19
どうも、空気がざわめいているように感じて眠れない。
張飛は一人、陣から少し離れた崖の上から真下に広がる闇を見下ろしていた。
崖の下は長江。頭では分かっているのだが、落ちればそのまま永遠に落下し続けそうな果てしない不気味さを感じさせる。
無防備に覗き込んでいると、夜目が利く張飛でも底が見通せない無限の闇を漂う化け物に引きずり込まれそうだ――――そう思うと全身の毛が逆立った。
張飛は溜息をつき崖の縁から大きく距離を取って座った。
強い風に顔を叩かれる。風向きから察するに、風に混ざる焦げたような臭いは、曹操の陣から届いているのだろう。
今の風向きでは火計は有効ではない。曹操軍の船団には広がらず、最悪味方の船に延焼するだろうとのこと。
水上戦に不慣れな曹操軍。火計が成功すれば総崩れだって有り得る。
風向きが変わればなあ……。
風について、諸葛亮と周瑜が話していたのをちらと見かけたが、彼らのどちらからも猫族に話は来ていない。
星々の瞬く夜空を仰ぐ。
と、背後からさく、さく、と小さな足音が二つ。
どちらも聞き慣れている。長い付き合いだからこそだ。
「おーい、張飛ー」
「真夜中に単独行動してると、怪しまれるよ」
松明を手にした関定と、蘇双である。
張飛を咎めつつも隣に座る。
「関羽と劉備様は一緒じゃねえんだな」
「ああ。……二人共いねーの?」
「少なくともボクらが寝泊まりしてる辺りにはね。まあ、呉のお姫様が亡くなったばかりだし、落ち込んでるだろう劉備様の側に関羽がいるんだろうとは思う」
「そっか……」
劉備は優しい。
尚香の死に胸を痛めているだろう。
明日、戦の前に劉備と話しておくか、と心の中で決める。
「張飛、寝ないの? 明日の戦、寝不足で役に立たなかったら洒落にならないよ」
「分かってるって。もう少ししたら戻るから先に寝てろよ」
苦笑いして言うと、二人はしかし腰を上げなかった。
張飛は何も言わずにそのままにし、口を閉じた。
三人共、以降一言も発せず、ただただ時を過ごすのみ。
張飛でも二人の胸に今どんな思いが去来しているのかまでは分からない。
迷いなのか、覚悟なのか、恐れなのか。
けれど、彼らもそれぞれ明日の大戦に何か思うところがあるのは察せられた。
何も言わずに三人は座っていた。
長い沈黙を壊したのは、三人の誰でもなく。
「そこな猫族の子供。あまり夜更かしすると明日の戦に響くのではないか」
聞き慣れぬ声であった。
背後からのその声に三人はぎょっとして振り返った。
真後ろだった。
男が張飛の真後ろに立っていた。
武器を構える間も無かったので素手で構えると、男はおお、と張飛の構えに食いつきを見せた。
「お前も体術なのか。武具はそれか」
「は? あ、ああ、まあ……って、」
そこで、男の頭でぴんと立つ物に気付く。
獣の耳だ。
黒いが、猫族の耳より甘寧の耳に似ている。
そこで、同じく男の頭を見上げていた蘇双に目配せした。
蘇双は関定から松明を受け取り男の背後に回った。松明で彼の臀部より少し上を照らした。
その間、男は興味深く張飛の足元に転がっている武具を拾い上げ観察している。
ややあって、
「九本ある……」
「え、それって狐狸一族の甘寧さんの尻尾と同じ数じゃね?」
関定が男を見上げる。
男は、ここで何故か胸を張った。
「大昔に狐狸一族から追放されたのだ」
「それ自慢げに言うことじゃない」
困惑しつつもツッコんでしまう関定。蘇双に睨まれ気まずそうに顔を逸らした。
張飛は注意深く男を凝視した。
暫くして、長く吐息を漏らして構えを解いた。取り敢えず、敵意も害意も見えないので、一旦会話をしてみることにした。
何度も尻尾を数えなおしている蘇双を呼び戻し、改めて男と向き合う。
「えーっと、取り敢えず名前は?」
「名は、今は無い」
男は、張飛に武具を返して答えた。
詳しく聞くと、どうにも信じがたい。
元々ちゃんとした名前はあったのだけれど、数年前に川の主を怒らせ奪われてしまったと。これは最近のことだし、狐狸一族の追放とは関係がないようだ。
その後川の主の眷属に命を狙われ続けているとか何とか……金眼の呪いを受けた猫族であれど、さすがにすんなり信じて良いものか、迷うところである。
渋面を作ると、男は笑って「信じずとも良いぞ」と。
「話はしたが、信じろと強いる気は無い。話し手の話を信じる信じないは聞き手の心次第だ。俺としては、そういう訳だから名前が無いので俺を呼ぶ場合は好きな名前で呼んでくれ。と言っても、俺はこのままこっそり戦の行く末を見守る故、再び出会うかなどは分からぬがな」
「参加しねーの?」
「追放された身に何が許される。あの方の覚悟に水を差すことは出来ん」
あの方の覚悟……?
