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 関羽と劉備は、蒋欽が呼びに来るまでずっと待っていた。

 蒋欽が来るなりあの砂嵐と言う女性は大丈夫だったのか、幽谷や、幽谷の身体で喋っていた利天という人は無事なのか質問責めにされた。
 彼らを宥め、無事に二人から事情を聞いて、今から甘寧の意向で孫権達も交えて大事な話し合いをすると伝え、諸葛亮も連れてくるように頼んだ。

 諸葛亮を連れてくるのは関羽よりも劉備が良いと二人の間で話し合い、関羽は一足先に共に話し合いの場に向かうことになった。

 劉備と別れて歩き始めてすぐ、関羽がぽつりと言った。


「幽谷の中に、利天って人が入っているんですよね」

「ああ。元々は曹操軍の李典の中に入れられていたと後から聞いたが。ぬしは、長坂で直(じか)に会ったのだろう?」

「ええ……恒浪牙さんと仲が良かった人みたいでした。だけど去り際にこの格好を破廉恥だって言われて……そっちの衝撃の方が頭に残ってて、どういう人なんだろうって……」

「それは、利天の生まれた土地が、その昔、女性を神聖視していたからであろうなぁ」

「女性を神聖視?」


 蒋欽も、嫁の話以外人間だった頃を語りたがらない華佗――――恒浪牙本人から直接聞いたことはなく、甘寧からの又聞きの話でしかないのだが。

 利天が生まれた土地は、利天や恒浪牙が生まれるよりもずっと昔、当時の人間の言葉を借りるならば『見る人も聞く人も、そこにいた人々と同じ苦しみを数十年抱えるであろう絶望の災厄』に見舞われた。
 どのような災厄であったかは、甘寧もあまり話したがらなかったが、その土地の人間が人間という種族でなくなった災厄とだけ言った。
 災厄を収めたのは、一人の狐仙。
 その清らかな命を使い災厄の元凶を祓い、穢れにまみれた土地を浄化した彼女への感謝と崇拝が、生き残りの子孫にも女性信仰へと形を変えて受け継がれたということらしい。
 その信仰では、女性は顔と手以外は晒してはならぬとなっているそうだ。


「その狐仙は?」

「さあ、そこまでは分からん。儂も恒浪牙の大事にしとった賊のことが知りたかっただけで、詳しくは訊かんかったしなぁ。利天は、恒浪牙と賊を作った後も、女性を崇め大事に守っていたらしい。だからぬし程度の服装でも、許せんかったんであろうなぁ」

「そういう人なら……確かに、仕方がないですね。でもどうして、その人があの李典って武将ではなくて、幽谷の中にいるんでしょう?」


 勿論、幽谷が生きていたことは嬉しいと、慌てて関羽は言う。
 だが尚香のこともあり、曹操との因縁に終止符を打つ為のこの大戦(おおいくさ)、自分達の知らない場所で何がどのように動いているのか分からないのが、不安なのだろう。
 事態のほとんどを知っている蒋欽は、関羽の頭を撫でて穏やかに言い聞かせる。


「それは、これから分かる。利天と砂嵐に恒浪牙が話を聞いておる故」

「そう、ですねよね……話を聞いて、曹操との戦いのことも含めて皆でよく考えないと」


 考えるにも時間は限られている。
 あのような奇怪な事件が起ころうとも、曹操は必ず夜明けと共に仕掛けてくるであろう。
 不可解な事象に怖じて戦を止めるような小さな男なら、最初から猫族を利用しようなどとは思わないし、金眼の力を目覚めさせた劉備を殺そうなどとも思えぬ筈。

 唇を真一文字に引き結ぶ関羽の頭をもう一度撫で、蒋欽は正面に視線を戻す。
 一堂に会す幕舎が見えてきた。
 幕舎の入り口の前には狐狸一族の弟が二人控えており、呆れた顔で中を覗き込んでいる。

 何となく嫌な予感がして、急ぎ足に中へ入ろうとすると、


「おいゴラ、甘寧!!」


 酷くドスの利いた剣呑な女の声が、聞こえてきた。

 蒋欽は溜息をつきながら中に入る。
 幽谷――――の身体を一時的に借りた利天が、恒浪牙に後ろから羽交い締めにされながらも怒り心頭の様子で、自身の自慢の尻尾に腰掛けて目を伏せている甘寧を睨めつけている。
 孫権達の姿は、まだ無い。

