17





「幽谷が死んだのは……劉備とわたしの為?」


 何を言っているの、と関羽は茫然と劉備を見上げる。

 劉備ははっと我に返り、青ざめた。
 関羽から逃れるように視線を逸らして「何でもない」かそけき声で誤魔化す。


「劉備、あなた……砂嵐さん達が現れる前に話していたわよね。わたし達は、前に幽谷に会ったことがあるのね? その……今の幽谷になる前の幽谷に」

「……」

「劉備、教えて。わたしが思い出したら、わたしがあなたの前からいなくなってしまうと言ったのはどういうこと? わたしはいつ彼女と会ったの?」


 劉備は唇を真一文字に引き結び、数歩後退して関羽から離れた。

 関羽が追いかけようとするのを、厳しい面持ちの恒浪牙が引き留める。彼の目は、責めるように冷たく劉備を睨む。

 関羽の追求を拒む劉備の様子を見ている蒋欽の胸に、かねてから抱いて片隅に放置していた疑問がふっと湧いた。

 他の猫族はともかくとして、何故関羽は少しも思い出していないのだろうか、と――――。

 劉備は金眼の力を覚醒させることで恒浪牙と泉沈によって封印された幽谷にまつわる全ての記憶を呼び覚ました。

 関羽は覚醒時劉備の身近にいた。衝撃で思い出してもおかしくない程に側に。

 だのに彼女の記憶に施された封印には綻び一つ生じていなかった。

 幽谷の元の自我が目覚めるにまで至った異変の原因である狐玉(こだま)の影響も――――いや、狐玉の影響が関羽達に出ないのは当たり前か。

 狐玉とは、九尾の狐の魂の欠片。死ぬか、自ら魂を砕くことによって生み出される奇石である。
 大きさによって強弱は変化するものの持ち主をあらゆる術から守る効力を持ち、更に持ち主が味方と判断する者にも、持ち主が強烈な思念を向ける相手にも、その加護は劣るが作用する。

 恒浪牙は以前幽谷を預かっている間に彼女が人間から譲り受けたことは記憶していたものの、明確には覚えていなかったので利天に訊ねて、かの簪(かんざし)に埋め込まれていた狐玉の大きさを確認している。
 それから考えても、持ち主の夏候惇が関羽達猫族に向ける嫌悪感や、敵対心程度では、封印を壊す程作用しないだろう。
 恒浪牙は幽谷に直接、長く関わった人間には特に念入りに封印を施している。泉沈の力も借りて二重に。
 もっと濃密でしつこい想念を以て増幅させなければ壊すどころか傷も入れられない。

 関羽は劉備とほぼ同等に厳重に封印を施されている。
 劉備のように完全に思い出すことは無いとしても、ほんの少しも綻んでいないのは奇異なことである。

 恒浪牙もこれを疑問に思わなかった筈はないが、異常が無いのだからと今は捨て置いているようだ。他に色々と考えるべきこと、悩むことが多すぎるから後回しにしている。

 これはあくまで蒋欽の勘の域を出ない確証の無い思考なのだが。

 関羽が思い出さないのは、偶然ではなく、別の何者かの意図が絡んでいるとしたら?
 彼女の、或いは彼女を含め猫族の記憶が封印された状態を維持したいと思う者がいるとしたら?

 まだ心も若かった昔のように根拠の無い勘で動くことは無くなった蒋欽。当たる確率は高いが、自身の勘を昔程信用していない。
 だがもしも……とこれを突っぱねることも出来ない。

 別の何者かが杞憂であること、万が一存在していたとしても我らの敵ではないことを、願いたいものだ。

 これ以上、状況を掻き回されてはたまらない。
 儂のこの疑問も勘も、ただの考えすぎであれば良いのだが……。
 


「劉備……!」

「関羽さん。今は、」

「すまぬがその話は、戦が終わってからにしてくれぬか」


 思考を止め、蒋欽は関羽に優しく声をかけた。


「でも、」

「曹操との大戦に加え、邪なる者へ変わったお袋の姉に、白銅。今は、これらの問題だけを意識して夜明けに臨んで欲しい」


 食い下がろうとする関羽の頭を撫で、諭す。

 曹操との決戦は、関羽達猫族にとって大きな意味を持つ。
 それがよく分かっているから、開戦の時が迫る今雑念に囚われるべきではないことを彼女らがこの場の誰よりも知っている。

