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 甘寧が運び出された後、孫権はおもむろに腰を上げ、利天の前に片膝をついた。
 蒋欽が何かを察して近付こうとするのを、孫権は一瞥で制した。


「利天。お前も幽谷もあの場にいた。尚香が曹操に殺された時のことを詳しく教えてもらえないか?」


 利天は片目を眇めた。

 確かに、封統に化けて曹操と尚香の会話に横から入ってからことの成り行きは見ていた。
 だが、自分の唯一の肉親が幽谷を夏侯惇に与えようと平然と提案したことも、曹操の剣を素手で掴んで自ら命を絶ったことも、素手で刃を掴んで血を流しながら悦んでいたことも、正直言えば教えるのは憚(はばか)られる。


「確かに途中から俺はそいつらの側にいたが……他人の俺からしても実兄のお前が知るのは、かなりキツいと思うぞ」

「構わない」


 断固とした声音で、孫権は言う。


「何でそんなに聞きたがる」

「……」


 孫権は、少し言い辛そうに口を閉じ、沈黙する。
 ややあって、


「分からない。だが、何かが引っかかっているような気がするのだ。尚香が川に落ちた光景を思い出すと、その正体の分からない何かが、よりしっかりと感じられる。このまま曹操との戦に望んで良いものか……詳しい話を聞ければ、正体だけでも分かると思った」

「……引っかかる、ね」


 ……血の繋がった者だからこそ、意識の外で何かを察しているのだろう。
 話せば、また別の事実が出てくるかもしれない。
 蒋欽も何か、口を割るやもしれぬ。

 「分かった」利天は頷いた。
 蒋欽が口を挟もうとするのを、今度は周瑜が止めた。咽元に得物を突きつけて。
 そうでもしなければ彼はきっと妨害しようとするだろう。


「何だ、尚香の死には触れられたくないのか?」

「……」


 蒋欽は唸り、口を噤む。
 その態度から利天の指摘が的に近い場所を射たことを誰もが察した。


「……利天。頼む」

「教えてやれるのは孫尚香と曹操の会話の途中からだ。その時外から聞こえた話では、呉や狐狸一族と手を組んで猫族を撃滅する。お前も甘寧も、この話は承知の上だったような言い種だったな」


 孫権は眉根を寄せた。


「そのような話は無い。確かに、尚香の置き手紙に曹操と同盟を結ぶと書いてあったが……寝耳に水の話だった。その時は曹操軍の罠で、尚香も幽谷も曹操の手の者に連れ去られたのかと」

「あいつらが来て驚いたのはこっちだ。お前の妹が戦場に来てるなんて話は曹操軍には届いてなかった。仮に届いていたとしても、どうやって取り入ったのかは知らねえがすっかり曹操のお気に入りの封統が、そんな策が浮上したとて実行させなかっただろうよ」


 孫権の話では、どうやら尚香の勝手な行為だったようだ。
 それに幽谷が巻き込まれ、曹操軍の陣に来たと。利天には思わぬ僥倖(ぎょうこう)ではあったが。


「……ってことは、幽谷を夏侯惇に差し出すって話も、あいつの独断か」


 呟くと、孫権は愕然と顎を落とした。


「幽谷を夏侯惇に差し出す? 尚香がそう言ったのか?」

「ああ、甘寧の許可を貰ってたとか言ってたが、幽谷はかなり動揺していた」


 胸がざわめく。
 《新》の方の幽谷がその時のことを思い出して怯えているのだ。

 利天は胸を押さえ孫権に待ったをかけた。


「お前らの知ってる方の幽谷が思い出して動揺してる。少し待ってくれ」

「分かった。……すまない」


 幽谷が内側から気にするなと伝えてくるが、胸がざわめくのはこっちが落ち着かない。
 この先も彼女にとってはキツい場面ばかりなのだ、休ませながらではなければ恐怖は積もる一方。ただでさえ弱っているのに、これ以上追い詰める訳にはいかない。

 胸のざわめきが落ち着くのを待って、話を再開させる。


「そこで、俺が封統に化けて幽谷の話を有耶無耶にしつつ、お前らが船で来たことを報せた。で、船が見える場所へ全員で移動した訳だ。孫権と甘寧だけが来る筈だったのが、劉備と関羽がいたことで孫尚香が疑われた」


 だが、彼女は劉備がいることに驚き、そして喜んでいたように、利天には見えた。


「そっから、彼女は暴走した。毒が塗られた匕首で曹操に襲いかかり、近寄った幽谷にも斬りかかった。邪魔だと言ってな」

「あいつがそんなことを? まさか!」


 声を荒げる周瑜。
 気持ちも分からないではないが、だからと言って実際利天が目にしたことを否定されても困る。
 もっとも、玉藻の所為でボロボロに弱った状態だったことを指摘されては確かに説得力は無いのだが。誰もそこまでは知らないだろうから、その心配は無い。

 利天は肩を竦め、


「まさかと言われてもな。俺は見たままを話してるだけだ」

「疑ってる訳ではない。ただ、私達の知る尚香ではまるで考えられない行動なのだ」

「止めるか?」

「続けて欲しい。……が、幽谷は休まなくて良いのか?」


 幽谷を気遣うのは良いが……こいつもこいつで、大丈夫か?
 本人の言う通りなら、ここまででも十分キツい話の筈だ。孫権にとっても、周瑜にとっても。

 幽谷を理由にして休憩を挟もう。
 利天は幽谷のことを伝え、暫し休ませてもらうと長めに間を置いた。

 二人の様子を窺い、再開する時期を見計らう。
 そして、


「……これは気をしっかり持って聞いてろよ」


 孫権はやおら頷く。


「曹操の刃を素手で掴み、その刃で、自分の命を絶った」


 詳しくは言わなかった。知る必要は無いし、ここまで知るのは酷だろう。
 ……ほら、先程の言葉で孫権も周瑜も青ざめている。
 蒋欽が沈痛な面持ちで俯く。

 このことは甘寧にも蒋欽にも話してあった。その上で二人が話さないつもりでいたのを、利天は孫権の意思を尊重した。

 孫権はゆっくりと立ち上がり、よろめいた。


「尚香が、自分で……この戦の為に……?」

「……そんな風には見えなかったけどな。あんたのことは呼び捨てにしていたし、どうも『お兄様』と呼んでいたのは別人のような気がした」


 と、そこでちらり、蒋欽に視線をやる。
 蒋欽は気まずげに顔を逸らし、しかし孫権に呼ばれて、


「……一度、尚香様が倒れたことがあり、その時に尚香様の身体のうちに白銅が潜んでいたことが判明致しました」


 俯いて答えた。

 その場の誰もがぎょっとして蒋欽を凝視する。



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