 彼女の顔色の悪さに関羽がぎょっとして駆け寄り、利天から守るように前に立って顔色を覗き込む。


「大丈夫ですか?」

「……ああ、少し寝ていた。老いぼれて朝には強くなった筈なんだがなぁ」


 笑う力も無く、深呼吸を三度繰り返して関羽の頭を撫でようと手をゆっくりと上げて、


「良い子だな、呂布」

「え?」

「お袋、呂布殿ではなくて関羽だ。呂布殿は死んでしまったぞ」


 蒋欽に指摘され甘寧は目を細めた。
 関羽、と呟いて、長々と嘆息した。片手で顔を覆い「悪い」と苦々しく言った。


「いかんな。起きてるつもりで、寝ぼけてやがる。いや、耄碌(もうろく)し始めたかな」


 関羽が不安げに蒋欽を見上げる。

 尚香の呼び出しに応じて関羽達と曹操軍陣営へ赴いた時にはまだこんなにも顔色は悪くなかった。
 玉藻が完全に目覚めた直後から、母の弱体化は一気に進んだ。
 理由が理由だ、こればかりはどうしようもない。


「利天。こういう訳だ。お袋の格好が気に喰わんのは理解しているが、今の状態のお袋には、無駄な動きをさせんでくれ」

「……そのつもりで怒鳴ってたんじゃねえよ」

「こいつなりに、伯母上を心配してくれてるらしい。服を着て身体を温めろって説教始めてたんだよ」


 幽谷の顔で、親友をぎろりと睨めつける。
 が、舌打ちして大人しくなった。
 ちなみに、今の彼は恒浪牙の服を借りている。首から足先までほぼ露出は無い。

 恒浪牙が解放して肩を叩くと、砂嵐が駆け寄って無理矢理に座らせ、隣に正座。耳を僅かに倒し、蒋欽に苦笑いを浮かべてみせる。

 蒋欽も苦笑して肩をすくめて返した。

 関羽はひとまず事態が落ち着いたのを見計らい、


「あの……体調が悪いのなら横になっていた方が、」

「いんや。オレからお前達に話さなければならないことがある。特に、劉備にはな」

「だったら、温かいお茶でも用意しましょうか? これ以上悪くならないように身体を温めるだけでも」

「……じゃあ、頼む」


 関羽は頷き、一旦駆け足に幕舎を出る。

 彼女と入れ違いに、周泰に案内され孫権と周瑜が。
 彼らは甘寧の顔色の悪さにぎょっとしたのもつかの間、幽谷に気が付いて目を丸くした。

 どちらも大声で幽谷の名を呼び、血相変えて幽谷に駆け寄ろうとした周瑜は恒浪牙に「五月蠅ぇ馬鹿野郎」とぶん殴られた。恒浪牙が急速な甘寧の弱りように多少気が立っていたことは否めない。


「訳は全員集まってから話すが、取り敢えずこれは先に言っとく。今の幽谷は幽谷じゃねえから」

「幽谷が幽谷じゃない……?」

「それ、どういうことだよ」

「こういことだよ。っつーか、座り方で分からねえか? 幽谷はあの格好で胡座なんざかかねえだろう」


 利天が声を低くして、二人に言う。

 孫権と周瑜は、言葉を失った。

 恒浪牙から話を聞いていた周泰は驚かず、孫権達を砂嵐と利天の真向かいに座らせ、自身はその後ろに控えた。
 二人はそこで砂嵐の存在にも気付いてまだ動揺して詳細を聞きたがっているが、まだ劉備達も関羽もこの場にいない以上、話は出来ない。

 蒋欽が取り敢えず場が整うように言うと孫権は頷いたが、周瑜はらしくなく冷静さを欠き、苛立った様子で舌打ちする。……これで、幽谷に惚れていないと本人は言うのだから、彼の、ずっと抱いていた願いの強さ、深さが知れる。

 ひょっとしたら、彼は話の内容によっては激昂するかもしれない。
 甘寧がどれを何処まで話すのか、何処を嘘で塗り潰すのか、それとも洗いざらい話してしまうのか……蒋欽にも分からない。

 関羽が戻り、甘寧の両手にそっと温かいお茶を持たせて飲ませるのを眺めながら、蒋欽は目を伏せた。



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