陣が忙しなく動き出した。
 張り詰めていた空気が冷え切るのとは対照的に、兵士達が放つ熱気は今や最高潮に達している。

 戦を直前の忙しなさだ。

 猫族も、軍議を開いていた。


「……以上が策の概要だ。基本的には、呉の水軍と狐狸一族の一部に曹操軍全体のかく乱を任せ、我々は残りの狐狸一族と共に頭の曹操を特攻で攻める形だ。なにか質問は? なければ隊の配置説明に移る」


 諸葛亮は周囲を見渡し、猫族に質問が無いことを視認する。一つ、頷いた。


「では、隊の配置を説明しよう。だがその前に、決めねばならないことがある。劉備様のことだ」


 諸葛亮の言葉に関羽は目を丸くした。諸葛亮の隣で頷いて見せた劉備を凝視する。


「やっぱり僕も戦に出させて欲しいんだ」

「劉備! わたしは反対よ」


 すかさず前に出た関羽に、劉備は眦を下げる。


「だけど、この戦いに勝たなければ猫族に明日はない。そんな戦いに、僕一人が安全なところに逃げて、ただみんなの無事を祈ってるだけなんて……」

「その気持ちはわかるけど……」

「それに、甘寧様はあの身体でも戦に出ると仰った。息子達を危険な戦場に向かわせておいてどうして自分が安全地帯でのうのうとしていられるのか……こんな身体でも、頭を使えば足手まといにならぬように振る舞うことは出来るし、そうしながらでも息子達を守る為の術くらいは使える、と。それなのに、僕はまた皆に守られてしまう」


 甘寧と劉備は違う。
 甘寧がそうでもかならずしも劉備はそうしなければならない理由は無い。

 戦が始まれば今以上に陰の気が強まる。
 劉備が再び金眼の力に取り込まれたら……。
 ぞっとする。

 何としても止めたい関羽は、劉備を見上げ、口を開いた。

 けれども、


「劉備、姉貴の言うとおりだ。やっぱ、劉備には安全なとこで待っててもらいてーよ」

「そうです。狐狸一族がどうであれ、ボクたちは劉備様をお守りしたいんです」

「呉の連中は士気がどうこう言ってたけど、劉備様が戦場にいないからって、オレたちの士気が下がるわけないですから! それに、甘寧様がどう言おうと、オレ達の長は劉備様ただ一人だって思ってます!」


 だから大丈夫! と熱弁する関定に首肯する張飛と蘇双。

 関羽はほっとして彼らに続いた。


「それにね劉備、あなたが以前、陰の気や人の血に、金眼の力を蘇らせる力があるって言ってたでしょ? 戦はそんな陰の気や血で満たされる場所だって。だから、劉備の中の金眼を大きくしないように、戦に出ないようにしようって。そうわたしと約束したでしょ?」


 劉備は視線を落とした。


「……確かに君の言う通り、戦場に出たら僕はまた血に狂ってしまうかもしれない……金眼の呪いに囚われて、戦いの中で血に狂ってしまったら……また、大勢の人の命が奪われる。それだけじゃない。もしかしたら……大切な君たちの命まで奪ってしまうかもしれない……」


 一旦言葉を途切れさせて目を伏せ、「だけど」ゆっくりと開ける。


「封印を解いて成長を取り戻したのは僕の意志だ。だのに、抗いもせずに、このままずっと皆に守られて安全な場所で待ち続けるのでは……」


 悲しげな金の瞳に被さる長い睫毛が震える。

 劉備は優しい。

 だから、こんな風に苦しんで欲しくない。その為に自分が命を懸けてでも守りたいと思う。

 金眼の力に狂わされて破壊衝動のまま暴れれば、彼は一人で苦しんでしまう。血で濡らした手を見下ろして、後悔するのだ。

 そんなの、猫族は誰も望んでいない。


「劉備……」

「あー、劉備」


 関羽が劉備に手を伸ばしかけた時、張飛が片手を挙げ、


「そんな風に思い詰める必要なんて全然ないんだぜ。オレはオマエがどんなにオレたちのことを守りたいか知ってる。でも、それと同じでオレたちも劉備を守りたい。金眼の力の所為でオマエがどんなに辛い目に遭ってるかも知ってる。だけど、金眼の力がすぐにどうこう出来るものじゃないっていうのも、苦しむオマエを見てれば分かる。金眼の力は、この戦が終わってから、皆と一緒に考えていこうぜ。オレたち全員が、オマエが大切だからそうしたいんだ。だから今は、安心して待っててくれよ!」


