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 甘寧の耳に入ることを避け、甘寧の容態が安定したのを見計らい諸葛亮が恒浪牙を外に呼び出す。

 天幕から出てきた恒浪牙は目に見えて疲弊していた。
 肉体的にも、精神的にも、彼にかかる負担は察して余りあろう。
 甘寧の次に倒れるのは恒浪牙なのではないか――――そんな不安が一同の胸中をざわつかせる。

 恒浪牙は三人にいたわりの科白を言わせず、圧を感じる穏やかな笑みを張り付けて彼らの求めに応じた。

 恒浪牙を呼び出したのは諸葛亮、利天、周瑜の三人。
 孫権と劉備を蒋欽に任せて残してきた。もっともそれは表向きの理由で、その実劉備と蒋欽の様子を孫権に見張ってていてもらう為だ。
 言うまでもなく、利天は姿を見られるとマズいので全身を外套ですっぽりと覆い隠している。

 この三人が自身を、甘寧の側を避けて呼び出した理由に、恒浪牙もおおかた察しがついているようだった。
 陣を幾重にも囲う逆茂木(さかもぎ)に手をかけつつ、


「ここらの逆茂木、緩いですね。幾ら曹操軍が対岸に陣を展開しているとは言え、どんな小さな可能性も危惧ししっかりと対処しておくのは当然だと思いますよ」


 わざと、違う話をする。

 遠回しに拒否されているのだと察しても、諸葛亮らは黙殺。烏林から吹き付ける強風に打ち据えられながら用件を話した。
 まず、尚香と白銅の関係を知ったことに始まり、それからこの状況を考えても甘寧の意思に添えることは出来ないとの孫権の意志を伝えた。

 恒浪牙の反応は、思いの外穏やかだった。


「……私に、何をさせたいのです」


 感情を殺した双眼を、諸葛亮へ向ける。


「我らの判断を黙認し、甘寧様の耳にも入らぬよう協力していただきたい。また、これから対処について話し合うつもりですので、あなたに同席してもらえればと」


 恒浪牙は暫し沈黙した。俯き、表情に影を落とした。


「分かりました。少ししたら、あなた方のもとに伺いましょう」


 表情の暗いままに応じ、きびすを返す。

 元来た道を戻っていく恒浪牙へ、小走りに近寄る二つの影があった。

 狐狸一族の者だ。
 利天は素早く周瑜の背後に隠れ様子を窺った。
 深刻そうな顔をして恒浪牙に交互に何か言い、恒浪牙が首を振ると泣きそうな顔をしてまた何かを言う。

 小声なのか、こちらに声が届かず、何を話しているのか見当もつかなかった。
 漠然と、甘寧のことなのだろうとは推測されるが……。

 利天が二人を促し近付こうとすると、恒浪牙が察し二人の肩を叩いて足を早めた。

 逃げるように急ぎ足で戻っていく天仙を見送り、利天は小さく舌を打。
 姿が完全に闇に呑み込まれて、やむなく三人はその場を離れた。

 本陣に入る前に幽谷の身体を借りている利天は二人と別れ、戦が始まるまでは森の中で過ごす。
 恒浪牙の態度と狐狸一族の二人のことが気にかかるが、あの様子では話し合いで周瑜達が訊ねてもはぐらかすだろう。二人にはあまり追求しても無駄だと言っておいた。

 周瑜が何か物言いたげだったが、恐らく幽谷の身体を傷つけられないか心配だったのだろう。
 案じられるまでもなく利天に幽谷の身体を傷つける気は無い。

 利天が生まれた地では女性を崇拝する。
 男は、子供の頃から女性に傷を付けると必ず酷い罰を受けると教わってきた。女性は敬え、大事に守れと、両親のみならず親戚にも言われてきた。
 そんな利天が、女性の身体を借りざるを得ないことを申し訳なく思っているのに、傷を付けるなどとんでもない。

 森の中で寝るのに丁度良い広場を見つけると、彼は天幕に忍び込んで寝具を多めに奪い、幾重にも重ねて地面の凸凹で身体に支障が出ない程度の寝床を整えた。途中この身体の持ち主の幽谷にはそこまでしなくても、と言われたが、無視した。
 寄ってきた獣には周りで好きなようにくつろがせ、外套で全身を覆い隠したまま仮眠を取った。
 夜明けまで休めれば恐らく幽谷と交代しても問題無い状態にまで快復するだろうと、そのつもりで眠った。

