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 朝日が顔を覗かせると陣中はいっそう慌ただしくなった。
 僅かな時間、胸中にくすぶる激しい想念を持て余しながら身体を休めていた兵士らが、血走った眼で駆け回り合間合間に対岸に陣を張る曹操の船団を睨めつける。

 その様を腕組みして佇み眺めている男が一人。
 ぴんと天に向かって立つ獣の耳、尾骨から生えたふわふわの九本の尻尾。どちらも色は黒。

 関羽や張飛らに接触した、狐狸一族の男である。

 何かしらの術を用いているのか、兵士は皆堂々とした彼の存在に気付くことなく前を通過していく。

 兵士の憎悪と悲しみに満ちた目を見、男は嘆息した。

 人は何故戦を起こし、幾千幾万の人を殺すのだろう。
 獣達が縄張りや雌を巡って争うのとは訳が違う。生きやすい土地を勝ち取る為、より多くの子孫を残す為の争いよりも、醜く、そら恐ろしいものだ。
 ひとたび戦が起これば無辜(むこ)の民が、畑を踏みにじられ兵士に食料を奪われ餓死し、或いは住み慣れた土地を追われて賊に身を落とし、或いは戦渦に巻き込まれて死ぬ。
 罪無き命が蹂躙された土地は、死した者達の恨み辛みがそうさせるのか、疫病を生み、生き残った民をも道連れにせんとする。
 長きに渡る戦は国力を疲弊させ、結果的に自らを蝕んでしまう。

 戦で得られるものは、戦で喪われた大勢の命よりも重いものだろうか?
 そんな訳がない。

 更に、戦によって連鎖する憎しみや悲しみは、やがて地脈や竜脈に流れ、残虐な魔物を生む。

 良いことなど何も無い。
 戦など起こすべきではないのだ。

 人は何故戦という手段を選ぶのか――――永き年月を生きていく中で幾度と無く胸に去来した問い。
 その度に同じ答えに辿り着く。

 人が戦を起こすのは、人であるから。

 そして、人がそんな生き物であるからこそ、己は人を愛おしく思うのだ。
 男はずっと、人に混じって人の世を眺めてきた。

 戦は幾度となく繰り返されてきた。
 ただただ悲しいばかりの災厄だ。

 だが、その中に在って、男を驚かせる光を彼らは放った。

 人は愚かしくもあり、こちら側の者には想像もつかない可能性(つよさ)を秘めた不可解な生き物である。

 男はまた溜息を漏らし、悲しげに対岸を見やった後、歩き出した。
 すれ違う兵士はやはり男の存在に気付かなかった。

 男が訪れた場所には、猫族がいた。
 今回の戦に於いて甘寧が二匹の化け物と対峙する、そのことを若いながら無二の叡智を誇る諸葛亮から説明を受けていた。

 諸葛亮の横には劉備がいる。
 猫族の長、劉備。
 嗚呼、あんなにも大きくなって……。
 懐かしさと嬉しさと、ほんの少しの寂しさが胸で混ざり合い、何とも形容しがたい複雑な表情になってしまう。耳も前にへた、と倒れ込んだ。

 男が来た時に丁度説明が終わったらしい。

 異論は無いかと確認する諸葛亮へ一人の猫族が手を挙げた。


「玉藻や白銅とか言うのは、金眼と同じ時期に暴れた化け物なんだろ? こちらに攻撃が与えられない限り甘寧様に一任するってのは分かったが……本当に甘寧様一人に任せて大丈夫なのか? どれだけ強いお方なのか知らねえけどよ、ここ最近少し体調が悪いみてえだし、俺達も戦力を割いて一緒に戦ってやった方が良いんじゃねえか」


 幾ら強くても戦場で人間を庇いつつ、一人で二体を相手するのは……と気の優しい猫族は甘寧を案じている。

 猫族の態度を見る限り、諸葛亮は玉藻と白銅の強さがどれ程か、現在の甘寧がどんな状態であるのか、猫族に話していないらしい。
 知っていたら、彼らがこんな遠慮がちに言う筈がない。
 それに、関羽と劉備は悩ましげに顔を歪めている。関羽が何かを言おうとしたが、それを察した諸葛亮に視線で制された。


