21
その衝撃は、まるで馬に胸を蹴られたかのように痛烈だった。
孫権は言葉を失った。
裏切り――――その言葉が頭の中をぐるぐると回る。
「白銅はずっと、尚香様のフリをしていた」
一旦言葉を区切って目を伏せる蒋欽を、孫権は茫然と見つめているしか無かった。
怒気かも殺気かももう分からない刺々しい威圧感を放つ周瑜が、咽に刃を押しつけて促す。
皮膚が薄く切れて血がつう、と刃に線を引く。
さすがに利天が咎めようとするより早く、蒋欽は言葉を続けた。
「我らは彼奴にこちらが察知しているとは知られぬよう、監視するに留めた」
「それも甘寧の体調が関係してんのか?」
利天の言葉に彼はゆっくりと頷く。
「ああ。あの時はまだ玉藻が目覚める前であった故、お袋を消耗させる訳にはいかなかった」
周瑜がぎりっと奥歯を噛み締めて、一度刃を離す。
それが明確な害意を持ってのことだと察した孫権は、次の瞬間には周瑜の腕を掴んでいた。
自分でも咄嗟のこの行動に驚き困惑していると、周瑜が怒鳴るように呼ぶ。
「孫権!」
「……周瑜……」
孫権は周瑜を見上げ、蒋欽へ視線を戻す。
「……、……脅さずとも、蒋欽は話してくれている。これ以上傷つける必要は無い」
「っ……お前は、何とも思わないのかよ。騙されていたんだぞ!」
思わない訳がない。
実妹の異変を頼りにしていた者達が把握していて、孫権らに黙っていたなど……裏切りという言葉が孫権の心に重りとなって沈む。
だが――――だが、どうしてか、それでも。
周瑜のように蒋欽を心の底から責める気になれないでいる。
むざむざ尚香を死なせた甘寧を憎む気が起きないでいる。
むしろ、甘寧自身のことと言い、幽谷のことと言い、彼女が全てを自分達へ話してくれなかったことがとても悲しく、そして寂しい。
それは何故か。
周瑜の腕を解放し、孫権は沈黙する。
ややあって、頭の片隅で声がした。
耳に聞き馴染んだ、尊敬している女性の声だ。
……ああ、そうだ。
確かに、そうだった。
誰かが言う言葉を声に乗せず口の中で繰り返す。
それだけで、孫権はその理由が分かった。
もう一度、周瑜を見上げる。
「周瑜。冷静になれば分かることだ。尚香の中に白銅がいたのなら、白銅次第で尚香に危害が及ぶやもしれなかった。彼女がそれに思い至らない筈がない」
「それは……」
周瑜は呻き、視線を逸らす。
否定はしなかった。
孫権は次に蒋欽を見、口を開いた。
甘寧は唐突に現れた時からこちらに好意的で、わけても孫家には親のように接してくれた。
だからこそ裏切られたという気持ちになったが、冷静に考えてみれば、だからこそ彼女が白銅を監視するに留めたのも理解が出来る。
彼女が語らなかった部分には、そう言う『見えない優しさ』があったのかもしれない。
そう語る孫権に、蒋欽は悲しげに顔を歪める。それが、孫権の言葉を肯定している。
そこで、諸葛亮が口を挟む。彼の視線は劉備へ向けられている。
「加えて、劉備様に宿る金眼の力を暴走させかねない。そうなれば孫呉も我らも曹操も、戦どころではない阿鼻叫喚の惨劇となりましょう」
それも、当然甘寧の胸にあろう。
孫呉のみならず、劉光の率いた劉軍の末裔たる猫族のことも慮(おもんぱか)って、彼女は尚香に宿る白銅に気付かぬフリをし続けたのだ。
孫家の知る甘寧はそういう女狐だと、孫権は教わっている。
「昔、とある人が死ぬ間際私と兄に教えてくれた。甘寧という名の赤い九尾の狐は優しく、母親のように人を愛している。愛するが故に、七まで語っても八以上を語らぬことがある。それが人間にとって傲慢、非情に見えても、実は残りの三には見えない優しさが隠れているのだ、と」
甘寧が後に孫家に関わることを、彼女は何故か分かっていた。
だから孫権と孫策に伝えたのだ。
勿論、当時は何のことか分からなかったが、その言葉があって孫策は甘寧の指示で仕官した周泰をすんなり受け入れた。
孫権も、甘寧の奔放さに戸惑わされるも有り難いことだと迎え入れた。
その言葉が頭の中にあったから、自分は甘寧に対してあまり憤りを感じていなかったのだった。
ただ、悲しくて、寂しいだけで。
蒋欽を見やる。
彼は唇を引き結び俯き、答えない。
孫権にとって答えとしてはそれでも十分だった。
だが、同時に寂寥感(せきりょうかん)が増す。
その意味も、分かっていた。
未だ自分が無力で頼りないから甘寧は切り捨てたのではないかと、臆病な自分自身がそう思うからだ。
孫権は吐き出すように言った。
「あの人は、本当に誰にも頼らずに独りで全てを終わらせるつもりなのだな」
そして、その全てと共に死んでいく。
甘寧の事情を話さぬことで情故に孫権らが手を貸す流れを避け、尚香と白銅の関係を話さぬことで孫権達から白銅へ刃を向ける理由を奪い、理由を奪うことで甘寧自身動きやすくし、連合軍に人外による大きな犠牲が出ることを回避しようとした。
父に続き四霊であった叔母、兄、そして今尚香を喪った孫権。
次は親のように接してくれた甘寧を、甘寧に守られながら喪うのだ。
何も、出来ずに。
曹操に文を出して事態を明かしても、恐らく曹操は信じまい。信じたとしても、それで止まる程の男とも思えない。
そして尚香の死に哭(こく)した孫呉の将兵らも、心のうちで猛り狂う激情をぶつける機を今か今かと待ち続けている。彼らに尚香の死の真相はとても伝えられぬ。
我らの戦は、もはや止められぬ。
ではこのまま甘寧の言葉に従って甘寧を助けず、戦に集中して良いのか?
