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 ここで、時を遡る。


「お待ちいただけますか、玉藻(ぎょくそう)伯母上」


 聞き覚えのある声が、幽谷を現実に引き戻す。
 幽谷は咄嗟に女の裸体を押し飛ばし、距離を取った。

 女は幽谷を一瞥し、己の前に立った儚げな女性に向き直った。

 淡華。
 恒浪牙の妻であったという女仙。

 頭の上部左右から天に向かって突き出した耳は、髪と同じ艶めいた黒。
 穏やかな目は、女と同じ空のような蒼色。
 女と淡華――――何処か似ているように思えるのは、彼女が女を『玉藻伯母上』と言ったからだろうか。

 禍々しくも甘美な魔性の魅力を持ったあの玉藻と言う女は、淡華の身内であるらしい。


「そなたは……我が器の介抱をしておった娘だな。狐狸一族と見えるが」

「狐狸一族ではありませんが、九尾の狐の血を引く者ではありますわ」


 淡華は玉藻に微笑みかけ、ゆっくりと頭を下げた。


「ご無沙汰しております。興覇(こうは)の娘、淡華でございます。こちらでは砂嵐――――あ、いえ。徐庶と申します」


 玉藻は暫し沈黙し、思い出したように明るい声を出した。


「おお、あれが憐華(れんか)に産ませたあの赤子か。なるほど。しかし、興覇に似て名前をそんなに持ってどうする」


 玉藻は嬉しそうに頷き、両手を広げて淡華に歩み寄った。


「近くで見れば分かるな。泣けばくしゃくしゃに崩れた顔をしておったが、今では父と母の特徴を上手く継いで、美しい娘になった」

「嬉しゅうございますわ。ですが、玉藻伯母上には敵いません。……あ、そうです。そのお姿ではお風邪を召されますわ。お召し物をご用意しなくては……」

「なに、不要だ」


 玉藻はその場でくるりと回る。
 すると、一瞬で闇より濃い漆黒の衣が彼女の魅惑的な肢体を覆う。
 布に隠されてなお、性別問わず魅了する色香は弱まらない。
 むしろ、隠されているが故に、こちらの欲望を駆り立て焦らしてくる。

 近付いてはならない。
 幽谷はまた更に距離を取った。


「まあ、お揃いの黒ですね。白色のお召し物ばかりと、聞いておりましたが、黒も眩(まばゆ)い御髪がよく映えて素敵です」

「そちはもっと鮮やかな服を着れば良い。これは地味過ぎる。……いいや、男物ではないか。こんな物即刻脱いでしまえ」

「あっ、いいえ。これは故あってとある軍に潜入しているのです。どうです? これで、立派な男に見えませんか」


 淡華は自慢げに、玉藻のようにくるりと一回転してみせる。

 のんびりと、気後れもせず。
 本当に身内に対する無邪気な態度で玉藻と談笑する。

 身内だから出来るのだろうか。
 自分には到底信じられない。
 理性を保つことすら、難しいのに……。


「何を言う。何処から見ても女ではないか」

「えっ、そうなのですかっ?」


 淡華は傷ついたように眉尻を下げて、唇を尖らせた。
 自分の服を摘んで見下ろす。


「完璧だと思いましたのに……」

「そう言う間抜けさも父に似たか。ほれ、昔のように抱き締めてやろう。機嫌を直せ」

「まあ、嬉しい。赤子の頃の記憶が無いので、とても寂しかったんです」


 機嫌良く両手を広げる玉藻に、淡華は思い切り抱きつく。

 彼女の挙動に打算は一切見受けられない。
 まさかこのまま――――ひやりとした。

 だが、暫く抱き締められて満足した淡華は玉藻から離れ、悲しげに微笑んだ。


「玉藻伯母上……今お考えになっていること、お止めになっていただけませんか。淡華は、どちらの伯母上とも笑い合って、毎日を一緒に過ごしていきたく存じます」

「ならぬ。可愛いそちの頼みでもな」


 玉藻は姪の言葉を突き放す。

 淡華は俯き、両手を組んだ。

 そんな彼女を、玉藻は再び抱き締める。


「おお、泣くな、泣くな。可愛い淡華。もう赤子ではなかろうに」


 頭を愛おしげに撫で、姪をあやす。

 清い天女と、禍々しい女。
 正邪交わることの無い対極の存在である筈だのに、身内で、親しげに言葉を交わし合っている。

 この不協和音を、警戒して見つめる幽谷。
 ここを淡華に任せて逃げることも考えたが、身内とは言え、彼女を禍々しい玉藻と二人きりにするのは危うい気がする。

 が、どちらにしろ、もう遅かった。

 淡華を解放した玉藻が幽谷を流し目に見た。


「……して、あれは?」

「あの子は、元はわたくしが術で生み出した子です。ですが、わたくしでは身体を維持してあげることが出来なくて……甘寧伯母上に助けていただきました。器自体を作り替えていただきましたので、あの方の気配がするのも無理はありませんわ」