「この戦いは呉にとっても、我ら劉備軍にとっても、大きな意味を持つ。将来を決すると言っても過言ではない。その大戦に水を差すまいとの甘寧様のご意志だ。それに応えるべく、お前達は奮戦しこの戦に勝利しろ。そして、甘寧様や狐狸一族の代わりに幽谷と尚香様の仇を討つのだ」

「……分かった」


 猫族の男は承伏しかねるような顔をしつつも、頷いた。

 他に質問を募るが、甘寧の件に触れるなと暗に匂わせた所為か、誰も質問しようとしなかった。
 男ははて、と首を傾げた。
 諸葛亮は、幽谷のことも話していないらしい。

 利天のことだ、幽谷の身体であっても戦に出ようとするだろう。
 武に秀でた彼ならば、性別も体型も大きく異なる身体でもすぐに感覚を掴める。
 それとも、利天は戦に出ると言っていないのか? 華佗は気付いていないのか? まさか。

 説明が終わると、もう一度準備に抜かりないか確認する為猫族は散開した。

 ふらりと歩き出した劉備を、男は追いかける。
 劉備の足は、救護用の幕舎。
 甘寧が運び込まれた幕舎である。

 当然ながら、すでに彼女の姿は無い。
 開戦後の傷病兵に備えて一人忙しなく準備をする仙女のみである。

 劉備が入った直後、彼女は盛大に転んだ。
 抱えていた箱から大量の薬が地面へこぼれてしまった。


「だ、大丈夫ですか!?」

「あら……劉備さん。お怪我でもなさいましたか?」


 淡華は泥で汚れた顔をそのままに、ふわふわとした微笑みで劉備を迎えた。


「と、取り敢えず顔を拭いた方が……これは僕が拾いますから」

「良いのですよ。それよりも怪我の手当てをしましょう」

「いえ、怪我はしてなくて……」

「怪我でないなら……まさか病気っ? 熱は? 吐き気はありますか? それとも何処かが痛かったり――――」


 血相を変えて寝る場所を用意しようとする淡華を劉備が慌てて止める。


「い、いえ、病気でもなくて……! あなたに訊きたいことがあるんです」


 手を取め、淡華は「わたくしに?」劉備を振り返る。

 劉備は頷いた。


「あなたは……恒浪牙さんのこと、忘れておいででしたよね? 僕の記憶ではそうだったから、夫婦に戻っているのが不思議で……」


 淡華は納得した。
 苦笑いし、顔を拭きながら劉備のところへ戻る。


「そうでしたね。わたくしが記憶を取り戻したのは、上に戻ってからでしたから、驚いたでしょう」


 しゃがみ込んで、薬を拾い始めた。
 劉備もその場に片膝ついて手伝う。

 箱に戻しながら、淡華は劉備の疑問に答えた。


「泉沈に怒られてしまったんです。いい加減、夫を苦しませるなと。泉沈が最後の記憶の欠片を見つけて、無理矢理にわたくしの中へ全て戻して下さいました」

「泉沈に……」


 封蘭――――封統の中にいた四霊、霊亀の名である。
 懐かしい名前だ。男は顎をさすりながら昔飲み比べをした時のことを思い出した。……一度とて勝ったことの無い、苦い記憶だ。


「わたくしが愚かだったのですわ。わたくし自ら、息子を忘れまいと華佗様を仙人にしようと修行に誘っておきながら、記憶を下界にばらまいて、何もかもを放棄したのですから」


 話しながら、淡華が箱を抱えようとしたのを劉備が先に箱を抱えて何処に運べば良いのか問いかけた。

 淡華は礼を言い、劉備に場所を指示した。


「息子さんを亡くしたんですか?」

「ええ。病で。思えば息子が死んでしまった時すでに、わたくしは息子を助けられなかった無力感でおかしくなっていたのでしょう。華佗様も、利天さんも、他の皆さんも、本当に優しい人達。わたくしの無茶な願いを受け入れて下さいました。それがわたくしが生きてきた中で最大の過ち……」

