせに立った場所から殆(ほとん)ど動いていないし、兵士も九割は利天が一瞬一瞬で沈黙させていた。

 この利天の性格の悪さが最も表れたのは、遅れて乗り移った張飛達には幽谷らしく見えるように、また自身の嫌がらせによって顔を歪めた関羽が苦戦しているように見えるように謀っていたこと。
 その所為で張飛にも趙雲にも無茶をするなと怒られた。その時利天が小馬鹿にするような笑みをうっすら浮かべていたのを関羽は見逃さなかった。

 利天に嫌われているのは、彼の故郷の風習故のこと。それは仕方がない。

 でも、だからって。

 ……戦いの中でこんな性格の悪い嫌がらせをしてこなくたって良いじゃない!!
 地団太を踏みたい心境である。

 それを必死に抑えて、険しい顔で曹操軍の船団を一望する。


「だけど、敵の兵士をいくらたおしたところで、わたしたちの劣性は変わらない……。狐狸一族が一緒に戦ってくれていても、わたしたちが力尽きてしまえば負けてしまう」


 早く曹操の船まで行かないと。
 深呼吸を一つ。
 気持ちを切り替えて冷静に偃月刀を握り直す。

 その時である。

 利天が片手を動かした。
 双剣の片割れの切っ先である船を示す。

 それを追い――――。


「姉貴! あれだ! あの船だ! 曹操の船だ!」


 張飛が鋭く、怒鳴るように言う。

 関羽は大きく頷いた。

 見つけた!

 足を踏み出す関羽。
 しかし、刹那に背後に迫った殺気に咄嗟に身を翻し偃月刀を胸の前に持ち上げた。

 白刃が叩きつけられる。

 関羽が押し返すと相手は容易くよろめいた。
 それでも体勢を持ち直し再び剣を構えるのは――――関羽が斬り倒した曹操軍兵士。
 甲冑の隙間を巧みに斬りつけ動きを封じている筈だのに、彼は大玉の血を床に落としながら関羽に刃を向ける。


「ま、待て……。貴様を、曹操様のもとへ、行かせるわけには……いかん!」


 満身創痍。
 重い甲冑に身を包み、立っているだけでもやっとの兵士に、関羽は刃を向けるも躊躇(ためら)った。


「あなた、その傷でわたしと戦うつもり?」

「だ、黙れ! この程度の傷、問題ではない! 曹操様のお志は、貴様のような下賤の輩にはわからんのだ! 貴様を討ち、曹操様には覇道を進んでいただくのだ――――」


「その先に何がある?」


 玉響(たまゆら)。
 兵士の背後に利天が真上から降り、うなじに手刀を落とした。


「覇道は乱世だからこそ眩く見えるもの。覇道は荒れ狂う乱を鎮めるが、天下を平穏に治めるのは王道だ。断言してやる。今の曹操に王道は敷けねえ」


 間近にいる関羽の耳だけに届く、利天の呟き。
 前のめりに倒れる兵士の肩を軽く叩き、利天は関羽に厳しい眼差しを向けた。

 躊躇ったことを責められていると分かった関羽は素直に小声で謝罪した。
 こちらの戦いは妨害してきたくせに、満身創痍の敵相手に躊躇したことを責められるのは理不尽だと思ったが、張飛達の手前、何の反応も出来ない。

 文句を呑み込み、歩き出した利天に従って曹操の船へ向かおうとする――――。


「待てよ」


 張飛が、幽谷の手を掴んで止めた。
 利天は幽谷の顔して振り返り、幽谷がするように首を傾けた。


「……何か?」


 張飛は目を細め、暫し沈黙。

 やがて、ゆっくりと口を開いた。



「オ マ エ 誰 だ」



 関羽は目を剥いた。


「ちょ、張飛? 何言ってるの……?」


 慌てて間に入り込み、張飛の手を剥がす。
 どう誤魔化そうか思案を巡らせる関羽を見下ろし、張飛は「やっぱり」と。


「姉貴。そいつ、幽谷じゃないよな?」

「そ、そんなことないわ! 幽谷は幽谷よ。ねえ、幽谷?」


 張飛は、幽谷を見上げる関羽の肩を掴んでそっと脇に追いやった。


「幽谷にしては戦い方が荒いんだよ。雑っていうのじゃなくて型はちゃんとあるのに、型にわざとはまらない戦い方が時々見えるというか――――何か、夏候惇みたいな名門出身の武将が賊になった? って言ったら良いんかな……。オレのダチはどんな武器を使ったってあんな戦い方しねえ。オレも、趙雲も、もう気付いてる」


