9
劉備の腕が乱暴に関羽の手を振り払う。
よろめいた関羽は面食らって、茫然と劉備を見上げる。
劉備は責めるように語気を荒げる。
「僕を助けたいだって? 違うよね。君が助けたいのは、君が好きな僕だけだ」
「りゅ、劉備……。あなた、どうして……?」
近付こうとすると、劉備は片手を薙いで牽制する。
心身とも傷つき、それでも威嚇する獣のような目で、関羽を睨めつける。
「ほら、その顔。その目。どうして君にそんな目で見られるんだろう? 僕だって、同じ劉備なのに。そんなに僕が恐ろしい? 強すぎる力を持っているから? それとも、たくさんの人を殺すから?」
矢継ぎ早に問い詰める劉備。
金眼の力に影響された方の劉備だ。
関羽は顔が強ばった。
「……君だって言ってたじゃないか。僕は、望んでこの力を手に入れたわけじゃない。ただ生まれつき、あっただけの力だよ。それに、君を手に入れたい、僕だけのものにしたいっていう気持ちは僕自身の……劉備の願いだ。それなのに、それを口にすると君は僕を拒絶する。そんなに僕が嫌いなの?」
「劉備っ! わたしは、あなたのこと嫌ってなんかないわ。今のあなたも、いつもの劉備も、劉備は劉備だって思っているもの」
「嘘だ……。だって君はこの僕になるのを嫌がってるじゃないか」
「そんなこと……」
劉備が眉根を寄せて一歩踏み出してくる。
関羽は反射的に二歩退がった。
それを見、劉備が冷めた目で鼻を鳴らした。
「ほら。怯えたような、どこか困ったような顔をするんだ。……いつもの僕に向けられるような笑顔とは違う。そんな顔をされるくらいなら……力づくで、君を手に入れたくなるよ」
「わたしが嫌がるのは、そうやってあなたが困らせるようなことばかりするからよ。あなたは人を殺しすぎる……」
「それがどうしてダメだって言うの? みんな僕の邪魔をする敵だ。殺してしまうのが一番楽なのに」
関羽は拳を握り締めた。
どうすれば、劉備のこの危うい考えを正せるのか。
自分も同じ劉備だというのなら、後から罪悪感に押し潰されそうになることくらい、分かる筈だろうに――――。
そう思った瞬間、胸の片隅で何かがはまりかけたような気がした。
それに意識を向けるも、劉備が棘のある声で引き戻してしまう。
「たくさん殺すのがダメなら、何人までならいいのさ? それを守ればいいんだろう? それで君が僕を嫌いにならないならそうするよ」
「ねえ、教えて?」強い口調で返答を促す劉備は、関羽の肩を掴んで激しく揺さぶる。
関羽が顔を歪めて逃げようとすると、爪が食い込む。
「僕を拒むなんて許さないよ……君を手に入れるためならなんでもする」
「そんな、なんでもなんて……」
「本当だよ? だって、君がいなければ意味がないんだ。僕の世界のすべては君なんだから――――」
そこで、劉備は目を剥く。
身体が大きく跳ね上がり、髪を振り乱して周囲を見渡す。
強ばった顔に強い怯えが走り、「五月蠅い!!」怒声を上げた。
関羽は驚いた。
「りゅ、劉備……どうしたの?」
「止めろ!! 僕に話しかけるな!! 僕に――――これ以上亡霊が僕を責めるな!!」
虚空へ向けて言い放ち、はっと手で口を塞ぐ。
青ざめた劉備は眦を下げてぶるぶる震え出した。
力無く座り込んだ劉備を、関羽は抱き締めるように支えて、軽く揺すった。
「劉備! どうしたの、劉備!」
「……っ関羽」
我に返った劉備は縋るように関羽の腕を掴む。
「どうして僕ばかり、駄目だって言われるんだ……僕はただ、君が欲しいだけなのに。幼い頃、僕の世界は君だけだった。幽谷が入ってきて、もっと鮮やかに、幸せにしてくれた。なのに、幽谷がまた僕の前から消えて、君までまた僕の前からいなくなったら意味が無い……」
「幽谷が……『また』? あなたが、幽谷にも拘っているのは、」
幽谷は、過去の記憶を持たない。
