男は何者だったのだろうか。
 食べていた筈の料理は手つかずのまま湯気を立てて見る者の食欲をそそる。

 会話の途中で入った直後の趙雲の目には関羽が向いていた先には誰もいなかったと言う。だから、作りたての料理を台に並べた関羽がぎょっとして振り返ったのを、皆に黙って夜食を食べようとした後ろめたさから来るものだと思ったのだそうだ。

 となれば、関羽が趙雲に向き直る直前には、男の姿が趙雲の目には映らなかったということだ。
 だが、その時はまだ男はいた筈。
 趙雲の方を見るまで関羽は男の姿を捉えていた。

 あの人の幻術か何かかしら……。
 ならば存外近くに隠れているのではないかと、関羽は趙雲に幕舎に留まってもらって外をぐるりと回って探してみた。
 が、彼のあの目立つ姿は何処にも見いだせなかった。

 幕舎に戻る頃には、関羽は男が本当にいたのか分からなくなっていた。
 夢を見ながら料理を作り、夢の中の男と話していたのだろうか。
 ……何だか、怖い。

 口止めされてはいたものの、趙雲にだけはこの不可解なことを話した。彼にこっそり夜食を食べようとしていたと思われるよりは、本当のことを話した方が良い気がした。


「……なるほど。甘寧様と同じ九尾の男が長江で溺れて……」

「そうなのよ。夢だったのかしら? でもだとしたら何処から夢だったのか……」


 趙雲は料理を見下ろし、腕を組んで思案した。


「……いや、夢ではないのかもしれない。九尾の狐であるならば、関羽にだけ見えるように幻術をかけることも出来る可能性がある。恒浪牙殿の仙術は甘寧様の術を参考にしているのだと、以前蒋欽殿に伺った。もし甘寧様のお身内であるならば……」

「……不思議ではないわね。でも、それじゃあどうしてわたしに、人目を避けるように言ったのかしら」

「お前に気を遣ったのではないか? 関羽にしか見えないのなら、関羽が話している先には誰もいないことになる。お前の話を聞く限り、害意がある人物のようには思えない」


 それには関羽も首肯する。
 あの九尾の男は、悪い人とは思えなかった。


『されども、人が生んだ惨劇ならば救うのもまた人である。人の心は弱く、しかし強い』

『最低に汚い面を見せられても、それすらもひっくるめて人の子全てを愛おしいと、守ってやりたいと、思ってしまう』



 彼のあの言葉には、真心が籠もっていた。嘘は微塵も無かった。
 人間の醜いところを知っていても、人間が大好きで大好きでたまらない、とても優しい人だと思う。

 彼と、悪事を結びつけることの方が難しいなんて、さすがに信じ過ぎだろうか。


「でもこの料理、あの人は確かに食べていたのに、少しも減っていないのよね」


 男は、本当に美味しそうに食べていた。作った側が嬉しくなるくらいに。
 だのに、作りたての状態で残っているなんて、不可解極まる現象である。
 関羽は腕組みして首を傾けた。


「確かに食べていたんだな?」

「ええ。そうよ。こっちが嬉しくなるくらい、美味しそうに食べてくれたの」

「なのに残っている、か……まさか亡霊の類か?」

「え!? そんな……」


 真面目に非現実的なことを言う趙雲に、関羽はぎょっとする。
 信じられなかった。
 霊的な存在のことではなく、男が実体の無い存在であることがである。

 男は、確かに肉体を持っていた。
 長江から引き上げた時の感触は、まだ両手にしっかりと残っているし、水を吸った服を着た成人男性の重さも記憶に残っている。

 あれも幻覚?
 ……まさか、そんなこと。


 無いとは、言えない。


「でも実体が無いのだとして、あの人は助けは要らないのにわたしに助けを求めて、食べる必要の無いのにご飯を食べたということ?」

「何故だろうな」

「結局、彼が何をしたかったのかも分からないわ。この戦のことも、元々知らなかったみたいだったし、数百年前に狐狸一族を追放されたから見つかるとお咎めを受けてしまうって言っていたの」

「要らない助けを借りて、取らなくて良い食事を摂って、狐狸一族とは数百年の間関われなかった身の上だからこの戦にも参加しない……」


 互いに顔を見合わせ、首を傾げる。


「俺が来た時は何を話していたんだ?」

「え? ええと……」


 関羽は、記憶を辿る。


『ところで、圧倒的な力と言うものは、力そのものが恐ろしいのだろうか、それとも使い方が恐ろしいのだろうか。関羽はどう思う』



「……そう、甘寧様の話をしていたら突然訊かれたのよ。圧倒的な力はどうして恐ろしいのか。力そのものが恐いのか、使い方が恐いのかって。それでわたしは、前者だと答えたわ。でも、あの人は果たしてそうだろうかって返して……待って、今、思い出すわ」


 あの後、彼は何と言っていたかしら。
 確か途中で趙雲の声が被さっていて最後まで聞こえなかったわ。
 そう、その途中までは――――。


「『力は、力でしかない。持ち主がどう使うかによって、善にも悪にも、無力にも変えられ――――』そこで趙雲が来て途切れたの」

「そうか……間が悪かったな。すまなかった」

「仕方がないわ。気にしないで」


 となると、力云々のことを、彼はわたしに言いたかった?
 でもどうして……?
 首を傾げる。


「もし次に会えたら、その時は今日のことをしっかり確かめてみなくちゃ」

「会えるのか?」

「分からないけど、また会いそうな気がするのよ」


 そしてその時も、きっと敵ではない気がするのだ。
 関羽の言葉に、趙雲は一つ頷いた。


「そうか。お前が言うのならば、そうなのだろうな。俺も、会ってみたいものだ」

「あ……そうだわ。その時は趙雲に話してしまったことも謝らないと」

「俺も一緒に謝ろう。話の邪魔をして、用事を邪魔してしまったことを詫びたい」

「分かったわ。でも最初はわたしだけで話をして、途中で趙雲に入ってもらうことにしましょう」


 いつ会えるかも予想出来ぬと言うのに、そもそも『気がする』だけで確証など無いと言うのに、その時のことを決めていく二人。

 この場に諸葛亮がいたら、呆れ果てて冷めた目を向けていたに違いない。

 料理は取り敢えず、趙雲が食すこととし、彼の手を借りて誰の目にも触れずに迅速に片付けた。



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