三人は顔を見合わせた。
「あの方って、」
「そうだ。覚悟と言えば、お前達。猫族の長を本気で支えていく覚悟はあるか?」
思い出したように問いかける。
問いかけようとしたところを遮られた蘇双の眉間に皺が寄った。
それを宥めるのは関定である。
こういうところは甘寧に似ていると思いながら、張飛は頷いた。
「当然だろ?」
その瞬間、男の顔から笑みが剥がれ落ちる。真摯な青い眼差しが張飛に向けられる。
「劉光の血を引き、金眼の呪いも受け継いだ劉備は、それだけの価値がある男か?」
「……ああ。オレだけじゃなくて、猫族皆がそう思ってるよ」
打って変わって雰囲気の重くなった男に戸惑う。
男はじっと張飛を見定めるように見つめ、蘇双と関定にも視線をやる。
関定はすぐに、警戒心をより強めた蘇双も関定に促されて張飛に同意を示す。
男の視線が張飛に戻った。
「では劉備が抱える罪を知った時、それがお前達を裏切るものであったとしても、同じく劉備を支えていくことは出来るのか?」
「……何が言いたい訳?」
蘇双が不信感も露わに問う。
劉備が自分達を裏切る? そんなこと、有り得ない。そんな罪を抱えている訳がない。
自信を持って言える。自分達は、幼い頃から彼を知っているのだから。
気の置けない友人であり、大事な長である。劉備が劉備だからこそ、猫族は皆彼を守る為に身体を張れるのだ。
世平も、そうだった。
自分達が得体の知れない男ではなく、劉備を信じないなどと絶対に無い。
揺らがぬ意思を態度で見せつけた三人に、男は目を伏せた。
暫し沈黙して、「最後に問う」目を開く。
「……知りたいか。劉備がどのような罪を背負っているのか。知れば、信じる信じないは別として、後悔をするだろう、劉備を恨むだろう、恨まずとも疑心暗鬼に囚われそれまで築き上げた関係が壊れるだろう。このまま知らずに済ませることも、出来る」
どうする?
声色低く、言った。
背筋がぞっとするような、まるで脅されているような剣呑さを孕んだ問い。
先程までの男の姿は何処へ消えてしまったのか。無害そうに見えたのは演技だったのだろうか。
この男は、一体何なんだ?
狐狸一族から追放されたという名前無きこの男の言葉は、果たして信じられるものなのか?
張飛は息を呑み威圧する男の目を凝視した。
けれどその瞳に、それとは全く違う、正反対の《温もり》があった。
何処かで見たことがある。
何処でた?
――――ああ、そうだ。
養父が自分に向ける目浮かぶ温もりによく似ている。
気付いた半瞬後、張飛は男の言葉が本当か嘘か幼馴染と論議せずに一人勝手に頷いていた。
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