「過ち?」


 淡華は頷き、手伝ってくれたお礼にと劉備へお茶を淹れた。


「わたくしは九尾の狐と人間の混血です。明確には仙人ではありませんが、寿命は人よりもずっと永い。華佗様も亡くなってしまったらわたくし以外に息子のことを語る人がいなくなってしまう、わたくし独りではいつか、息子のことを忘れてしまうのではないか、わたくしが忘れてしまったら息子は完全にこの世から消えてしまうことになる……自らが息子を二度殺してしまうことに恐怖したわたくしは、華佗様に共に仙人になってもらおうと勝手なことを思ったのです。華佗様は、嫌な顔をせずにわたくしの我が儘を受け入れて下さいました」

「それが、恒浪牙さん――――華佗さんが地仙になった理由なんですね……」

「わたくしが華佗様の人生を狂わせておきながら、自らその責任を放棄してしまいました。わたくしがあんなことを言わなければ……華佗様がずっと守ってきた方々が討伐軍に命を奪われることも無かったでしょう」


 淡華は目を伏せ口を閉じた。
 胸を押さえて一呼吸の後、話を再開する。


「父からの報せでわたくし達が戻った時には、皆さんが力を合わせて作った家屋は全て倒壊し、放置された皆さんの遺体も腐敗が進行して衣服でやっと誰か分かるくらいでした。華佗様は皆さんを弔おうとなさいました。当然のことです。ですがわたくしはそれよりも、息子の墓がどうなっているのかだけを気にして、彼らを無視して墓を見に行ったんです」


 息子の墓は、華佗の部下達が墓の上に身体を積み上げるようにして、守っていた。
 その光景は男も見た。
 華佗達と一緒に戻ったから、あの惨状も見た。胸が張り裂けそうなくらいに痛かった。今でも思い出すと心臓がきりきりと痛む。

 だが、淡華は、その墓を見て絶叫した。
 腐敗した遺体を汚いと叫んで引きずり落としたのだ。

 仙人になる為、淡華や淡華の父親の指導のもと厳しい修行に耐えていた華佗も、この時に限界を迎えた。

 淡華を怒鳴りつけ、淡華が言い返すと頬を叩いてその場を立ち去ったのだ。
 この地から出て行けと。
 お前にはこの地を踏む資格が無いと。
 華佗は男と出会ってから初めて涙を流しながら、仲間達の遺体を地面に埋め、弔った。

 男も、華佗を手伝った。
 淡華の気持ちも理解出来ないではなかった。
 彼女の初産は母子共に危うかった難産だった。
 子が無事産まれた瞬間、彼女は自ら悟ったと言う。

 自分の身体はもう二度と、子を産めないだろうと。

 だから、息子の死を受けて一時期半狂乱になり、心神喪失状態になりかけた。
 そんな妻が落ち着いた頃に口にした突飛な願いを、華佗も利天達も拒まなかった。拒めば彼女が壊れてしまうだろうとは、誰もにも明らかなことだったから。

 そんな彼らに、あれはあまりにも酷い仕打ちだ。
 彼女を叱る意味もあって、泣き続ける淡華を一人残した。

 弔うには、何日もかかった。
 その間、華佗は数回淡華の様子を見に行っては、喧嘩になって、悲しげな顔で戻ってきた。
 そして、最後の日。息子の墓を守ってくれた仲間達を弔おうと墓へ行くと。


 すでに淡華の姿は無かった。


 この数日後に、女仙呂布が彼女を連れ去り愛人にしたと、分かった。

 淡華が最後に残っていた理性をも壊れてしまったのは、彼女に捨てられた直後である。

 悲しげな微笑みを浮かべたまま、淡華は己の過ちを語る。


「自分勝手な旅に出る前に、気付くべきでした。あの子を思うなら、本当にすべきだったのは、あの子の《家》と一緒に、ずっとあの子を思い続けること……」

「家と……一緒に?」


 淡華はふと前に片手を、掌を上にして差し出した。
 一瞬、掌上が陽炎のように揺らめいたかと思えば、そこからじわりじわりと浮き上がる物が在った。
 木簡だ。それも、かなりの長さになるだろう、何重にも巻かれた物。

 男はそれを見て首を傾げたが、すぐにまさか、と目を丸くした。

 それを、淡華は劉備に差し出した。


「これは……」

「読んでいただければ分かります」


 劉備は促されるまま、木簡を開いた。



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