――――関羽が、奇異なる男に翻弄された翌日。
 曹操軍の陣にて。


「敵の状況はどうなっている?」


 曹操は、臣下に静かに問いかけた。


「あちらさんも、やる気のようですよ。こちらについては、いつでも戦えます。仕掛けますかね?」


 曹操は沈黙を返す。
 目を伏せ、思案に沈む主に、賈栩は暫し間を置いて「李典のことですか」問いかけた。

 これに反応したのは夏侯惇である。一歩前に踏み出すが、曹操の目が開き彼に視線を向けたのに気まずそうに視線を落として引き下がった。

 今、彼の胸中が穏やかでないことは、誰もが察しがついている。
 才能を見出だし可愛がっていた李典が病床にあった筈だのに、あの場に現れ幽谷を刺し、連れ去った。以降、行方が全く知れない。

 斥候に用いる兵士を中心に捜索に向かわせているが、血の跡がここから離れた川に見つかったという報告の後、成果は全く無い。
 川の位置を聞いて、驚いた。あの衰弱した身体で成人女性の身体を担いだ彼が、短時間で至れたとは。
 そしてその周辺に範囲を広げても手がかりが一切見つからないのも、彼の病状ではあまりに奇妙。

 何故李典はあのような身体で、あのようなことをしたのか。出来たのか。
 今、李典は何処にいる?


『安心しろ。次戻ってくる、時は……元の、李典になってる……俺が、必ず……こいつを元に戻す』


 李典の口から発せられた言葉は、まるで李典ではない誰かのそれのようだった。
 あれは誰だったのか。
 病床に在る間、李典にどんな変化が訪れていたのか。
 夏侯惇は、もっと頻繁に様子を見に行かなった己を悔いている。

 それは曹操とて同じこと。

 李典の才能は、失い難き逸材。
 なればこそ、優れた軍医を彼の治療に当たらせていたのだ。
 軍医がお手上げだと言っても、治療を続けろと無理難題を承知で命じたのだ。

 それを、こんな奇妙な形で失おうなどと、誰が想像出来ただろう。


「あれの捜索は、引き続き行わせる。必ず我が前に立たせ事の子細を説明させる。考えていたのは、あの娘のことだ」


 賈栩はすぐには分からなかったが、


「私の剣で、自ら命を絶ったあの娘のことだ」


 その言葉で、ああ、と納得した風情で頷いた。


「孫尚香、孫権の妹だと言っておりましたな。狐狸一族の女を侍女として従えたていたのを見ても、彼女らの死で呉がやる気になったのを見ても、本物だったようですな」

「そのようだな。しかし……」


 賈栩が、目を細める。窺うように呼んだ。


「本当にあれは……何だったのだ? あの娘は、死を恐れてなどいなかった。底が知れん……」


 それだけ呉のことを思って覚悟していたのだと言ってしまえばそれまでだ。
 だが、曹操にはとてもそうは思えなかった。
 そんな殊勝なものではないと、思う。

 何故なら。


「妙なことを言っていた……」


 のである。


『猫族は、劉光の血を引く憎むべき敵……。この機に一息に滅ぼすべきです……』


「猫族は、劉光の血を引く憎むべき敵……と。なぜ劉光の名が出たのだ……?」

「劉光……。猫族の始祖の名前ですね」


 そこへ現れたのは、張遼と封統である。どうしてか、気が合うとは思えぬこの二人、新参の徐庶を含めてよく一緒に行動している。

 曹操は封統を一瞥し、名を呼んだ。


「狐狸一族が呉に猫族の成り立ちを話したことは?」

「さあ。僕も一応尚香の侍女だけど、いつも一緒にいる訳じゃないし。幽谷や僕が呉に引き合わせられる前に誰かが話してる可能性もある。……が、猫族に友好的な狐狸一族の誰かが話したのだとしても、憎むべき敵だと思うのが解せないね。というか、尚香の性格を考えてもまず有り得ない言葉だ」