 「なっ?」笑って歩み寄り、肩をばしんと叩く張飛。

 彼に賛同する蘇双と関定が張飛の隣に立った。


「そうです。劉備様は呪いになんか絶対に負けません。世平叔父だって、そう信じてます」

「そうですよ、劉備様。いざとなったらオレたちがいますから! 何でも一人で悩まないで、もっと頼ってくれて良いんですよ!」


 劉備は軽く目を剥いた。
 三人の名前を呟き、瞳を揺らす。

 関羽はほっと息を吐き、彼の腕にそっと触れた。


「ほらね、劉備。みんなあなたのことがとても大切なのよ。そのことをちゃんとわかって……」


 劉備は関羽の手を、そっと剥がした。
 一歩後ろへ退き、悩ましげに俯く。


「……僕には――――僕には……君達にそんな風に想ってもらう資格なんてないんだ……」


 関羽は目を瞠った。

 張飛達も、困惑して互いに顔を見合わせる。

 劉備は、何も言わない。
 腕を組み唇を引き結ぶ。

 やりとりを静観していた諸葛亮が主の様子を見据えながら口を開く。


「それでは劉備様、どうされますか?」

「……わかった。みんなの言うとおりにするよ」


 背を向け、足早に部屋を出ていく。

 猫族は、長の背中が拒絶しているように感じられて、戸惑いながらただ見送るしか出来なかった。

 唯一関羽だけは、自然と足が動いた。
 彼女も彼は一人を望んでいるのかもしれない、と思う。
 でも、今劉備を一人にはしておけなかった。

 諸葛亮に一言断り、劉備を追いかける。



‡‡‡




 劉備は、昨夜と同じ河の畔に独り佇んでいた。

 関羽はほっとして歩み寄る。


「劉備、こんなところで何してるの? 探したのよ」


 劉備は関羽を振り返り、作り笑いを浮かべる。


「ああ、君か……。月を……見ていたんだ」

「月?」


 劉備が天を仰ぐ。

 関羽も倣い、小さく声を漏らす。

 今宵は、偃月。
 陰と陽が半分になる夜……。
 関羽な劉備の隣に立った。


「きれいな偃月だ。僕が一番よく知っている月……。今日の偃月は上弦だね」


 劉備はそこで、笑声を漏らす。先程とは違って、自然とこぼれた笑みだった。

 懐かしんで笑う劉備は、幼い頃の己を話す。
 月の満ち欠けを知らなかった幼い自分は、初めて下弦の偃月を見た時、驚き不思議がったのだという。
 どうして、お月様がひっくり返っちゃったんだろう――――と。

 純粋な子供の、純朴な疑問が、可愛らしい。
 関羽も笑った。


「それは驚いたでしょうね」


 劉備は頷いた。

 劉備は偃月の夜にだけ、本来の、年相応の劉備に戻れた。
 その短い時間の間許されたことは、関羽の寝顔を眺めることだけ。
 だから、当時の彼にとって世界とは偃月と、自分と関羽だけ。


「ねえ劉備、あなたが目覚める時、わたしはいつもいたんでしょ? どうして一度も起こさなかったの?」


 突然の問いに、劉備は驚いたようだった。関羽を見下ろした目を丸くして、首を傾ける。


「え……だって君はいつも本当によく眠ってたし……」

「そ、そう?」


 そんなに爆睡していたのかしら……。
 少し、恥ずかしい。


「君の寝顔を見ていると、幸せで嬉しい気持ちになれたんだ……とても綺麗だったな……」


 劉備は目を細め、偃月に視線を戻した。


「どうしてあんなに嬉しかったのか、今ではちゃんとわかるんだ。きっと僕だけの特権だと思ってたからだよ」

「えっ?」

「あの夜だけは、君が僕だけのものだと思えたんだ……だから起こせなかったんだ」


 それだけ視線を受けていて、どうしてわたしは起きなかったのかしら……。
 関羽は俯き、唇を曲げた。


「でもこうやって君とゆっくり話すのも安心するし、とても好きだよ。色んなことを話したくなる」

「そういえば、こういう風にあなたの話を聞くのは初めてね。普段の時のことは、覚えてないの?」

「普段の僕も、僕には違いなかったけれど、意識がはっきりするのは偃月の夜だけだった。光と闇がちょうど等分になる、あの偃月の夜」


 普段のことは、瞭然とはしないが意識は流れてくるという。
 だから、偃月の劉備にも、普段の関羽のことは伝わっている。金眼の力で成長を止められた劉備を、どれだけ慈しみ、優しく接してくれていたか、全て知ることが出来た。
 劉備は愛おしそうに関羽を見下ろす。


