10
ここで、時を遡る。
「お待ちいただけますか、玉藻(ぎょくそう)伯母上」
聞き覚えのある声が、幽谷を現実に引き戻す。
幽谷は咄嗟に女の裸体を押し飛ばし、距離を取った。
女は幽谷を一瞥し、己の前に立った儚げな女性に向き直った。
淡華。
恒浪牙の妻であったという女仙。
頭の上部左右から天に向かって突き出した耳は、髪と同じ艶めいた黒。
穏やかな目は、女と同じ空のような蒼色。
女と淡華――――何処か似ているように思えるのは、彼女が女を『玉藻伯母上』と言ったからだろうか。
禍々しくも甘美な魔性の魅力を持ったあの玉藻と言う女は、淡華の身内であるらしい。
「そなたは……我が器の介抱をしておった娘だな。狐狸一族と見えるが」
「狐狸一族ではありませんが、九尾の狐の血を引く者ではありますわ」
淡華は玉藻に微笑みかけ、ゆっくりと頭を下げた。
「ご無沙汰しております。興覇(こうは)の娘、淡華でございます。こちらでは砂嵐――――あ、いえ。徐庶と申します」
玉藻は暫し沈黙し、思い出したように明るい声を出した。
「おお、あれが憐華(れんか)に産ませたあの赤子か。なるほど。しかし、興覇に似て名前をそんなに持ってどうする」
玉藻は嬉しそうに頷き、両手を広げて淡華に歩み寄った。
「近くで見れば分かるな。泣けばくしゃくしゃに崩れた顔をしておったが、今では父と母の特徴を上手く継いで、美しい娘になった」
「嬉しゅうございますわ。ですが、玉藻伯母上には敵いません。……あ、そうです。そのお姿ではお風邪を召されますわ。お召し物をご用意しなくては……」
「なに、不要だ」
玉藻はその場でくるりと回る。
すると、一瞬で闇より濃い漆黒の衣が彼女の魅惑的な肢体を覆う。
布に隠されてなお、性別問わず魅了する色香は弱まらない。
むしろ、隠されているが故に、こちらの欲望を駆り立て焦らしてくる。
近付いてはならない。
幽谷はまた更に距離を取った。
「まあ、お揃いの黒ですね。白色のお召し物ばかりと、聞いておりましたが、黒も眩(まばゆ)い御髪がよく映えて素敵です」
「そちはもっと鮮やかな服を着れば良い。これは地味過ぎる。……いいや、男物ではないか。こんな物即刻脱いでしまえ」
「あっ、いいえ。これは故あってとある軍に潜入しているのです。どうです? これで、立派な男に見えませんか」
淡華は自慢げに、玉藻のようにくるりと一回転してみせる。
のんびりと、気後れもせず。
本当に身内に対する無邪気な態度で玉藻と談笑する。
身内だから出来るのだろうか。
自分には到底信じられない。
理性を保つことすら、難しいのに……。
「何を言う。何処から見ても女ではないか」
「えっ、そうなのですかっ?」
淡華は傷ついたように眉尻を下げて、唇を尖らせた。
自分の服を摘んで見下ろす。
「完璧だと思いましたのに……」
「そう言う間抜けさも父に似たか。ほれ、昔のように抱き締めてやろう。機嫌を直せ」
「まあ、嬉しい。赤子の頃の記憶が無いので、とても寂しかったんです」
機嫌良く両手を広げる玉藻に、淡華は思い切り抱きつく。
彼女の挙動に打算は一切見受けられない。
まさかこのまま――――ひやりとした。
だが、暫く抱き締められて満足した淡華は玉藻から離れ、悲しげに微笑んだ。
「玉藻伯母上……今お考えになっていること、お止めになっていただけませんか。淡華は、どちらの伯母上とも笑い合って、毎日を一緒に過ごしていきたく存じます」
「ならぬ。可愛いそちの頼みでもな」
玉藻は姪の言葉を突き放す。
淡華は俯き、両手を組んだ。
そんな彼女を、玉藻は再び抱き締める。
「おお、泣くな、泣くな。可愛い淡華。もう赤子ではなかろうに」
頭を愛おしげに撫で、姪をあやす。
清い天女と、禍々しい女。
正邪交わることの無い対極の存在である筈だのに、身内で、親しげに言葉を交わし合っている。
この不協和音を、警戒して見つめる幽谷。
ここを淡華に任せて逃げることも考えたが、身内とは言え、彼女を禍々しい玉藻と二人きりにするのは危うい気がする。
が、どちらにしろ、もう遅かった。
淡華を解放した玉藻が幽谷を流し目に見た。
「……して、あれは?」
