12
蒋欽と話していたところへ青ざめた劉備が飛び込んできたのには驚いた。
しかも、敬語を使わない、邪に染まった方の劉備だ。
何事かと訊ねれば、彼は早口に利天と砂嵐が来たと告げた。
詳しく話す暇は無いと劉備はやや強引に恒浪牙の腕を掴んで、本陣から離れた長江の畔(ほとり)へ二人を導いた。
そこには砂嵐――――淡華の介抱をする関羽と、側に力無く座って俯いた幽谷の姿が。
恒浪牙が事態を把握するまで時間はさほどかからなかった。
幽谷の身体に、李典の身体から追い出された利天の意識が侵入したのだろう。
玉藻が完全に覚醒したことは恒浪牙自身気配で察していたし、甘寧からも秘密裏に告げられた。
劉備が飛び込んできたのは、そのことは開戦の前に孫権と周瑜に知らされるだろう、と話していたところであった。
向こう岸で何が起こったか聞き出すよりも先に、二人の治療にかかる。
内容によっては、劉備達のいる場で聞くのはマズいから、この二人も何処かで帰さなければならない。
堅く目を閉じた淡華の様子を視認し、恒浪牙は顔を上げる。
「劉備殿は、利天が入った幽谷の身体を幕舎に運んで下さい。今はまだ、誰にも見つからないようにお願いします。関羽さんは劉備殿と共に。それと幕舎で今から言う薬を準備しておいて下さい」
「分かりました! 劉備、急ぎましょう。わたしが周りを注意するから」
関羽は幽谷の身体を抱き上げる劉備の前に立ち、辺りの様子を確認しながら早足に本陣の方へ戻っていく。
その後ろ姿を見送って暫く。
恒浪牙は舌打ちした。淡華を抱き上げ、
「……少し揺さぶっちまうが、許してくれ」
青白い顔の淡華を見下ろし、恒浪牙は蒋欽に頷きかけた。
‡‡‡
劉備と関羽は堅く口止めをして一旦帰らせた。
手伝うと申し出てくれたが、淡華の容態では頭部を切開する必要があり、少しでも集中力が乱れると失敗の恐れがあるとそれらしい嘘をついて帰した。
蒋欽が、手術が終われば呼びに行くと勝手に約束をしてしまったが、まあ、それまでに話を聞いて口裏を合わせておけば問題は無かろう。
幸い、ああは言ったが意識の無い淡華は、軽傷だけで大した怪我はしていない。
ただ問題は幽谷の身体に入った利天の方だ。
無理矢理入ったのだろう。その影響で、幽谷の身体が酷く不安定だった。
もう少し到着が遅かったら、幽谷は身体に内包する全ての人格諸共崩壊していた恐れがある。
淡華の様子を蒋欽に看てもらいつつ、恒浪牙が身体を術で調整し直した。
淡華が目を覚ましたのは、調整を無事に終えて利天を寝かした後だ。
普通に会話も出来るからと、彼女の身体を支えてやりつつ何があったかを訊ねた。
淡華は痛ましげな顔で利天を見やり、小さな声で李典の身体の中に玉藻が潜んでいたのだと告げ、玉藻が目覚めた時の状況を語った。
「……そうか」
李典の中に、玉藻はいた。
恒浪牙は冷静だった。
――――長坂の利天の言動から何となくそんな気はしていたから。
「李典があの人の隠れ蓑だったんだな」
「……驚かれないのですね」
「可能性だけは、頭にあった」
誰にも言えなかったがな。
苦笑すると、淡華は小さく頷く。
「それで、良いと思います。わたくしも、きっとそうしていました」
気付いた時に甘寧に報告していたら……きっと、李典はその時点で利天や玉藻諸共(もろとも)――――。
それが嫌で、口を噤んでいた。
また昔のように、自分の所為で利天が、利天の宝が壊れてしまうと恐怖を覚えてしまったから。
許されぬと分かっていながら、誰にも言わなかった。その可能性を考えないようにしていた。