 関羽は趙雲を見上げた。
 彼は厳しい顔で頷く。

 途端に幽谷の顔が剥がれ落ちた。
 にやり。不敵に、利天が口角をつり上げる。

 その凶悪な笑みに趙雲が身構える。

 張飛は顔を歪めはするも、存外冷静だった。
 冷静に、再び誰何(すいか)する。


「オマエ誰だよ。何で幽谷の中にいるんだよ。知ってるのは姉貴だけか?」

「張飛。ガキのお前に一つ教えてやる」


 悪人の笑みを浮かべたまま、利天は屈んだ。
 何をするかと思えば、関羽を肩に担ぎ上げる。


「きゃあぁ!?」

「反社会的悪人が、ガキの質問に馬鹿正直に答える訳ないだろ」


 背を向ける利天に、しかし張飛は表情を動かさない。
 趙雲も、様子を窺うのみだ。


「悪人の割に、きっちり幽谷の身体を守りながら戦ってんじゃねーか。オマエ、戦が始まってからずっと、幽谷に傷一つ付けねーように立ち回ってんじゃん」

「人間誰でも痛いのは嫌いなんでな」

「じゃあ何でオレ達の前で幽谷のフリをしてるんだよ。悪人なら幽谷の都合関係ないだろ」

「狐狸一族の長に命を掴まれちまっててな」

「それなら何で幽谷としてオレ達と一緒に戦ってんだ? 幽谷に悪人が乗っ取られているなら、あの人が命を握ってても野放しにする筈がねえ。さっさと追い出しちまうか、それが出来ないにしてもどっかに閉じ込めておくなりする筈だろ?」


 幽谷のフリを止めた利天が、どんどん億劫そうに顔を歪めていく。

 利天に担がれたままの関羽は気が気でなかった。
 どういうつもりか知らないが、利天は凶悪な人間であるかのように振る舞う。

 本当のこととまでいかずとも、嘗(かつ)て人間であった恒浪牙―――――否、華佗の右腕だった男であることくらいは教えても良いのではないか。
 そんな関羽の考えを察知した彼は二人に見えないように、双剣の切っ先を脹ら脛に当てている。まさか本気ではなかろうが、容易く命を奪う鋼の塊をぐっと押しつけられて、恐怖を感じない者などいない。
 利天の言動を見守るしか出来ない。


「なあ、どうなんだよ」


 返答を止めた利天に、張飛が問う。

 それから暫くもだんまりだった利天は、長々と嘆息して、嫌そうに眉間に皺を寄せた。


「俺の目的を果たす為に一時的に身体を借りてるだけだ。果たせばすぐに出て行く」

「オレは、オマエが誰なのか訊いてるんだけど」

「大昔の死人だ。華佗――――お前らが恒浪牙と呼んでる男の古い知り合いだよ」


 それで良いだろう。
 鬱陶しそうに答える利天に、張飛はあっさり頷いた。

 趙雲も、振り返った張飛に頷き、獲物を下ろした。


「分かった。あの人の知り合いだってんなら信用出来る」

「そんなに簡単に人を信用して良いのか」

「恒浪牙さんの知り合いが幽谷の身体を借りたままなら、恒浪牙さんも狐狸一族も、今の状態を許してるってことだろ? じゃあ、オレは何も言わねえよ」


 「そうかい」利天は関羽の足から双剣を離した。

 ほっとしたのもつかの間、


「じゃあ、さっさと曹操殺しに行くぞ不埒娘」

「え? ――――きゃあああぁぁぁぁっ!!」

「関羽!」

「何してんだオマエ!?」


 降ろしたかと思いきや襟首をひっつかんで近くの敵船に向けて関羽の身体を軽々放り投げた。
 緩やかな放物線を描きながら関羽は身を捩り、猫の如(ごと)柔軟に着地、そのまま身体を回転して敵兵を薙ぎ払った。

 遅れて利天も跳び移ってくる。

 抗議しようとすると、


「邪魔だ淫行娘」

「こ、のぉ……っ!!」


 わたし、この人のこと苦手――――いいえ。
 絶っっ対、好きになれない!!



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