その本人が失ってしまった記憶を彼は知っているとでも言うのか。
でも劉備の言い方だと、わたしも知っていることになるわ。
幽谷のこと、曹操の元から逃げ出すまでわたしは全く知らなかったのに……変ね。
劉備がわたしと一緒に自分の側にいて欲しいと願うくらいなのだから、とても親しかった筈。
それならわたしと接触していてもおかしくはない――――だって、昔からわたし達は一緒にいたもの。
首を傾げて記憶を探る関羽に、劉備は慌てて声を荒げた。
「知らなくて良い! 君は何も思い出さなくて良い!!」
「何も思い出さなくて……って、やっぱり幽谷とわたし達、何処かで会ったことがあるの?」
「思い出さなくて良い!! 君は何も思い出さないで……僕から離れていかないで……!」
劉備は鬼気迫る形相で懇願する。
「思い出してしまったら君は僕の前から消えてしまう……そんなの、絶対に許さない!!」
「劉備……」
「君が隣で眠ってくれてるだけでいい。穏やかな寝顔で、僕を優しく抱き締めてくれれば……それだけで、もう、良いんだ……!」
関羽の肩を掴み、身を寄せて訴えてくる。
悲痛な劉備の姿に、関羽は戸惑いながらも既視感を覚えた。
そうだ……あの日、天幕の中でいつもの劉備が――――。
『いつも目の前に、君が眠っていた。穏やかな寝顔で、僕を優しく抱いてくれていた。部屋の中には僕と君と、偃月の光だけ……。僕にとって、世界は君。君は僕のすべてなんだよ……』
彼もこんな風に必死に、訴えていた。
思い出した関羽の脳裏に、また別の声が響く。
『いや、勇気ではないか。本当に向き合えているのか、《つもり》になっていないか、まず自分の心を疑ってみるべきだろうな』
向き合えている《つもり》になっていないか――――。
関羽は劉備の顔を見つめ、あの狐狸一族の男の言葉を心中で繰り返した。
そのうち、胸の奥で、大きな物がぴったりとはまったような……いや、今までズレていた物がきちんと合わさったような気がした。
どんな劉備でも、劉備は、劉備。
ずっとそう思っている《つもり》だった。
今の劉備も、いつもの劉備も、根本は同じなんだ……。
その想いを叶えたいと強く願うのは同じ。
違うのは、その手段だけ。
あの人の言う通り。
わたしは、全部《つもり》でしかなかったんだわ。
両手を劉備の頬に添えると、劉備の瞳が震える。
関羽は劉備を優しく諭す。
「劉備、わたしは人が傷つくのがつらいの。人は死んでしまうと悲しいわ……」
「僕は君以外のことなんて知らない。もう、君以外はどうだっていいんだ……」
「わたしは嫌よ」首を横に振って、劉備の顔から手を離し、今度は彼の手に重ねた。
「……それに、劉備だって嫌なはず」
劉備は瞠目する。
「だって、いつもの劉備は常にみんなの心配をしているわ。戦の時も、怪我してないかひどく気にするの。みんな同じ劉備なら、あばたにだってわかるはずでしょう?」
「そんなこと……っ!」
「今のあなたは、金眼の力で欲望が増幅されて戦いや血に反応してしまうだけ……。博望坡の戦いや……世平おじさんを手にかけてしまった時も、劉備は後悔していたもの」
《つもり》でなく、本当の意味で今の劉備ともっと早く向き合えていたら、劉備を苦しめることは無かった。
甘寧が言っていた『毒』とは、こういうことなのかもしれない。
なら、これからわたしは、『薬』に変われるのだろうか。
……変わりたい。
劉備の『薬』になってあげたい。
いいや、なろう。
強く、強く、思う。
「いつもつらい思いをしていたのに、今まで気づけなくて、ごめんなさい」
立ち上がり、劉備から数歩離れて頭を下げる。
「それに、みんなだけじゃない。わたしは劉備が傷つくとすごく悲しいわ……戦いの後の劉備はいつも悲しい思いをしている。もうそんな思いをしてほしくないの……」
わたしは今の劉備にも、いつもの劉備にも笑っていてほしい。
