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恒浪牙の突飛な登場によって、周泰への疑念が曖昧に濁されたところで、後方で猫族の男性が声を上げた。
それに、皆の注意も周泰から逸れる。
「あ! 張飛!」
ふらふらと、俯きながら歩いてくる彼に不穏なものを感じながらも、関羽は劉備を趙雲に預けて張飛に駆け寄った。
「張飛! 無事だったのね、よかった! 世平おじさんは知らない? 一緒じゃなかった!?」
張飛は唇を引き結ぶ。ややあって、震えながらも開き、
「……おっちゃんはみんなを逃がすために残った。さっきの爆発で道が塞がったはずだ。これでしばらくは、人間は追って来れない」
覇気の無い声に、趙雲は色を失う。
「では、先ほどの爆発は世平殿が……」
……信じられなかった。
いや、受け入れられなかった。
だって、絶対に追ってくるって言ったもの。手当をしなければいけないのに! 来ないって……そんな、そんな!!
関羽は青ざめて張飛の両腕を掴んで問い詰める。
張飛は関羽の視線から逃げるように顔を背けた。
「姉貴。おっちゃんの命をムダにしちゃダメだ……」
関羽はひゅ、と息を吸いふらりと張飛から離れた。よろめいたところを恒浪牙が支える。
張飛はそんな彼女の様子に一瞬だけ泣きそうな顔になるが、次の瞬間には表情を引き締めて背後を振り返った。
「みんなで逃げ切ることを考えないと。趙雲も、早くみんなを先導してくれ」
趙雲は、緩慢に頷いた。それでも、苦しげな顔は変わらない。
関羽は恒浪牙に縋りつくように抱きつき、唇を戦慄かせた。身体が、寒い。
嘘。嘘だ。絶対に嘘。
だって、約束した。
またみんなで一緒に暮らそうって言っていたじゃない。
新しい村を作るって言っていた世平おじさんが死ぬって、おかしいじゃない!
関羽は滲んだ視界を瞼で塞ぎ、恒浪牙に抱きついて絶叫した。
「世平おじさ――――ん!!」
張世平。
親のいない関羽の親代わりを担ってくれた大切な人の喪失は、関羽だけでなく猫族全ての心に大きな穴を開けてしまった。
猫族も皆、声も無く啜り泣く。
恒浪牙は関羽のしたいようにさせ、宥めるように彼女の頭を撫で続けた。
されど、
「……幽谷」
周泰が呟くのに、彼は顔を上げる。
「彼女はまだ村に?」
「……分かりません。長を守るように言っていましたが」
そこで初めて、周泰の目に感情が宿る。
家族の身を案じる暖かくも不安げな眼差しは、ひたに山道から上る煙へと向けられていた。
‡‡‡
「……これから、どうするんだ?」
落ち着いた彼らは、重たい胸を抱えてその場に佇んでいた。
逃げるとて、宛がない。
何処に逃げれば安穏は手に入るのか――――分からない。
荒野で夜を明かすにしても、人間達が襲撃してくるかもしれない。
支柱も担っていた世平の死に彼らは動揺してまとまりを欠いていた。
悲しみと恐怖に疲弊しきった彼らには希望も無く。
恒浪牙に背負われた劉備が未だ絶入したままということもあって、猫族全体から意欲はごっそりと失われていた。
「なぁ……。このまま行くあてもないなら曹操のところに戻った方がいいんじゃないか?」
「馬鹿関定! 曹操のところに戻ったって、同じことが繰り返されるだけに決まってるだろ!」
安易な提案をする関定に、蘇双が激怒する。世平を失ったことで、蘇双も冷静さを欠いていた。周泰へ警戒することも忘れ、こぼれてしまう涙に苛立たしそうに歯を食い縛る。
関定がすぐに謝罪するが、蘇双は俯いて呻いた。
「たしかに蘇双の言うとおりだな……。それに、曹操のところに戻っても呉との戦いに利用されるだけだろう」
「わたしたちはどこにも行くところがないのね……」
「……戻ったらまた人間に襲われるんだ。だったら、このまま前に進むしかないだろ」
だが、先が見えないと言うのは不安なものである。
