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関羽が助けた狐狸一族と思われる男は名を持たなかった。
元は家族が付けてくれた大事な名前があったのだが、数年前とある川の主の逆鱗に触れ、名を奪われてしまったのだという。
それ以降、その罰に納得のいかない眷属に命を狙われながら何とか生き延びてきたが、先程長江の側を歩いていた折、とうとう捕まって水の中に引きずり込まれかけた。
命辛々逃げおおせたところ、関羽達を見つけて助けを求めようとするも二人の雰囲気に割り込むことが出来ず、関羽が一人になってようやく声を発することが出来たのであった。
取り敢えず腹が騒々しく訴え出した男を、本人の強い要望で人目を注意深く避けて、幕舎に招き入れた。簡単な食事を作ってやると、男は救われたとばかりに顔を輝かせた。
「いやはや、申し訳ないな。人の子に貴重な兵糧を分けてもらってしまうとは」
「いえ。ちょっとだけですし……むしろ、少ないし手の込んだ物が作れなくて申し訳ないです」
「いやいや。これだけで十分過ぎる。足りずとも美味ければその分腹が満たされた気になれる。関羽は将来、俺の嫁には敵わないだろうが、良い嫁になる」
男は手を伸ばし、関羽の頭を撫でる。
異性に撫でられていると言うよりは、何だか保護者に慈(いつく)しまれている気分だ。
子供の頃に味わった温かくて擽(くすぐ)ったい感覚に安堵し喜ぶ自分を自覚して、関羽は頬を赤らめて俯いた。もうそんな年ではないのに……恥ずかしい。
男の手が離れる。
「しかし、人の子はまた戦ばかりか。飽きないな。学習もしない。本当に、知能があるのに愚かしい生き物だ」
言葉こそ冷たいが、声音には冷たさも、責めるような棘も感じられなかった。
悪戯っ子に呆れている親のような、温もりがある。
新しいお茶を淹れ直すと、男は朗らかに礼を言う。
「戦で沢山の大きなものを亡くすと分かっているくせに、得る物は喪(うしな)われたものに比べて取るに足らないものだのに……何度も何度も戦は起こされる。血で血を拭おうとも更に汚れるだけ。剣を振るおうとただただ血肉と憤怒と狂気を撒き散らすだけ。瞋恚(しんい)と悲慟(ひどう)は止まるところを知らず連鎖し続ける。おぞましく哀れな激情から生まれたおどろしき穢れは闇に潜み、破滅を求める心を宿す。穢れは破壊の獣と化し、己を生み出した親にも等しい脆弱な人を喰らい、絶望を生む……」
男は、静かに、歌うように語る。
その声は、やはり親のような温かな愛情が込められていた。
関羽は側に腰掛け、耳を傾ける。
「されども、人が生んだ惨劇ならば、これを救うのもまた人である。人の心は弱く、しかし強い。同胞を愛するが故に守る刃と盾となった劉軍は、人の秘める無限の強さの体現だった」
「劉軍……わたし達の、祖先ですね」
男は頷く。
「人の子は、賢しく、心をやたら動かす故に時に許し難い罪を犯す。されど、ふとした瞬間、予想し得ぬ強く真っ直ぐな、とても魅力的な輝きを放つ。誰の、どんな心であろうと、輝く可能性を秘めている。なればこそ、俺は人間がどんなに世界を汚そうとも、戦で大勢の命を奪おうとも……決して嫌いにはなれん。最低に汚い面を見せられても、それすらもひっくるめて人の子全てを愛おしいと、守ってやりたいと、思ってしまう。それは、天界に住まう者としては悪いことなのかもしれん」
「そんなことありません。そんな風に思ってもらえることは、とても嬉しいです。……ところで、あなたはもしかして狐狸一族の方ですよね? 良ければ誰か呼んできますけど」
男はぎょっとして慌てて首を横に振った。
「それは良い。呼ばなくて良い」
「え? でも……」
「俺は数百年前に狐狸一族から追放された身なのだ。俺のことを知らせてしまったら、関羽もお咎めを食らってしまう。ここに俺が来たことは、誰にも、猫族や人の子にも言ってはいけない」
真剣な顔で、口の前に人差し指を立てて言う男。
何をしたのかしら、この人。
悪事を働くようなことをするようには思えないのだけれど。
関羽は瞬きを繰り返しながら頷いた。
男は安堵して微笑み、頭を下げて関羽に感謝した。
「甘寧様がここ数日体調が悪いのに……本当に会わなくて良いんですか?」
「体調が……」男は呟き、目を伏せた。
ややあって、ゆっくりと開き、真っ直ぐ関羽を見据える。
「それは、あの方の選択の結果だ。あの方の覚悟について、どれだけの迷いがあったかも分からぬ外野がどうこう言うことではない」
「覚悟……」
過去を懐かしむように、男は目を細めて天井を見上げる。
その微笑みが、寂しげに見えた。
「あの方は、悲しい程に優しい方なのだよ。だから、何でもかんでも放っておけないし、汚いことは全部自分が背負おうとする。猫族の長も、どんなに情けなくても、あの方は命を懸けて守って下さる。だから、関羽は早く、向き合う勇気を持つべきだ」
「え?」
「いや、勇気ではないか。本当に向き合えているのか、《つもり》になっていないか、まず自分の心を疑ってみるべきだろうな」
「わ、わたしの心? 向き合うって、誰とですか?」
男は肩をすくめて答えない。
いきなり、何の話なのか分からずに困惑する関羽の頭をぽんぽんと撫でた。
「ところで、圧倒的な力と言うものは、力そのものが恐ろしいのだろうか、それとも使い方が恐ろしいのだろうか。関羽はどう思う」
「え? えっと……」
いきなり話を変えられたかと思えば、問いかけられた関羽は戸惑いながらも男の言葉を口の中で反芻(はんすう)し、考え込んだ。
《力》は何が恐ろしいのか。
その答えは、関羽は前者だと思った。
力は危険なものだ。
だから使い方に細心の注意を払わなければならない。
特に、金眼の力がそう。
あんなにも優しい劉備の精神も侵し、邪に染めてしまう……。
関羽が前者だと答えると、「果たしてそうだろうか」男は首を傾げて見せた。
「え?」
「力は、力でしかない。持ち主がどう使うかによって、善にも悪にも、無力にも変えられ――――」
「――――そこに誰かいるのか?」
不意に、外から声が割り込んできた。
はっと息を呑んだ関羽は幕舎に入ってきた人物にざっと青ざめた。
「ちょ、趙雲……!」
しまった。
人を避けていたのにこんな所で人目についてしまった。
しかし。
「……関羽。腹が空いていたのか?」
「え? いいえ、これは――――」
どう説明して誤魔化そう……。
必死に頭を回転させながら男を振り返った関羽は、愕然とする。
「い、いない……!?」
男の姿が、消えていたのである。
しかも、あんなに美味そうに食べていた筈の料理は、作りたての姿で、湯気を立てている――――。
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