 あの時の尚香については、僕や幽谷の良く知る尚香とは違う女のように思えたね。
 封統は腕を組み、溜息をついた。


「実際曹操の剣で自ら命を絶ったって言う現場を見たら、何か分かったのかも知れないけれど」


 肩をすくめる封統に、夏侯惇が待ったをかけた。


「貴様はあの場にいたのではなかったのか?」


 封統は迷惑そうに顔を歪めた。


「は? いなかったよ。僕が駆けつけた時には尚香が川に落ちて……あの、李典とか言ったっけ? あいつが僕に化けてた。それから幽谷が驚いた隙に元の姿に戻って、後ろから貫き、連れ去った」

「李典がお前に化けていた? 馬鹿な、あいつは人間だ。仙人でも化け物でもない」

「でも僕、あいつを追いかけたけど、金眼に近い濃厚な邪気をあいつから感じたよ。しかももう少しで追いつくってところで、強力な幻術で撒かれた。人間の目で捜しているんなら、まず見つからないだろうね。さっきまでこいつに手伝ってもらって捜してたけど、すっかり雲隠れしてしまった。仙人の側で暮らしてた時もあるから分かるんだけど、あれは、人間に出来る真似じゃない。李典は人間ではないと思った方が」

「ふざけるな!!」


 がっと封統の胸座を掴んだのは夏侯惇である。


「十三支如きがあいつを語るな!! あいつは人間だ! 間違いなく人間なのだ!!」

「そう言われても僕はそいつのことあの時以外どうだったなんて知らないし。それはそっちがそう思っているだけだろ。もしかすると、最初から騙していたのかもしれない。僕だってあの時まであいつの気配に気が付かなかったんだから。けど、僕の感性は確かだ。あいつは金眼に近い――――いや、恐らくは金眼に勝る邪悪な化け物だ」

「貴様……っ!!」


 夏侯惇が拳を振り上げる。
 それを、即座に曹操が掴み、封統から引き剥がした。

 封統を庇う行動に夏侯惇が曹操を呼ぶ。


「封統。李典に別の人格があるという可能性は無いか」

「さあ。僕は李典を見たことが無いから分からないな。まあ、世の中多重人格者なんてごまんといるから否定は出来ないけど……有り得るかもしれない可能性をあげるなら、劉備みたいに嘗て地脈から噴き出した大妖の呪いを先祖が受け、その呪いが人格化して脈々と受け継がれているか、それとも、李典に何かが取り憑いてしまったのか……だとしても、あれじゃ李典はもう手遅れだろうね。完全に取り込まれてる。滅ぼす以外に手は無いんじゃない?」


 淡泊に言う封統に、夏侯惇が怒りを募らせていく。

 曹操は視線で夏侯惇を制しつつ、また思案に耽(ふけ)った。

 それを見て、


「では曹操様、撤退いたしますか?」


 賈栩が、水を差すように言った。
 曹操が視線を向ければ肩をすくめ口角をつり上げる。


「戦の前に不吉あれば、戦を避けるのも手かと思いましてね」

「……馬鹿馬鹿しい。私が、そのような世迷い言を聞くと思うか?」


 誰であろうと我が覇道を妨げることは決して許さん。
 声を張り上げ、曹操は奇妙な懸念一切を振り払うように片手で空を薙いだ。


「全軍に伝えよ、明朝をもって、攻撃を開始する!」


 手を降ろし、夏侯惇を呼ぶ。


「李典のことは戦を終えてからだ。今はこの戦に集中しろ。良いな」

「……はっ!」


 夏侯惇は拱手し、足早に幕舎を出ていった。
 それを見送り、封統は鼻で笑う。


「本当にどうにかなると思ってる? 李典のこと」

「……」

「警戒はしておいた方が良いよ。戦が始まれば陰の気は一気に強まる。劉備もより邪に囚われるし、李典も誰彼構わず襲いかかってくるかも」


 曹操は封統を見やった。


「お前達も、李典を捜せ」


 封統は目を細め、肩をすくめた。


「李典じゃなくて、幽谷を捜してくるよ。張遼、手伝え」

「分かりました。では、失礼致します」


 張遼を伴って幕舎を出ていく封統を見送り、賈栩は腕を組んだ。
 つかの間思案し、曹操に拱手して彼女らの後を追いかける。

 曹操は一人、目を伏せてまた思案に沈むのだ。



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