何処まで行けば良いのだろう。
どちらに行けば良いのだろう。
不透明な未来は、不安しか与えない。
沈黙する猫族に、唐突に降りかかったのは、幼い声だった。
「――――南を目指そう」
それは、恒浪牙の背中から放たれた。
一斉に視線が集まる中、恒浪牙に背負われた劉備が、ゆっくりと面を上げた。未だ、その表情は苦しげだ。この中で一番の傷を負ったであろう彼は、それでも恒浪牙に言って、自分の足で立ち猫族の中心へと進んだ。
「みんなで一緒に、南を目指すんだ」
「劉…備……?」
「劉備様……なのか?」
「劉備殿……」
劉備は唖然とする皆に徐(おもむろ)に頷いてみせる。皆を見渡して言葉を続けた。
「猫族のみんな、聞いてほしい」
猫族は口々に劉備の名を呼ぶ。
「僕は……世平を殺してしまった」
苦しげに放たれた事実に、動揺が走る。
恒浪牙は周泰と共に猫族の和を抜けた。部外者であるからと、傍観することとしたのだ。
猫族達は不安に揺れながら、しかし長の苦痛に満ちた言葉を静かに待った。誰も責めず、長の思いを受け止めようと耳をそばだてた。
「呪いの力に囚われた僕は大切な者の死という形でその責めを負うことになったんだ……。世平は、僕にこう言った。呪いに負けないでくれ、と。誇り高い、猫族の長であれ、と」
そこで、一旦劉備は深呼吸する。
眦を下げ、血で汚れた両手を見下ろした。
「本当は僕にはもう、猫族の長としての資格はないのかもしれない。けれど……それでも、僕は、長としてみんなを守りたい。強くなりたい……そう願ってやまないんだ……」
拳を握る。
唇を引き結び、顔を上げる。
「猫族のみんな。みんなが、まだ僕を長と思ってくれるのなら、猫族みんなで南へ行こう」
南は北程には猫族の差別はないと聞く――――そう劉備は語る。
加えてすでに北は曹操の支配下だ。どちらにしろ南以外に猫族の平穏を探せはしないだろう。
が、ただ南を目指せば良いという訳でもない。
「南へ逃げても、運命はきっと僕たちを静かに放っておいてはくれないだろう。けれど、その運命に立ち向かうだけの力を貯えるためには、僕たちが暮らすことの出来る大地が必要なんだ」
劉備は身体を反転させた。遠くに見える山を指差した。
「みんなご覧、あの山の裾野を。もうすぐ夜明け、新しい日が昇る。どんなに辛く悲しい夜も、いつかは明けるんだ。今は世に住み侘びる僕たちだけど、きっと幸せに暮らせる日が来る。――――だから、行こう南へ。胸を張って。猫族の新天地を共に目指そう」
恒浪牙は、一人笑う。
劉備は、己に猫族の長たる資格は無いという。
けれども長たりえる者に求められるものの中で最も大事なのは、その素質であると千年近い時を生きた天仙の彼は思う。資格は二の次だ。
今、彼は幼い身体でありながら泰然とし、穏やかな威風を備えていた。
それは資格などでは絶対に鈍らない、まさに天性の才だ。
資格は無いのかもしれない。
だが、これまでの生で意図せぬままに自然と磨かれた素質は申し分ない。器は一族を率いるに不足無い。
ただ――――ただ、それを金眼の呪いが邪魔をするだけ。
彼に遠い昔に笑い合った男の面影を認め、恒浪牙は懐旧に目を細めた。
劉備は猫族の長だ。
顔を出した神々しい朝日を受ける彼からは、もう邪気は感じられない。決然たる表情は悲しみも同時に湛え、ともすれば倒れてしまいそうに不安定だ。
朝日に煌めき凛然と佇む長を、猫族は崇めるように、大切な宝物であるように、彼を取り囲み恭しく頭を垂れていく。
それが、猫族の者達の意志である。
「義父上が見られたら、どう思われただろうか」
恒浪牙は呟き、天を仰いだ。
空は、晴れている。
―第一章・了―
○●○
夢主が合流せぬまま、第一章は終わりです。
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