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 外は大変な騒ぎになっていた。

 駆けつけた三人は青ざめ、眩暈を起こしてよろめいた。

 すでに大勢の猫族や呉の武将や兵士が集まっており、どういうことかとざわめいている。

 男は天幕の上に腰掛け、事態を眺めることにした。

 利天は一応、幽谷のフリをしてはいるようだ。
 蒋欽と周瑜が後ろに庇い、質問責めにしてくる彼らを押しとどめている。

 ここへ関羽も駆けつけ、劉備も慌てて手助けに入り、猫族を落ち着かせて引き剥がした。

 残るは呉軍のみだが――――。


「静かにせぬか!!」


 老将の一喝によって一瞬で静まり返った。
 大股に歩いてくるのは孫家三代に仕える宿将、黄蓋である。


「気持ちは分かるが、少しは幽谷のことを考えぬか!!」

「しかし……! 幽谷殿がご無事だったと、我々は今まで……」

「故に落ち着けと言うとるのだ、馬鹿者が!!」


 怒鳴られた武将は萎縮し、一歩退がる。
 黄蓋は周瑜と蒋欽を視線で退かし、利天の前に立った。

 利天は黄蓋に拱手して「申し訳ございません」と。


「本来なら戻ってきた時点で皆様の前に出なければなりませんでしたが、意識を失い、先程目が覚めたばかりで……」


 黄蓋は手を利天の手に重ね、そっと下ろさせた。


「良い。それよりも怪我は」

「四霊ですので、傷を塞ぐのは容易く……であるのに、」


 そこで、利天はその場に土下座する。

 彼は恐らく、まだ表に出られる状態でない幽谷の代わりに、幽谷の気持ちを代弁しているのだろう。華佗も静観していることもあり、男にはそう思えた。


「四霊でありながら、狐狸一族でありながら、護衛でありながら、私は尚香様をお守りすることが出来ませんでした。己の役目を果たせず、申し訳ございません。如何なる罰も受ける所存です」

「幽谷……」

「ただ許されるならば……この罪人にも、尚香様の仇を討つ機をいただきたく。どうか、処罰はその後に」


 あ、と男は声を漏らした。
 なるほど、利天も考えたな……。
 彼の思いやりに隠れた思惑を察知し、苦笑が浮かんだ。

 華佗も同様に察したようで、頭を抱えている。

 彼らの思惑など露知らず、黄蓋は土下座する幽谷のフリをした利天の肩に手を置き、優しい言葉をかけるのだ。


「誰が幽谷を罰せることが出来よう。お前がどれほど姫様を大事に思っていたか呉の誰もが知っている。儂らよりも無力を感じ、恥じている者を責められはせぬ。お前がそう言うのならば止めはすまい。しかし、恨みに身を任せて無理はしてはならぬぞ。姫様も、それをお望みにはならん」

「……ありがとう存じます。黄蓋殿」


 立ち上がらせ頭を撫でる。

 周瑜と蒋欽が苦々しい顔を僅かに逸らす。
 彼らも何となく、利天の思惑を察し始めたらしい。

 利天は立ち上がっても黄蓋へ深々と頭を下げた。


 しかし――――。


 不意に顔を上げ、黄蓋の顔を凝視する。一瞬だけ、幽谷の演技が剥がれ、利天の顔が覗いた。

 周瑜と蒋欽も顔色を変えた。周瑜が孫権のもとへ行こうと言って、利天をこの場から逃がそうとした。

 恐らく黄蓋が周りに聞こえない声で何か言ったようだが、本人は周瑜の言葉に頷いて送り出している。

 利天はすぐに幽谷のフリをして周瑜に馴れ馴れしく触られるのをさり気なくかわす演技までして、歩き出した。

 武将や兵士も、安堵したように笑みつつ、《側で主君を守れず生き残ったことを深く悔いる幽谷》へ憐憫の情を向けて散開する。
 猫族も、利天の演技を不審がる様子は無く、良かったとか、本当に戦に出て大丈夫なのかとか、趙雲に教えてやったら飛んでいくだろうなとか、口々に言って戦の準備へと戻っていく。

 開戦まであと僅か。
 もはや利天を止めるだけの時間は無い。

 利天の作戦勝ち、と言ったところか。

 その場に座り込んで、淡華に慰められている華佗を見下ろし、男は小さく笑った。



‡‡‡




『歴戦の猛者とお見受け致すが、くれぐれも幽谷の身体には傷一つもつけぬよう』


 黄蓋の殺気を込めた言葉である。
 あの爺さん……最初から気付いてやがったな。

 その上で俺の演技に騙されたフリをしてやがった。

 確かに、男の利天が女である幽谷のフリをするのは無理があった。幽谷をよく見ている人間が側に寄れば。すぐにでも分かってしまっただろう。

 それを、あの孫家三代の宿将が自らが利天の演技に騙された風を堂々と装うことで周りに本物の幽谷だと信じ込ませ、側に誰も寄らせぬまま逃がした。
 結果的に黄蓋の協力で上手く行った。

 分かっていながら、何故あの場でこのことを訊こうとしなかったのか……。
 老将は変に聡いから厄介だ。
 何かヘマをしていたか? いや、幽谷の気持ちをそのまま話して私心は一切入れていないのだから、していない筈だ。男が女を演じきれない以外は。

 そもそも利天がこんな行動を起こしたのは、幽谷がややもしたら孫権や呉に謝罪出来ぬまま役目を果たすことになるだろうと思ったからだ。
 幽谷のフリをして堂々と歩いて兵士や武将に見つかり、騒ぎを起こした。周瑜や蒋欽が近くにいる場所を選んで。
 たまたま側に猫族の子供がいたらしく、それによって猫族も集まって手間が省けた。

 あとは、孫権ということになるが……幽谷の状態を考えれば、これ以上表に出すのは厳しいだろう。

 彼女が弱った原因の一つであることを自覚している利天は、元々の身体の持ち主の意識をあまり痛めたくなかった。
 万が一、奇跡でも起こって幽谷が封印の器としての役目を果たさずに終わった時、意識がぼろぼろであったなら戻ろうにも戻せない。

 だが、孫権には利天ではなく幽谷の言葉をかけるべきだとも思う。
 幽谷はこれから戦う利天の判断に任せると言っているが、本心では孫権へは自らの口から謝罪しなければと思っている。
 孫権のもとに向かいながら思案していると、ふと周瑜が、


「孫権にはオレに謝罪した時の幽谷の言葉を伝えてある。孫権に会ったら、孫権の言葉を幽谷に聞かせてくれれば良い」

「……良いのか?」

「幽谷が長く表に出られない状態だってのも話した。元々、戦が始まる前に孫権をアンタのところに連れて行く予定だったしな。アンタのお陰で滅茶苦茶だ」

「そりゃあ悪かったな」

「思ってもないことを言うな」


 利天は肩をすくめた。


「ところで、あの爺さんはどうするんだよ」

「黄蓋には、今のうちに儂から話しておこう。奴ならば口は堅い。信用出来る」

「そうかい。そこは、お前らに任せる」


 蒋欽は頷き、黄蓋のもとへ向かった。


「じゃあ、俺達は孫権の所だな」

「ああ。ここからは幽谷のフリを徹底してくれよ」

「分かってる」


 あとで華佗にも説明しておかねえとな。
 現在怒りを露わに出来ず持て余しているであろう親友を思い出し、利天は後頭部を掻こうとして、周瑜に睨まれた。

 幽谷は頭を掻かないんだったな。



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