「僕はずっと、君に焦がれてた」

「劉備……」

「僕の意識が普段抑えられていたのも、心と体が成長しなかったのも、金眼の呪いをこの身に封じていた弊害だった……僕が成長を取り戻したということは、その封印を解いたということなんだ。もちろん完全ではないけどね……」


 関羽は、頷く。


「だからかな……成長とともに思い出したことも……」

「? 何を思い出したの?」


 劉備は関羽から視線を逸らした。
 両手を見下ろす彼の引き結ばれた唇が震え、口からぎり、と音がした。


「…………記憶。僕が犯した、忌まわしい罪の記憶……」

「罪の記憶? 何を……何を言っているの? いったい、劉備が何をしたっていうの?」


 劉備の手が拳を握る。ぶるぶる震える拳を、関羽は思わず掴んだ。苦しげに堅く目を瞑る劉備の顔を覗き込み劉備を呼ぶ。


「僕は、この手で世平を殺してしまった……。ずっと僕の面倒を見てくれていた、強くて、心優しい世平を……」


 でも、それだけじゃないんだ。
 劉備は手を解き、関羽の手を退けた。


「僕は、もっと昔に、手を同族の血で染めている。……みんなの両親を殺したのは、僕なんだ」


 『みんなの両親』
 その言葉に、関羽は背筋がすっと冷えた。
 浮かんだ顔を全て振り払う。

 いや、有り得ない。
 違うわ。
 そんな、悲しいこと――――。

 戸惑う関羽に、劉備は告げる。


「……張飛と関定と蘇双。彼らが親を突然亡くしたのは知っているだろう? それは……僕が殺したからだ。それに僕は、僕自身の親もこの手にかけた……」


 愕然。
 関羽は、思わぬ衝撃に劉備から数歩離れた。


「あの幼き日……僕は、初めてその力に目覚めた。金眼の力が暴走したんだ。……このことを知っているのは、世平だけ。彼は、全てを隠してくれた……。僕が傷つかないようにと、守ってくれたんだ」

「そんな、世平おじさんが……」

「世平はいつも僕を気づかってくれて。僕が呪いに打ち勝つようにと、いつも僕を見守ってくれていた……だからあの時、彼は身を挺して僕を止めたんだ。金眼の呪いに負けるなと……! そう訴えて! こんな僕を守ってくれた世平……。きっと、ちゃんとみんなを守らないと、怒られてしまうね……。世平だけじゃない……きっと――――」


 言い差し、噤む。
 片手で顔を覆い、口角をつり上げた。なんて、苦しげな笑み。


「僕の手は穢れている……。そんな手で幸せを掴もうだなんて、到底叶わない夢だったんだ……でも、みんなを幸せにすることだけは諦めたくない……。不幸になんてしたくないんだ……それなのに……この力が災いを呼び、制御できないのなら……僕は……この呪いごと……」


 彼の言わんとしていることが分かった関羽は、青ざめて劉備の手を掴んだ。
 劉備が死ぬなんて、絶対に嫌!
 関羽は言葉を尽くす。


「お願い……お願いだから、そんなことを言わないで! もしあなたを失うようなことがあったら、わたしは……わたしはすごく悲しい……。だって劉備は望んで呪いを受けたわけではないのに……みんなのために、呪いを引き受けてくれてるのに。あなたが……あなただけが苦しまなければならない理由なんて、何ひとつないのよ……」


 わたしはあなたのことが大切よ。あなたを助けたい。
 本心からの言葉を、劉備にぶつける。
 劉備が死ぬなんて耐えられない。
 今のわたしにしてくれた劉備が、死ぬなんて!

 けども。


「…………嘘だ」


 劉備が、関羽を睨んだ。



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