 玉藻は幽谷に手を伸ばし、誘うように動かす。

 幽谷は眉間に皺を寄せ、後退する。
 けれど淡華が微笑んで手招きするので、渋々従った。

 側に立つと、玉藻の手が幽谷の頬を撫でた。ただそれだけのことで全身がぞくぞくする。
 拳を握り締めて耐えていると、この世のものとは思えぬ美貌が迫ってくる。


「つまりはそちの娘ということになるのか」

「ええ。そうです。私の可愛い娘です。……あ、もう一人、可愛い娘がいるのですよ」

「ふむ……淡華の言葉ならば、信じよう」


 顎を掴んで上を向かされ、鼻が触れ合いそうな程近くからじっと見つめられる。


「この娘は、目が良いな」

「はい。わたくしも気に入っているのです。この子の瞳」


 手が離れる。
 どっと汗が噴き出した。
 よろめき、淡華に支えられる。


「大丈夫ですか」

「……は、い」


 縋るように袖を掴む幽谷の背中を、淡華の手が優しく撫でる。

 玉藻はその様を眺め、「気が変わった」


「その娘、壊しはすまい」

「ありがとうございます。玉藻伯母上。出来れば、わたくしのお願いも聞き届けて下さいましたら、とても嬉しいのですけれど」

「それはならぬ。早う戻るが良い」


 玉藻は拒絶し、二人から離れる。
 ふと、ある一方を指差して、


「気を付けよ。そこな大河に、白銅がおるぞ。人間共の戦が始まれば、奴も動き出そうな」


 警告を残し、姿を消した。

 彼女が立っていた場所を見つめる淡華は悲しげに目を伏せる。

 幽谷はほっとして深呼吸を二度程繰り返し、淡華から離れた。
 状況が全く分からない。
 あの男は一体……どうなった?

 男が苦しみ悶えていた場所を見やれば、そこには黒い液体が広がっている。

 近付こうとすると、淡華が言を発した。


「……幽谷。華佗様のところへ参りましょう。その前に、封統とも合流しなければ」


 華佗……とは、恒浪牙のことだ。
 自らの記憶とも、妙幻の記憶とも分からぬが、頭の中から手繰り寄せながら、頷く。


「……分かりました。では――――」


 どん。


 背中に、衝撃。
 幽谷は突然のそれに驚き、その場に倒れ込む。

 何かがのしかかってくる。

 それだけではない。
 何かが、頭に入り込んでくる……!?


「うぅ、が……っ!?」

「幽谷!?」


 無理矢理入り込んでくる得体の知れないモノが、幽谷の意識を押し退けてくる。

 淡華が幽谷を抱き起こし、呼びかけてくる。

 言葉を返してやれなかった。
 それよりも入り込んでくるモノに抗うので精一杯だったから。

 けれども――――。


『……悪い……力を貸してくれ』


 頭の中に響いた弱々しい声に、抗う気が一瞬弛んだ。
 瞬間、それは完全に入り込んだ。


『身体を、貸して貰う……!』


 俺は何としても李典を救ってやりたいんだ!
 強い強い想いが流れ込んでくる。

 大切な者を命に代えても助けてやりたい。
 自分の所為で助けてやれなかったことを深く後悔している。
 彼の抱く感情には、幽谷も馴染みがある。

 だから、幽谷は抗うことを止めた。

 《今の幽谷》には勝手に決めてしまって申し訳ないが、このまま彼に手を貸してやろうと思った。

 すう、と全身に浸透していく彼の強く悲痛な意志。
 こちらに遠慮しているのか、ゆっくりと、支配権を奪っていく。

 そして―――――幽谷の意識は優しく、追いやられた。


「……幽谷? 大丈夫ですか?」

「……砂嵐」

「え?」


 彼は、心の中で気遣ってくれた幽谷に謝辞を囁いて、立ち上がった。
 くらり、と眩暈。身体に馴染むまで時間がかかりそうだ。


「あの……」

「……俺だ、砂嵐。利天だ」

「えっ、利天さん!」


 淡華は手で口を覆い、こちらを見てくる。


「淡――――いや、砂嵐と呼んだ方が良いか。驚かせて、悪、」

「利天さんにそんな趣味があるなんて……!」

「おい」


 本気で衝撃を受けている彼女に、幽谷の身体を借りた利天は、顔を押さえて舌打ちした。



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