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 それは、誰かの日記だった。
 一日一日短い文で記されていた。


『利き手を失って、今日で一年。これより日々を左手にて記す』

『我が家の雨漏りを呀当(がとう)と恒浪牙、それに華玄が修繕してくれた。』

『華玄が利き手を失った私を気遣って白打に誘ってくれた。』

『風邪を引いた娘婿の看病を淡華様がしてくれた。』

『利天と呀当は字が下手だ。利天は最近ましになった。』

『華玄が華佗と共に淡華様に贈り物をすると言うので、先日見つけた翡翠を渡した。』

『二人は翡翠の首飾りを作ったらしく、淡華様はお喜びになったようだ。』

『華玄が、孫と一緒に釣りに出かけた。』


 日記の始まりの文字は、とても拙い。日記にある通り書き慣れない手で書いた為に、ガタガタの線で文字は崩れ辛うじて読める。

 劉備には分からないだろうが、男はこの日記の主を知っていた。
 彼は文字に神が宿ると言わしめた有名な書家だった。
 戦禍に巻き込まれて利き腕である右腕を失い、娘と共に逃れてきたのを華佗が助けたのがきっかけで義賊村――――と男が勝手に呼んでいる――――に住み着いた。

 それから一年間、娘が父の為にと燃え盛る家から持ち出した筆や硯(すずり)を寂しげに見つめる彼へ、華佗と利天が日記を書くように勧めた。
 淡華が劉備へ読ませたのは、その最初の日記である。

 文章が短いのは、自身の誇りであった己の文字が、左腕で書いたことで難読なまでに劣化してしまったことに彼が耐えられなかったから。
 書き始めたばかりの日記である為変化は無いが、徐々に元にとは行かないまでも彼の文字は上達し、長くなっていく。途中から、わざと左右逆に書いてみるという遊び心を見せる余裕が出てくる。

 劉備は目を細め淡華に日記を返した。


「この『華玄』って……」


 書家の日記をしまい、淡華は寂しげに微笑んだ。


「わたくしと華佗様の息子です。この方の日記には、わたくしの知らない息子の姿が沢山書かれていました」


 淡華の知らない息子の姿。
 書家の日記にはその日その日に義賊村の者達から聞いた華玄の思い出話が書かれるようになった。
 淡華と華佗が旅に出た後のことだ。淡華の為に華玄のことを形に残しておこうとしたのである。

 それが無駄になってしまったのが、とても悲しい。


「わたくし達夫婦だけのものじゃなかったのです。華玄が……あの子が生きた証は、あの村にあったのです。華玄にとっての《家》はあの村そのもの。皆さんでした。愚かなわたくしはそれが分からなかった……」


 わたくしがそのことに気付いていれば、華佗様に大事な宝を捨てさせることも、彼らが死ぬことも……利天様が――――。
 淡華の青い瞳が潤み、つ、と涙がこぼれた。

 劉備がそっと指で涙を拭ってやると、「ごめんなさい」と淡華は袖で双眼を押さえた。

 彼女の顔をじっと見、劉備は一瞬目を逸らした。
 薄く口を開いては躊躇い、金の瞳を揺らす。

 けれど、


「……無礼を承知で、言わせて下さい」


 淡華が手を止めて劉備を見上げる。

 劉備は悲しげに、気まずげに顔を歪めて、


「あなたの選択によって、後に封蘭や幽谷、犀煉や周泰が生まれた。僕達は幽谷と出会い、封蘭や恒浪牙さんと出会えた。あなたが違う道を選んでいたら今の僕達の人生は無かったかもしれない。勿論、あなたの選択は良かったとはとても言えないけれど、でも……幽谷や恒浪牙さんに助けられた僕達からすれば悪かったとも言えません」


 ここで僕が間違いだったと肯定してしまえば、それは僕達に出会うまでの彼らの人生も、彼らと出会ってからの僕達の人生も、間違いだったと言っているような気がするから。
 申し訳なさそうに劉備は言う。

 淡華は劉備を見上げ、謝罪した。


「……今を生きるあなた方に、とても無神経なことを言いました。ごめんなさい。劉備さん」

「いえ……無神経なのは、僕の方です。でも僕達と同じように、砂嵐さんの選択はあなたと封蘭を引き合わせた。封蘭はあなたのことをとても大切に思っている……だから……後悔ばかりして欲しくなくて……」


 劉備は口を開けたまま沈黙し、言葉を探す。
 けれど上手い言葉は見つからず。
 うなだれて謝罪する。

 淡華は目を細めて、首を左右に振った。


「良いのです。劉備さんのお言葉、嬉しく思います。そうですね。ただ己の選択を後悔するだけではいけませんね。自分の選択した道の果てで喪われた方々や生まれた方々に、一生をかけて責任を果たす義務が、わたくしにはある……」

「それなら、俺にもある」


 不意に、幕舎に人が入ってくる。
 華佗だ。
 恒浪牙に扮する彼は悲しげな微笑みを浮かべていた。


「華佗様……」

「家を捨てたのは俺も同じだ。利天は一人で軍を仕切れるような将軍の器じゃねえ。利天があいつらの上に立って、利空が指揮する討伐軍に敵う筈がなかった。それが分かっていながら、頭領として責務を放棄した俺にも原因はある。だから、俺にもお前と同じように責任を果たす義務がある」


 淡華が反論しようとするのを、華佗は遮った。


「いや、利天達双子を敵対させておきながら、その責任も放棄してあんな結末を招いた分、俺の方がずっと……」


 そこで言葉を区切り、苦笑混じりに劉備に謝罪した。


「ああすみません。劉備殿がいらっしゃるのに、大昔の話を」


 恒浪牙の口調を戻す。

 劉備は困惑して「あ、いえ……」と首を左右に振る。


「しかし、驚きました。劉備殿が家内と話しているとは。伯母上なら、すでに先鋒の様子を確認しに行っていますよ」


 華佗の言葉に、劉備は思い出したように顔を淡華へ向けた。


「……それもあるんですが、砂嵐さんに謝らなければと思って」

「ああ、官渡の件ですね。あの時のことなら、お気になさらず。わたくしは気にしておりませんわ」


 また劉備の頭を撫でる。
 関羽がするのとは違い、自分の子供にするような慈しみに満ちた撫で方に、劉備はやや恥ずかしそうだ。

 話が戻る前に、


「ところで、利天を見ませんでしたか? 武器が幾つか紛失していて、もしやと思って捜しているんですが……周瑜殿に教えていただいた場所にはいなかったんですよねぇ」

「僕は、見ていません」

「わたくしも見ておりませんわ……」


 淡華と華佗は顔を見合わせ、一瞬深刻な顔になるも、すぐにぎこちない苦笑いを浮かべ合う。

 しかし――――。


『ちょっと待て何でアンタがふらふら彷徨いてるんだ!?』

『誰かあぁぁ――っ!! 幽谷の幽霊が出たぁ――っ!!』


 周瑜の焦った怒号と関定の叫びに三人は即座に幕舎を飛び出した。



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