 小さく頷く関羽の頭から手を離し、劉備を見やる。


 その時であった。


「――――私が、誰の為に死んだと?」


 寝言は寝て言うものでしょう。
 苛立たしげに、利天が吐き捨てた。

 ……否、利天ではない。

 恒浪牙がぎょっと利天だった彼女を見る。
 口を開きかけ、躊躇った。

 彼女は恒浪牙を見、ゆっくりと頭を下げた。


「お久し振りです、恒浪牙殿。犀家の幽谷にございます」


 その時――――ほんのつかの間、誰もが言葉を忘れてしまったかのように、声を発せられなかった。


「……さ、犀家の、幽谷……!」


 劉備がやっとのこと、掠れた声で彼女の言葉を繰り返す。

 ふらりと歩み寄る彼を見上げる色違いの目は、氷のように冷めている。


「――――誰です、あなたは」


 劉備は動きを止めた。金色の目を見開き、凝視する。


「そんな、幽谷……どうしてそんなこと、」

「私には生前の記憶がございます。十三支と会ったことなど一度もございません。人違いです」


 幽谷は立ち上がると真っ直ぐこちらへ歩いてくる。
 劉備を、関羽を無視し、甘寧の前つ。片膝をついた。

 甘寧と目線を合わせた幽谷の顔つきが、蒋欽の妹であった時のそれとはまるで違う。
 本来の幽谷とはこれが初めての顔合わせになるが、同じ身体、同じ顔であっても、蒋欽の目には別人のように瞭然として映った。


「私も、あなたの娘も、利天殿の影で話を聞かせていただきました」


 静かに言う幽谷に、甘寧は苦々しく笑う。


「……そんな芸当が出来るようには作っていなかった筈なんだがな」

「利天殿が、そのように」

「そうかよ。……で、わざわざ出てきたのは、母親面しといて自分の捨て駒にしてたオレに恨み言でも言いたいからか?」


 幽谷は静かに首を左右に振る。


「いいえ。私と、彼女との総意をお伝えしたかったのと、見ず知らずの赤の他人に身に覚えの無いことを真実のように話されているのが癪でしたので」


 早口に言う彼女に、甘寧は沈黙する。
 ややあって、


「……悪かったな」

「いえ。私共は、周りの人間が何と言おうと、甘寧殿の指示に従います。あなたのお役に立てるならこの身体、如何様(いかよう)にもお使い下さい」


 滔々(とうとう)と、一片の迷いも無く告げる。
 本当に幽谷同士で話し合ったのかは分からないが、誰にも反対を許さない、力強く、澱み無い言葉だった。

 茫然とする一同をそのままに、幽谷は甘寧に頭を下げる。

 劉備が泣きそうな顔で幽谷の後ろ姿を見つめていた。
 自分の知る幽谷であることは、彼なら見て分かる。
 幽谷本人からあのようなことを言われた衝撃は察するに余りあろう。

 関羽が思い出せば自分のもとから離れていく。
 だが、幽谷に記憶を否定されることも、同じくらい苦しいこと。

 そしてそれは、幽谷にとっても、同じであろう。


「私の用はそれだけです。まだ彼女の方が安定しておりませぬ故、暫くは利天殿に代わります」

「ああ。キツいようなら婿に言え。婿なら、オレの器の仕組みも理解出来ている。対処出来るだろう」


 「ありがとうございます」幽谷は元いた場所に戻り、目を伏せる。
 一呼吸置いて、


「――――言っておくが、中で話し合ってたってのは本当だからな」


 利天が、言う。



.

- 178 -


[*前] | [次#]

ページ:178/220

しおり