「あの子は、元はわたくしが術で生み出した子です。ですが、わたくしでは身体を維持してあげることが出来なくて……甘寧伯母上に助けていただきました。器自体を作り替えていただきましたので、あの方の気配がするのも無理はありませんわ」
玉藻は幽谷に手を伸ばし、誘うように動かす。
幽谷は眉間に皺を寄せ、後退する。
けれど淡華が微笑んで手招きするので、渋々従った。
側に立つと、玉藻の手が幽谷の頬を撫でた。ただそれだけのことで全身がぞくぞくする。
拳を握り締めて耐えていると、この世のものとは思えぬ美貌が迫ってくる。
「つまりはそちの娘ということになるのか」
「ええ。そうです。私の可愛い娘です。……あ、もう一人、可愛い娘がいるのですよ」
「ふむ……淡華の言葉ならば、信じよう」
顎を掴んで上を向かされ、鼻が触れ合いそうな程近くからじっと見つめられる。
「この娘は、目が良いな」
「はい。わたくしも気に入っているのです。この子の瞳」
手が離れる。
どっと汗が噴き出した。
よろめき、淡華に支えられる。
「大丈夫ですか」
「……は、い」
縋るように袖を掴む幽谷の背中を、淡華の手が優しく撫でる。
玉藻はその様を眺め、「気が変わった」
「その娘、壊しはすまい」
「ありがとうございます。玉藻伯母上。出来れば、わたくしのお願いも聞き届けて下さいましたら、とても嬉しいのですけれど」
「それはならぬ。早う戻るが良い」
玉藻は拒絶し、二人から離れる。
ふと、ある一方を指差して、
「気を付けよ。そこな大河に、白銅がおるぞ。人間共の戦が始まれば、奴も動き出そうな」
警告を残し、姿を消した。
彼女が立っていた場所を見つめる淡華は悲しげに目を伏せる。
幽谷はほっとして深呼吸を二度程繰り返し、淡華から離れた。
状況が全く分からない。
あの男は一体……どうなった?
男が苦しみ悶えていた場所を見やれば、そこには黒い液体が広がっている。
近付こうとすると、淡華が言を発した。
「……幽谷。華佗様のところへ参りましょう。その前に、封統とも合流しなければ」
華佗……とは、恒浪牙のことだ。
自らの記憶とも、妙幻の記憶とも分からぬが、頭の中から手繰り寄せながら、頷く。
「……分かりました。では――――」
どん。
背中に、衝撃。
幽谷は突然のそれに驚き、その場に倒れ込む。
何かがのしかかってくる。
それだけではない。
何かが、頭に入り込んでくる……!?
「うぅ、が……っ!?」
「幽谷!?」
無理矢理入り込んでくる得体の知れないモノが、幽谷の意識を押し退けてくる。
淡華が幽谷を抱き起こし、呼びかけてくる。
言葉を返してやれなかった。
それよりも入り込んでくるモノに抗うので精一杯だったから。
けれども――――。
『……悪い……力を貸してくれ』
頭の中に響いた弱々しい声に、抗う気が一瞬弛んだ。
瞬間、それは完全に入り込んだ。
『身体を、貸して貰う……!』
俺は何としても李典を救ってやりたいんだ!
強い強い想いが流れ込んでくる。
大切な者を命に代えても助けてやりたい。
自分の所為で助けてやれなかったことを深く後悔している。
彼の抱く感情には、幽谷も馴染みがある。
だから、幽谷は抗うことを止めた。
《今の幽谷》には勝手に決めてしまって申し訳ないが、このまま彼に手を貸してやろうと思った。
すう、と全身に浸透していく彼の強く悲痛な意志。
こちらに遠慮しているのか、ゆっくりと、支配権を奪っていく。
そして―――――幽谷の意識は優しく、追いやられた。
「……幽谷? 大丈夫ですか?」
「……砂嵐」
「え?」
彼は、心の中で気遣ってくれた幽谷に謝辞を囁いて、立ち上がった。
くらり、と眩暈。身体に馴染むまで時間がかかりそうだ。
「あの……」
「……俺だ、砂嵐。利天だ」
「えっ、利天さん!」
淡華は手で口を覆い、こちらを見てくる。
「淡――――いや、砂嵐と呼んだ方が良いか。驚かせて、悪、」
「利天さんにそんな趣味があるなんて……!」
「おい」
本気で衝撃を受けている彼女に、幽谷の身体を借りた利天は、顔を押さえて舌打ちした。
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