あんなにも弱った彼女に、人の領域に無いからという理由で押し付けるのか?
短い時間で結論を出さねばならぬ現状、孫権は眉間に皺を寄せた。
あの人は、今の私にどんな言葉をかけてくれるだろうか。
孫権を『泣き虫仲謀』と妙な渾名をつけて叱咤しながら可愛がり、色んなことを教えてくれたあの人は。
父の遺体を孫家に帰していなくなったあの人は。
交わした約束は絶対に違えるな、出来ない約束はするなと言ったあの人は。
「……出来ない約束は、するな……」
「孫権? 何を言って――――」
「蒋欽。私達の叔母が四霊であったことは、お前も知っているな」
虚を突かれた蒋欽は目を丸くする。
唐突に無関係の話を持ち出され周瑜は一瞬反応に困って固まる。
「おい、孫権。今、それは関係ないだろ?」
「蒋欽」
周瑜も無視し、促す。
蒋欽は戸惑いつつ肯定した。
「……存じ上げております」
「先程の『とある人』とは、叔母のことだ。叔母上は頼り無かった私を可愛がって下さった。私に、交わした約束は絶対に違えぬことと共に、出来ぬ約束は交わすなとも教えてくれた」
そこまで聞いて、蒋欽は孫権の言わんとしていることを察したらしい。口を開けて何かを言おうとする前に、
「甘寧の覚悟は分かった。だが、私としては確約は出来ない。この戦、こちらも猫族と共に臨機応変に動かせてもらおう。自分達の命を守る為に、必要あらば白銅に刃を向けるやもしれぬ。白銅は尚香の仇だと知った私に出来る甘寧への最大の譲歩だ」
はっきりと告げた。
周瑜が目を剥き、利天が、おお、と感心の声を漏らす。
それに、諸葛亮が「こちらとしても」と加わる。
「弱り切った甘寧様の状態を見た以上、玉藻、白銅を一身に引き受けられるとのお言葉に説得力を感じません。考え得る事態をあらかじめ予測し、その為の対処法を実際に動くことを視野に入れて我らで考えさせていただく」
「そうしろそうしろ。あのざまじゃ、間違い無く人間にも被害が出る。こいつらが防波堤の代わりを完璧に果たすかも怪しいぞ」
利天も援護射撃を行い、諸葛亮と孫権を支持する。
孫権は周瑜を見やり、
「周瑜。お前には更に負担をかけることになるが、構わないか」
「……いや、それは構わない。むしろそれで良いと思う……が、だ。お前が叔母に可愛がってもらえるくらい親しかったなんて、オレは知らなかったぜ?」
周瑜が困惑しているのはそこだ。
少しだけ考えて、納得。
そう言えばそうだった。
彼女の亡き後に孫策に出会った周瑜は、このことを知らない。
彼だけではなく孫策も、尚香も、黄蓋も―――狐狸一族だって知らないだろう。
知っているのはたった一人、我が父孫堅のみ。
何故なら、
「あの人は自分の存在が与える影響をよく分かっていた。四霊が最も情をかけたのが私だと周りの者が知れば、兄との間に要らぬ確執が生じる可能性を常に危惧していた故、私に会いに来る時は人目を避けていたし、私にも身内以外には話さないように言っていた」
孫権が話したのは、父にだけ。
正直、誰にも聞かれぬよう兄妹に話せる自信が無く、たまたま体調を崩した孫権を一人で見舞いに来た父にならばと話したのだ。
父は孫権の判断は正しい、そのまま誰にも言わぬようにと言った。
むろん、孫策にも、尚香にも、他の親族にも。
何処で誰の耳がこれを拾い、私利私欲の為悪用するか分からないからと。
故に、孫権は誰にも、ただの一度も話したことが無い。
今ではそれが当たり前になっていた。
「蒋欽。我らの意思は、甘寧には言わないでくれ」
蒋欽は渋面を作った。
狐狸一族の長男である彼が孫権のこの頼みを聞けないのは、孫権もよく理解している。
それを踏まえた上で、重ねて頼み込んだ。
蒋欽は長く沈黙した。
周瑜が促しても、厳しい面持ちで見返すのみで、口を堅く閉ざしている。
しかし、やがては深い溜息をつき、
「……全てを知った以上、白銅は尚香様の仇と思うのは自然な流れ。ですが決して、決して自分達で白銅を倒そうなどと思わないで下さい。あくまで、不測の事態に備えるだけ……不測の事態となった時に、己の命を守る為に動かれて下さい。お袋の言う通りに人の子同士の戦に集中すると儂に約束して下さい」
白銅に復讐しようとして、死ぬことにならんで下さい。
頼み込むように言う大男へ、孫権は大きく頷いた。
それを確認し、蒋欽は目を伏せて渋々と了承した。
すかさず周瑜へ孫権が目配せする。
言葉無い指示を受け周瑜の目は諸葛亮へ向く。
諸葛亮も頷き、「では」腰を上げる。
「恒浪牙殿も巻き込みましょう。……利天」
「説得しろって?」
「嫌か?」
「任された」
あいつも心は孫権と同じだろうしな。
幽谷の顔でにやりと笑う利天に、やはりその場の誰もが顔を歪めた。
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