――――が。
 近付いてくる気配に意識が引き上げられ、利天は起きる。

 気配を見やれば、周瑜が。

 胡座を掻いてじとっと周瑜を睨むが、彼は無表情に目の前に屈んだ。


「……何だ。幽谷の身体は言われるまでも無く大事に扱ってる。それとも、話し合いの結果でも報告しに来たか?」

「幽谷に代われるか」

「どっちの」

「狐狸一族の幽谷だ。あいつ本人の意思を確認したい」


 利天は周瑜を見つめながら内側に問う。

 ややあって、溜息をついた。


「二人共目覚めてはいるが、まだ、あまり長く出さねえ方が良い。無理はさせるなよ」


 分かったら暫く待てと言い、目を伏せて狐狸一族の幽谷と交代する。

 幽谷は、数度瞬きを繰り返し、背筋を伸ばして正座した。
 周瑜を見据えると、代わったのが分かったようで安堵していた。

 幽谷はまず、周瑜よりも先に口を開いた。


「尚香様をお守り出来ず、申し訳ありませんでした」


 本来ならば孫権に先に言うべき言葉を言い、深々と頭を下げた。

 すぐに促されて顔を上げると周瑜は視線を落としていた。


「本来ならば、あなたよりも先に孫権様のもとに赴き謝罪するべきですが……」

「そんな身体じゃあ仕方がない。それに、今回の件はアンタじゃどうすることも出来なかった」


 尚香が死んだのは、白銅の所為なんだ。
 そう。
 尚香を死へと誘ったのは彼女に取り憑き、彼女を利用した白銅。

 私は、ずっと尚香様の側にいたのに全く気付けなかった。
 何故気付けなかったのだろうと首を傾げる己が不甲斐ない。


「私はずっと、尚香様の中に潜む白銅の存在に気付かずにいました。気付かずに、あの方を目の前で死なせてしまいました」

「気付いたところで、甘寧があんな判断をしていたんじゃあアンタにはどうすることも出来なかった。気付いても気付かなくても変わらなかったよ」


 言いつつも、周瑜はとても苦々しい顔をしている。
 白銅のことを伏せていたのは甘寧の優しさ故だと知っても、割り切れない感情はあるだろう。
 それはきっと、孫権様も同じ。

 ああ、やはり私が気付いていれば……と幽谷はもう一度謝罪した。

 周瑜はかぶりを振って、


「だから、アンタの所為じゃないって……それよりも、幽谷。アンタは本気なのか。本気で、それで良いと思っているのか」


 本題に入った。
 目が細まり、ここでやっと真っ直ぐ幽谷を見据える。

 幽谷も、何のことなのかは察しがついている。
 頷いた。


「幽谷が仰った通りです。母上のご意思に従います」

「甘寧の私情の犠牲になるんだぞ」

「構いません。むしろ、それと分かっていて母上が私を娘として可愛がって下さったのは事実ですから」


 甘寧が、対玉藻としての器として四凶饕餮(とうてつ)であった幽谷を元に今の幽谷を作り上げた。
 なら、意思を持たせなくとも良かった筈だ。
 だのに、今、甘寧の娘として沢山の兄に囲まれ、孫尚香と言う主に仕え、猫族の張飛と言う友人もいるし、趙雲や蘇双達にも良くしてもらっている。

 器にする為に生まれた割には、私は恵まれた生を生きている。

 甘寧という九尾の狐の性格を隅々まで知っている訳ではない。
 けれども幽谷には、自身に向けられた彼女の愛情が仮初めだとは到底思えなかった。

 これはあくまで希望的観測に過ぎない。
 甘寧は、誰にも見せない胸の奥で、きっと幽谷に対して罪悪感を抱いている。

 幽谷に意思を持たせ娘のように可愛がったのはその罪悪感の所為なのか、幽谷には分からない。
 分からないが、仮に罪悪感からだったとしても、甘寧が幽谷に向けてくれた母性は兄姉達と同等のものだったと信じている。


「私は、意思を変えません」


 周瑜のまとう空気が変わったことに気付きながら、幽谷ははっきりと告げた。


「アンタは……」


 周瑜は俯き絞り出すような声で呟いた後、舌打ちと共に立ち上がった。
 深呼吸を一つして、背を向ける。


「アンタの意思は分かった。孫権にも、言っておく」

「はい。あの……あれから、お身体は?」

「問題無い。悪かったな、キツいとこに呼び出して。オレの話はもう終わったから、戦が始まるまでゆっくり休め」


 彼は、足早に本陣の方へ歩き去っていく。

 彼の姿が見えなくなって、幽谷は横たわる。
 すぐに利天に代わり、再び仮眠を取ることにした。

 寄り添ってくる鹿の頭を撫でてやりながら、利天は唇を曲げた。


「周瑜……あいつ、結局どうするんだ?」



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