幽谷は、途次で足を止めた。
 振り返って、薄く口を開き、すぐに閉じる。
 思案深げに目を伏せ、


「……遺志を、継ぐ……」


 呟いて元来た道を戻り始めた。



‡‡‡




「みんな、急ぐんだ! 女、子供を先に! 男たちは後ろへ行ってくれ! 追撃に備えるんだ!」


 趙雲の大音声が猫族達を急かす。
 皆が皆、恐怖と悲痛に暗い顔をし、子供達は泣きじゃくっている。

 それを痛ましげに見つめる趙雲は、不意に己を呼ぶ声に弾かれたように身体を反転させた。

 猫族達に混ざって、劉備を背負った関羽が走ってくる。
 趙雲は軽く瞠目した。


「無事だったか! 背中の劉備殿は……気を失っているのか? この顔の血は……?」


 関羽は目を伏せ、俯いた。


「これは、劉備じゃないの……。世平おじさんの血なの……!」


 趙雲は顎を落とした。


「世平殿の……!? それで、世平殿は?」

「それが……」


 刹那。
 後方で爆音が轟いた。
 皆が足を止め、暗闇の中もうもうと立ち上る煙を振り返る。


「あれは……! 誰かが山道を塞いだのか!?」

「そんな、まさか……!!」

「だ、誰っ!?」


 突如として前方を走っていた猫族の女性が声を張り上げた。
 ぎょっとして首を巡らせると、木に寄りかかるようにして一人の青年が立っていた。
 稀(まれ)に見る程に身長が高く、明るい赤の髪は暗闇の中でも輝く。彼は見る者の目を引く秀麗な容姿をしていた。惜しむらくは、眼帯で片目を隠していることだろうか。

 咄嗟に趙雲が大剣を構えるのに、青年は鷹揚に歩み寄る。その手に武器は無く、敵意も全く感じられないが、無言で近寄ってくる様はこの状況において不気味で脅威に感じられた。

 関羽は趙雲の背後に隠れ、劉備を守ろうとする。

 青年は趙雲の三歩手前で足を止めると、彼の後ろから睨む関羽を見やり、若草色の隻眼でその背の劉備を認めた。


「……長は無事か」

「え?」

「長は、無事か」


 静かで低い声だ。されども心地よく、耳にすんなりと入ってくる。
 関羽は困惑して趙雲を見上げた。


「お前は何者だ」

「……周泰」


 寡黙な青年である。
 淡々と短く答える彼は、趙雲を見やり目を細めた。


「……今朝は、妹が驚かせたようだ」

「今朝?」

「兄として、謝罪する」


 関羽は首を傾けた。

 だが、趙雲は瞠目して何かを知っている風情であった。


「もしや、あの時の女性のことか。彼女もまだこの近くにいるのか」


 周泰は劉備を見、


「我らが母より、猫族を守れと」


 言葉少なに答えながら山道の方を見やった。


「どういうことだ? 我らが母、とは……」

「狐狸一族の長」

「ふーり?」


 周泰は視線を動かさずに答える。

 聞き慣れない言葉である。
 フーリが狐を指していることは察しが付くが、だが彼は狐ではない。人間だ。

 フーリとは何か問いかけようとすると、そこで周泰が関羽を見た。関羽はたじろいだ。


「妹はお前と共にいなかったのか」

「え?」

「お前を長のもとへ導き、護衛する役目であった筈だが」


 彼の言葉にぱっと思い浮かんだのは、あの時劉備のもとへと案内してくれた、猫族とは違う獣の耳を持った女性である。
 まさか……彼女がこの人の妹?
 でも、どう見てもこの人は人間だわ。
 探るように見つめていると、


「獣の耳の有る無しは関係ない」

「え、あ……えと、」


 見透かしたように言われて思わずしどろもどろになる。

 周泰は己に警戒心を露わにする猫族を見渡し、趙雲を見やった。


「行き先は決まっているのか」

「……いや、それは、まだだけど……」

「ちょっと、関羽。余計なことは言わない方が良いよ」


 小走りに駆け寄ってくるのは蘇双だ。怪我をしているのか、右腕を庇いつつ左手で短剣を手にしている。
 関羽の側まで寄った彼は関羽に厳しい一瞥をくれ周泰を睨め上げた。


「こいつが何者かも分からないのに、ぺらぺら喋るものじゃない。人間達に荷担しているのかもしれないじゃないか」


 周泰は凪いだ眼差しで蘇双を見下ろす。そのまま、何も言わない。何か言えば良いだろうに、何も言おうとしないのだ。
 蘇双の警戒が徐々に強まるのにつられ、関羽もその場を離れようと数歩後退する。

 と、小石に踵を引っかけて後ろに倒れ込んでしまった。


「き、きゃぁ……!」

「! 関羽!」


 劉備を咄嗟に庇おうと身を捩った関羽は、振り返ったその目前に誰かが立っているのにぎゅっと目を瞑った。
 抱き留められる。


「――――おっと、危ない危ない」

「……、……え?」


 聞き覚えのあるのんびりとした声に、関羽は頓狂な声を上げた。
 猫族の誰でもないそれは、今聞く筈のないものであった。
 支えられて体勢を戻した関羽は相手を見上げ、驚愕に声を上げた。

 《彼》は、ふんわりと人の良さそうな笑みを浮かべる。


「な、何っ」

「やあ、関羽さん。お久し振りですねぇ」

「こ、こ……!」

「恒浪牙殿!」


 言葉に詰まってしまった関羽に代わり趙雲がその人物の名を呼ぶ。

 彼は――――かつて猫族に手を貸してくれた地仙は、関羽の頭を撫でて猫族達に頭を下げた。


「こ、恒浪牙さん、どうして、いつの間に……!」

「いや、険悪な雰囲気でしたので邪魔をしないように気配を殺して近付いてみました」


 悪びれも無く懐かしい笑みを浮かべて、恒浪牙は劉備の様子に痛ましげに顔を歪めた。


「先程の邪気……出て来たんですね」


 すみません、もっと早くに来るべきでした。
 苦悶の表情を浮かべて気を失っている劉備の頭をそっと撫でて謝罪する。

 関羽は小さく首を横に振った。

 恒浪牙は彼女に笑いかけ、周泰を見やった。


「やあ。君が伯母上の息子さんだね。初めまして。砂嵐の夫の、恒浪牙です」


 周泰は瞠目し、恭しく拱手した。


「……周泰、と申します。お初にお目にかかります」

「はは、随分と寡黙な子だね。伯母上とは正反対だ」

「恒浪牙殿……彼をご存じなのか?」


 恒浪牙は、不安を微塵も感じさせない穏やかな笑みで首肯した。


「私の妻……天仙なんですがね。妻の伯母に当たる方が息子として引き取られた子です。彼は信用出来ますよ。私が保証します。詳しい話は長くなってしまいますから、この場では控えておきましょう。今は、一刻も早く離れなければね」


 言って、恒浪牙は宥めるように険しい顔の蘇双の頭を撫でた。



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