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「――――呉の姫君が殺された後、封統に化けた俺が李典の姿に戻って幽谷を刺して攫った時には、俺達もすでにぎりぎりの状態だった。で、幽谷を小川の水に浸した辺りで限界を迎えて玉藻が覚醒。俺は身体を追い出され幽谷の中へ逃げ込んだって訳だ」


 利天が簡単に説明すると、砂嵐が口を挟んだ。


「わたくしは、元々皆様に黙って曹操軍に軍師として潜入しておりました。尚香さんの件をどうにかして差し上げられず申し訳ございません」


 孫権に深々と頭を下げる仙女に、孫権はやや慌てて身を乗り出し「あなたがお気になさることではない」と顔を上げるよう懇願した。
 人間が天仙、しかも狐狸一族の長の姪に頭を下げられるなどあってはならない。真面目な孫権のこと、そのように思っているのだろう。甘寧に畏まった態度を取らないのは、人間を我が子のように可愛がる甘寧本人の強い要望――――言い方を変えれば我が儘――――に応えただけだ。


「甘寧伯母上も、黙っていて申し訳ありません」


 甘寧は弱々しいながらも笑った。


「ああ……お前が曹操軍にいるのは、気配で分かってた。封統もいるから、大丈夫だろうと好きにさせてたんだよ」

「え」


 砂嵐は目を丸くした。
 利天を見やり、苦笑いの夫を見やる。
 たちまちしゅんと肩を下げ、「そんな……」心底悔しそうな声を漏らした。


「絶対に知られていないと思っておりましたのに……」

「あなたが伯母上を出し抜ける筈がないでしょう」


 む、と砂嵐が恒浪牙を睨む。が、拗ねた子供のようで全く怖くもないし、本当に怒っている風にも見えない。

 そんな彼女の様子を見て利天も薄く笑った。
 周囲の人間が自分を何とも言えない複雑そうな顔で見ているのに気付き、すぐに仏頂面に戻る。

 幽谷の姿で、利天として振る舞うことに、周囲の者はまだ慣れないようだった。こればかりは仕方がない。

 「幽谷のことだが」利天は話の軌道を戻す。


「幽谷の傷はさっきも言ったように小川の水に浸けて治してある。幽谷が目覚めた時、甘寧の関係者だと感づいた玉藻に殺されかけたのを砂嵐に助けられた。その後、封統に合流して、俺と砂嵐だけでこちらに逃げることにしたんだ。あいつはまだ残るつもりのようだったが、良いのか?」

「ええ。彼女には、この戦で大事な役目を任されていますから。このまま予定通り、機を見て動いていただきます。河を渡る際、何かありましたね?」

「白い何かに襲われた。河底からいきなり、勢い良く飛び出してな。俺は身体が思うように動けない状態で、砂嵐が仙術で撃退出来ていなかったら、ヤバかっただろうな」


 劉備と関羽のもとに現れた時に弱っていたのは、そういうことであった。
 以後は恒浪牙から手当てを受け経緯を聴取され、皆を集めるに至る。

 甘寧は小さな顎を撫でながら、


「二人を襲った白い何かが、残るもう一体……白銅だろうな。河底に潜んでやがったか……」


 などと、さも忌々しげに吐き捨てる。
 尚香と白銅の関係については、この場に於いてはまだ伏せておく。
 全てが終わった後に真実を話すかどうかはまだ分からないが……まずその前に甘寧が生きていない可能性の方が高い。
 甘寧が命を落とせば、狐狸一族は――――それ以上考えることを止めた。


「河底に潜んでいるとなると……人間達の戦に飛び込んでくる可能性がありますね。何せ彼女は、」


 恒浪牙が視線を向けたのは、劉備である。


「金眼を盲目的に慕っていましたからねえ。劉備殿を金眼認定して新生金眼として覚醒させようとすると思うんですよ」

「その時は蒋欽が対応する。息子達にも援護するように言ってあるから、オレが行くまでは何とか持ちこたえられるだろう」


 猫族の力を借りて蒋欽が白銅を倒すと言う考えは、甘寧の中には無かった。
 今の甘寧の中では、劉備も他の猫族や人間達と同様自分が命を懸けてでも守らねばならない存在という認識に切り替わっている。
 他人から見てそれを切り捨てたと言うならそうなのだが、もし面と向かって指摘されたら、呪いを進行させると分かっていて劉備に接触して関羽などにも厳しい言葉をかけていたのは彼女の打算の為だけではなかった、劉軍の子孫に対する情はあるのだと蒋欽は擁護するだろう。