顔を上げてみた劉備は口を半開きにして、関羽を凝視していた。
関羽は彼に歩み寄り、立ち上がらせる。
「ほら、笑って?」
「……君はずるいよ」
劉備は泣きそうな顔をして、震える手で関羽をそうっと抱き締めた。
「僕なんかよりも、ずっと僕のことがわかってるんだね」
「そんなことないわ。でも、これからもいつも一緒にいるから、劉備のこと、もっともっと知りたいわ。もちろん、どちらの劉備もね。だから、一緒に乗り越えましょう?」
わたしは、まだ向き合えていなかったことに気付いたばかり。
これからしっかりと《劉備》と向き合って行こう。
自身にも言い聞かせる。
劉備の手が、頭を撫でてくる。怯えに震えた、まるで生まれたての赤子を抱いた時のように、ぎこちない。
大事に扱おうという意思を持った劉備の手に、関羽の口角は弛んだ。
と、劉備が腕の力を弛め、頬に唇を寄せる。
「……僕と話す君はいつも怒っているのに、今日はとても穏やかに話が出来る」
とても嬉しいと、劉備はまた腕に力を込める。
力を込めても、それ程強くはない。
その気になればすんなりと逃げてしまえる程、弱い。
もう一度頬に口付けて、小さく笑った。
「……今日は大人しいんだね。いつも僕が触れると、すごく嫌がるのに」
「嫌がってたわけじゃないんだけど、あなたがいつも強引すぎるんだもの。時と場所を選ばないし……」
責める関羽に、劉備は困惑する。
思わぬ反応である。
「そんなこと言われても、わからないよ」
それは、まったき本心からの言葉だ。
本当にわかってないんだ。
関羽はぽかんとして、不服そうに唇を尖らせる劉備を凝視した。
そのうち微笑ましく思えて、笑ってしまう。
それに劉備が過剰に反応した。
顎を落として目を真ん丸に見開いて、関羽の顔を穴が空いてしまうくらい見つめてくる。
かと思えば、花が咲いたように明るい笑顔になるのだ。
「笑った……。君が初めて、僕に笑ってくれた……」
いつもの劉備ではなく、今の劉備に対して笑ったことが嬉しいのだ。
そう言えば、確かに今まで彼に向かって笑顔を浮かべた記憶は無いように思う。
嬉しいと幸せそうに繰り返す劉備にちょっとだけ恥ずかしさを覚えるが、ただ笑っただけのことでこんなにも喜んでくれることが、関羽は嬉しかった。
「ごめんね劉備。別に意識してやってたわけじゃなかったんだけど、今まであなたに少し身構えてしまっていたのかもしれない。でも今度からは違うわ。わたしもちゃんと劉備に向き合う」
だけど、今日はもう遅い。
もう寝ようと劉備の手を引き、関羽は微笑んだ。
「あ、また笑った」劉備は、無邪気に喜んだ。
「こんなにやさしく君に笑いかけてもらえるなんて、今日は幸せな日だな……」
上機嫌で言う劉備。
関羽は彼の頭を撫でようと手を伸ばし――――。
突如感じた気配に身体を反転させた。
瞬間、正面の川面から水柱が立ち上がる。
関羽は劉備を背に庇って体術の構えを取った。
水が落ちていく。
水に包まれていたものが上から露わになる。
顔を目にし、
「あ……っ!!」
嘘!!
関羽はそう叫ばすにおれなかった。
水柱から現れたその人物。
女にしては高い身長に、すらりと細い身体に、豊満な胸、こめかみから横に突き出した獣の耳。
そして一際目を引く、赤と青の瞳――――。
歓喜と戸惑いが、関羽の胸で混ざり合う。
「幽谷……!!」
狐狸一族の末娘が、女性を大事そうに抱え、長江から現れた。
が。
彼女は関羽と劉備を捉えると、《舌打ち》した。
「え……」
「……呉の本陣じゃねえのかよ……っくそ、」
がくり。膝が折れた。
固まっていた関羽は我に返り二人に駆け寄る。
「あ……幽谷! 大丈、」
「今すぐ華佗を呼べ!」
「!」
幽谷の筈のその人物は、二人を怒鳴りつけた。
「利天と砂嵐が来たと今すぐ伝えろ!!」
.
- 170 -
[*前] | [次#]
ページ:170/220
しおり
←