26
孫権は、天幕の中で目を伏せていた。
彼の側には周泰が。だが、顔色悪く、立っているのも辛そうだった。
孫権の護衛に回るので前線で戦うことは無いが、この状態では戦が終わる前に倒れてしまうのではないか危ぶまれる。
周泰が少し呻いて身体を僅かに倒すと、すぐに孫権は目を開いて、
「周泰。恒浪牙殿に診ていただいた方が良い」
「いえ。必要ありません」
「ならば、せめて座って休め」
「俺は大丈夫です」
朝から、この問答を何度も繰り返している。
忙しいだろうが恒浪牙に来てもらおうと考え始めた孫権は、しかし周泰に呼ばれ顔を上げた。
やっと休む気になってくれたかと期待するも、
「周瑜達が。恐らくは、先程の」
「……そうか」
少しばかり落胆しつつ、視線を前へ戻す。
暫くして、
「孫権。少し良いか」
「失礼致します」
周瑜が幽谷のフリをした利天を連れて中に入ってきた。
幽谷のフリは完璧に近いように思うが、やはり性別が違うし、元々利天と幽谷の性格が違う所為か、微妙な違和感があった。とは言え、ともすれば見逃してしまいそうな程の微かなもので、気付く者は少なかろう。
先程外で起こった騒ぎについては、すでに孫権に報告がされている。
その時は余計なことは言わず、周瑜と幽谷を呼ぶように指示を出すだけに留めたが、心の中では驚きつつもこの展開に少しだけ納得していた。
「……先程兵から報告を受け、お前達を呼ぶように指示を出した」
「ああ、さっきその兵に会ったよ」
「驚いた」
「オレもだ。ついさっき目覚めたばかりで絶対安静の幽谷に堂々と目の前を歩かれて、心臓が爆発するかと思った」
周瑜は孫権と利天に分かるように外を示し、
「戦に出ずに休んでおくべきだと、さっきあれだけ言った筈なのにな」
「……申し訳ありません」
幽谷のフリをして、謝罪する。
「何とか助かったアンタの心も身体も、かなり痛んでる筈だ。尚香の敵を取りたい気持ちは分かるが、無理をすれば今度こそ死ぬかもしれないんだぞ」
外の耳を警戒し、話を合わせるように目配せする。
「それでも、目覚めた以上私は何もせずにはいられないのです」
そう言った幽谷の顔が、一瞬だけ利天となって外を睨む。
「外で様子を窺っている奴がいやがる」
ぼそっと、この場の人間にしか聞き取れない程度の声で伝える。
恐らくは騒ぎの場にいなかった者が聞き耳を立てているのだろう。
そのことには周瑜も気付いているらしい。短く頷いた。
孫権はゆっくりと瞬きする。
周泰が、
「外の様子を見て参りますか」
耳打ちする。
孫権は首を横に振った。
「幽谷」利天をじっと見据え、
「お前は……本当に良いのだな?」
分かる者には分かる意味合いを含めて、孫権は問う。
利天は、孫権を見返したまま、沈黙する。
その目がほんの一瞬だけ孫権よりも遠くを見た。
幽谷からの返答を待っているのかもしれない。
ややあって、
「構いません。私に出来ることがあるのなら、私は傍観していたくありません」
強い口調で、言う。
孫権は目を伏せた。
我が口が未練がましくもごもごと勝手に動くのを抑え、また沈黙する。
利天も、周瑜も、周泰も。
誰も何も言わなかった。
口を閉じ、孫権の言葉を待った。
そして、
「……幽谷が良しと決めたのならば、私からは何も言わぬ」
「孫権様」
「私から皆に説明しておこう。お前の身体を最優先にし、戦が終わるまで報せまいとしたのは私だ」
周瑜の顔が心配そうに陰る。
無理もない。
孫権は、嘘をつくのはあまり得意ではなかった。情けない話だが、自分が思う以上にあっさりと襤褸(ぼろ)が出てしまうかもしれない。
だが――――これくらいのこと、彼女らが負うものに比べれば、笑えるほ程に些末だ。
孫権は腰を上げた。
周泰も従い行こうとするのを、利天とここで待つように命じた。
しかし、
「孫権様。少し、身体を動かしておきたいのですが……」
申し訳なさそうな顔をして言うのは、きっと利天自身の感情の表れだろう。
「分かった。だが戦に臨む前に無理はしないでくれ」
「心得ております」
「周泰。幽谷を頼む」
「……御意」
ついでに、恒浪牙がその場に通りかかって周泰の様子に気付いてくれれば良いのだが……。
顔色の悪い周泰を利天の側に残し、孫権は周瑜と天幕を出た。
暫く歩き、
「孫権。大丈夫か」
周瑜が案じて問う。
孫権は深く頷いた。
「甘寧が担ったものは、こんなことよりも遙かに困難なものだ。私に出来ることなど、それに比べれば何もかも小さ過ぎる」
立ち止まって空を仰いだ。
心がざわついている。
己の心とじっくり向き合う時間など、残っていない。
開戦まで、あと僅か――――。
‡‡‡
下界に、彼女の邪悪なる気配が広がった。
雲よりも遙か上の世界に住まう老爺にも、その気配はしかと感じられた。
物憂げに目を伏せ、溜息をつく。
痛みを堪えるように、上半身を少し前に倒した。
「……なにゆえ、目覚めた。玉藻よ」
なにゆえ、眠ったままでおれなかった。
なにゆえ、妹を憎む。
皺だらけの痩せこけた顔を歪め、苦しげに呻く。
「これ以上、妹を、己自身を、苦しめるな……」
懇願する老爺を、離れた場所で痛ましげに見つめる者が一人。
報告があって訪れたが、すでに老爺の知るところとなってしまった。
どれだけ時が経っても、老爺は彼女の気配を決して間違えることは無い。
それだけの絆が、二人にはあった。
だからこそ、老爺は苦しむ。
彼は静かに、その場を去った。
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