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 状況を読まない誤解を解いた後、何度も休憩を挟みながら進んでいた二人に合流したのは、黒い猫族の娘だった。
 黒の隻眼が安堵に細まった直後、幽谷を捉えて限界にまで見開かれた。


「淡華さ――――幽谷!?」


 淡華とは、砂嵐の本名のようだ。

 生きていた頃、本名は人間に明かしてはいけないのだと彼女が言っていた。それが父との約束のだとも。
 教えたいと思うのなら父に許可を貰う必要がある。その許可を貰えたのが夫となった華佗のみ。

 別に本名が分からないからと言って困ることは無く、彼女が義賊の皆を信用していたのは態度で分かるから、本名を知らずとも構わなかった。
 だから、本名が分かった今でも、利天は淡華ではなく、砂嵐と彼女を呼ぶことにする。

 顎を落とす娘に、砂嵐はまず周りを見渡して指を立てて静かにさせる。
 その上で、事情を説明する。

 勿論、幽谷が利天の心に同情して身体を貸してくれたことは、道中話している。

 砂嵐はそのことも彼女に話した。
 幽谷が無事に済んだことに安堵しつつ、幽谷の選択に呆れ果てていた。
 ……まあ、こちらとしては有り難いが、他者からすれば、このお人好しが……と呆れるのが正解だ。

 彼女は首筋を撫で、地面に座り込んだ利天を見やる。


「じゃあ、そいつが……」

「はい。華佗様の右腕、利天さんです。利天さん。この子は封蘭……あ、今は封統でしたね」

「……悪いな」


 封統は溜息をついた。


「別に……幽谷の意識を殺さないなら良い」

「それは問題無い。……別の人格が問題無くすんなり入り込めるのが問題だが。それは甘寧に訊ねりゃ分かるだろ」


 利天は後頭部を掻き、ふと自分の身なりを見て舌を打つ。
 不愉快極まり無いふしだらな格好である。
 どうしてこの時代の女は、こうも肌を晒しやがる。
 女が肌を見せて良いのは、生涯の伴侶だけだ。
 幽谷と言い、あの猫族の娘と言い……娘が操(みさお)を立てる大事さを教わらなかったのか。

 こういう格好に、邪な男は寄りつくのだ。
 その辺の男共にさあどうぞ襲って下さいと言っているようなものだ。


「砂嵐。まず着替えさせてくれねえか」

「でも、少し歩けばすぐ疲れて歩けなくなってしまうではありませんか。先程よりもずっと顔色が悪くなっております。せめて華佗様の所に至るまで辛抱して下さいまし」


 砂嵐は利天を良く理解している。
 何を不快に思って着替えを求めるのか分かっている。
 その上で、優しく諭した。

 この状況に於いては砂嵐の言うことこそ正しい。

 だがそれでも我慢ならないのだ。
 これが猫族の娘程であればまだ耐えられた。
 この幽谷は剰(あま)りに露出が激しすぎる。

 こんな状況でなければ説教をしてやりたいくらいである。

 渋る利天を、砂嵐は苦笑混じりに諭し続ける。


「……分かった」


 渋々、心底気が進まなさそうに頷く。


「良かったです。では、日暮れまで歩きましょう。あまり無理をすると、幽谷の身体が心配です」

「……」

「物凄く嫌そうな顔してるけど。なに、その格好、恥ずかしいの?」

「恥ずかしいんじゃなくて、ふしだらな格好が我慢ならねえだけだ」

「はあ? 馬鹿なの? 状況分かってる?」

「何だと」


 利天は眉間に皺を寄せる。
 拳を握った彼の前に砂嵐が立ち、封統に向き直る。


「封統。申し訳ないのだけれど、明日の朝からわたくしは利天さんと甘寧伯母上の所に参りますね」

「分かった。こっちは任せといて。朝まで休憩するなら、近くに手頃な洞窟がある。近くの動物達に見張りを頼んでおくし、幻覚をかけといてあげるよ。それなら、曹操軍の兵士が捜索に来てもやり過ごせるだろ」

「ありがとう、封統」


 封統は頷き、洞窟への案内を始めた。
 人に踏みならされた道を逸れ、獣道へ入り込む。
 身体に馴染まぬ利天には苦痛な道だが、やむを得ない。曹操軍の兵士に見つかって捕まる方が厄介だ。

 李典が玉藻の手に落ちた今、次に取るべき行動は、甘寧への接触だ。
 甘寧にも諦めろと言われるだろう。
 だが、諦める訳にはいかない。

 俺は、大事なものを救えなかった。
 俺は、双子の兄をも苦しめた。

 だから、兄の子孫である李典には……あの肺を患った可愛い姫君と共に、幸せに生きて欲しかった。

 それぞれ志を胸に、真っ直ぐ生きて欲しかった。

 だのに、このザマだ。
 なんて無力。

 俺は、将器ではない。
 それは小さな頃から分かっていた。
 お前は武を以(もっ)て兄を支えるのだと、両親からもずっと言われていた。

 一人ではこの武を世の為に生かしきれない。
 誰か、俺を存分に生かせる器の将が側にいなければ。

 俺という凶器は、何の役にも――――。


「利天さん……大丈夫ですか。少し休みますか?」


 砂嵐の不安げな声に意識を引き戻される。

 利天は怠い身体を自覚する。
 少し歩けば、すぐにこうなってしまう。
 しかし首を左右に振り、


「いや、良い……あと少しでゆっくり休める場所に着くのなら、耐えてでもこのまま進んだ方が楽だ」

「しかし、無理をすれば後々……」

「大丈夫だ。心配性なのは、昔からだな……」


 砂嵐の頭を撫で、無理矢理に立ち上がる。

 歩調を弛めて様子を窺っていた封統が怪訝そうに問いかける。


「本当に大丈夫なの? 幽谷の身体に何かあったら承知しないから」

「ああ、心得ている」


 封統は疑わしげに目を細め、しかし頑なな彼の態度にそれ以上は何も言わずに、先頭を歩く。

 利天は深呼吸を数度繰り返し、大丈夫だ、と繰り返す。



 されども、無事に洞窟に辿り着いた彼は、崩れるように倒れ込む。
 翌朝まで昏睡状態に陥った彼は、状態こそ安定した。

 が。

 ほんの少し動くだけでも酷い倦怠感に襲われる症状は、更に悪化していたのである。



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