「……伯母上は多分、俺より先に気が付いていた筈だ。俺に遠慮して、気付かないフリをしていただけで。そうだろ」
蒋欽を見上げる。
彼は肩をすくめた。
「さてな。お袋は、考えていることが分からん。ただ、儂が確実に知っとるのは、身内や身内の大事な者にとことん甘いのは、昔から変わらんと言うことだ」
甘寧の思うように事態が動いていないのは事実。
やはりもっと早くにどうにか出来るうちにどうにかしておくべきだった。
甘寧の弱体化をはっきりと感じたあの時にでも、私情を捨てていれば。
そして結局は、利天は李典を助けることが出来なかった。
らしくない行動の結果がこれである。
俯く恒浪牙に、淡華は手を伸ばし、頬を撫でる。
蒋欽は優しい声をかけた。
「どちらにしても自分で選んだことだと全く気にせぬよ、お袋は」
蒋欽の巨大な手が恒浪牙の背中をとんとん叩く。珍しく、加減がされている。
「気にすることは無いのだ。それよりも、李典の自我が残っている可能性に賭けてみようではないか」
「……いや、その可能性は無い」
はっきりと否定する。
彼の身体がどのような作りであるかは知らないが、仮に何かしらの力を秘めていたとしても、李典の人格が残っているとは到底考えられない。
仙界の誰の話を聞いても、女妖玉藻の力は甘寧すら容易く凌駕する。
甘寧が彼女を封印出来たことすら奇跡に近いと言う程だ。
そんな厄介極まる化け物が完全覚醒するのだから、その自我も魂も、圧倒的な力に押し潰されるか呑み込まれて消えるかしている筈である。
更に言うならば、彼女によって李典の身体に利天が入っているという旨を利天自身、長坂で言っていた。
ならば彼女は覚醒時に不要な人格は消滅、或いは利天のように身体から追い出すよう、細工をあらかじめ施していた筈である。
「李典は、普通の人間なんだろう?」
「ええ。そうです」
「なら、もうすでに消えているに決まってる」
断じる恒浪牙。
私情を挟んだから悪い方向へ行った。
なればこそ、もう挟むまい。
そう決めたのに。
「まだ李典さんは身体の中で戦っていますわ」
淡華が、優しく言うのである。
「玉藻伯母上はわたくしのことを覚えておいでで、優しく接して下さいました。なれば、まだ昔のような優しさが残っていると、わたくしは信じます。世に産まれた命を我がことに利用して殺すような非道はなさりますまい」
「……お前な……」
優しく接したのは淡華だからだ。
淡華が産まれた時、まだ仙界に身を置いていた玉藻は誰よりも淡華を可愛がり甘やかしてばかりで、周りに窘(たしな)められていたと聞く。
淡華だから、邪に堕ちた今でも優しいのだ。
人間にも強い恨みを抱いている玉藻が、李典になど恩情をかける筈がない。
それは淡華も分かっているだろうに、何故か自信ありげに言うのだ。
それが利天の為の精一杯の虚勢だと、分かってはいるけれど。
「淡華……あのな」
「お二人の代わりにわたくしが信じます。それならよろしいでしょう?」
淡華はきっぱりと強い口調で言う。
暫し沈黙して、見つめ合う。
淡華が譲らないことを悟った恒浪牙は溜息をついた。
「お前も頑固だからな……言っても変えねえんだろうな」
「はい」
また、夫と夫の親友の為にきっぱりと頷く妻に、苦笑も浮かべられない。
「続きを話してくれ。その後に、利天を起こして伯母上と口裏を合わせる」
その上で劉備や孫権にも話さねばならないだろう。
どのような形になるかは、淡華からここに至るまでの経緯を聞いてからだ。
恒浪牙は、淡華を促した。
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