 そもそも甘寧が劉軍に関わる人間を邪険にすることこそ有り得ない話だと、蒋欽は生まれた時から知っている。

 甘寧には蒋欽を含む数人の息子達に《負い目》があった。
 それは劉軍にまつわるもので、だからこそ彼女が決して劉軍をないがしろにするなどと有り得ないと蒋欽は断じられる。
 猫族の配置近くに置く予定の息子らも、そういった者達であった。


「劉備様の前に白銅が現れた時、あなたが玉藻と交戦中である時はどうなさるおつもりで」

「いいや、同時に出ることは無い。白銅が先に姿を現すだろう」


 玉藻は、白銅の襲撃で弱った人間の心を更に更に追い詰めて、狂(たぶ)らせ、悪戯と言うには残虐過ぎるちょっかいを加え行動を観察、飽きたらその場にいる人間全てを殺す。
 三百年前がそうだったと甘寧は語る。

 これが今も変わらぬならば、白銅が人間達を襲っている間は、彼女は傍観に徹している筈。

 ただ――――。


「お袋。お袋が戦場にいるとなれば、あの方は真っ先にお袋を殺しに来るのではないか」


 甘寧は頷いた。


「白銅が戦場の近くにいなければ、まとめて引き寄せて戦場から遠ざけることも出来たがな……。白銅が現れるまで、オレは砂嵐と婿に結界を作ってもらって、その中で気配を消しておく。白銅が出たと分かった時には、劉備は勿論、猫族も呉軍も白銅らとの戦闘を避けること」


 釘を刺す。

 しかし孫権は甘寧を気遣って、


「こちらとしては、少しでもそちらへ手を貸したい」

「わ、わたし達も! せめて援護くらい……」


 そこで甘寧がまた咳き込み、口を押さえて前のめりになる。
 関羽が背中をさすり、口から外れた掌にべったりと付いた血に青ざめ悲鳴地味た声で恒浪牙を呼んだ。

 恒浪牙が慌てて駆け寄り様子を診ようとしたのを、甘寧は「必要ない」と拒んだ。


「しかし伯母上……」

「……これでも、まだ軽い方だ。婿に心配される程の状態じゃない……」


 甘寧は深呼吸を繰り返し、舌打ちして背筋を伸ばし話の腰を折ったことを謝罪、援護をきっぱりと断った。


「お前達は自分達の戦に集中しろ」

「甘寧!」


 周瑜が責め立てるように語気荒く呼ぶ。
 孫権がこれを咎めるものの、彼自身ここは甘寧に折れて欲しいのだろう。強くは周瑜を止めない。

 だが甘寧は彼らの抗議に対し無視を決め込んでいる。
 何があってもこの件に関しては譲らない。

 その理由を話せれば納得するのだろうが、如何せん、内容が内容なだけにそれは出来ない。
 母のように愛し育ててくれた実の姉だから妹である自分が彼女を殺さねばならぬのだと、最愛の妹を亡くしたばかりの孫権に、かつて失った己の家族を取り戻したい周瑜に、本来は穏やかで気の優しい青年である劉備に、同じく人の良い関羽に、兄弟を戦乱の中で失っていると封統が言った諸葛亮に、どうして言えようか。

 ……いや、納得をしても、より強く協力を申し出てくるかもしれぬ。
 むしろどうにかして玉藻を救い出そうと発奮しかねない。

 人の子の力を借りてどうにか出来れば、三百年前に封印などせずとも良かった。
 こうして甘寧が精神的にも肉体的にも苦しむことは無かった。

 蒋欽は苦々しく顔を歪めた。

 その時である。


「そいつに何を言っても無駄だ。恒浪牙の義父の姉だけあって、こうと決めた以上周りがどうやっても変えないのはそっくりだ。刺し違えるだけじゃなく外道に落ちる覚悟も決まってる奴に、お前らが何言ったって変わらねえ。……そうだろ、甘寧」


 幽谷を対玉藻の生け贄にするくらいだものな。
 己を――――幽谷を親指で示しながら、甘寧を強く睨めつけた。



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