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劉備の視線に責められて、関羽はまた俯くしか無かった。
「否定だなんて……わたしはただ、これ以上人を殺してほしくないだけよ。たとえそれが、仇討ちだとしても」
「どうして? 僕の力は人を殺すためのものだ。敵を蹂躙し、殲滅させることができる。この力で僕の願いを叶えて何が悪いんだ。恒浪牙だって言ってた。幸せになるために足掻くのは人として当然だって。これは間違っていないじゃないか」
少し痛いくらいに肩を掴まれ反射的に顔を上げた。
劉備の金色の瞳が、凶悪な光を走らせるのを、見てしまった。
「そう……邪魔なものは全て消す。殺しちゃうのが一番手っ取り早いもの。尚香もいらない……僕には君だけいればいい」
関羽は瞠目した。
自分の認識との齟齬(そご)を感じ、戸惑う。
「どうして死んだかなんて興味もない。これで僕はまた君と一緒にいられる」
「そんな言い方やめて……あなたさっき、仇を討てるって言ったじゃない。二人の仇を……」
「僕が言ったのは幽谷のことだよ。幽谷にもずっと側にいて欲しかったのに、曹操の所為で殺されてしまって……凄く寂しいよね、悲しいよね」
関羽は顎を落とした。
なんてことを……尚香様と幽谷の仇討ちを言ったのではなく、幽谷の仇討ちのつもりで言っていたの?
思えばこちらの劉備の過去の言動には、まるで幽谷が自分の側にいるのが当たり前だと思っているような節があった。
幽谷とは、世平おじさんが死んだあの日からあの日まで出会ったことが無い筈なのに、だ。
「ねえ、関羽もそう思うでしょ?」
「しょ、尚香様はどうでも良いなんて、ふざけたことを言わないで!」
「どうして? 君も思っただろう? 尚香が死んで、僕の結婚もなくなったって、前みたいに一緒にいられるって喜んだでしょ?」
関羽は、咽を詰まらせた。
図星だった。
本当は即答で否定しなければならなかったのを、関羽は視線を地面に落としてしまう。
「そ、そんなこと……人が亡くなったのにそんなこと言わないで……! いつもの劉備に戻って!」
言って、しまったと口を閉じた。
見上げた劉備は顔を凍り付かせて関羽を凝視している。
「劉備……」窺うように関羽が呼ぶと、忌々しそうに歪む。
「なにそれ? そんなにこの僕は嫌い? 今までの……何も出来ない僕がいいって言うの……?」
いけない。
傷つけてしまった。
罪悪感から半歩退がった関羽に劉備は詰め寄ってくる。
「どうして? 僕は何も出来ないのは嫌だ。この姿なら何でも出来るのに……でも君は、何でも出来る僕じゃなく何も出来ない、ただの子供の僕がいいという。……僕はいらないって」
僕だけいなくなればいいって、そう思ってるの!?
がしっと肩を掴まれ、怒鳴るように問われた。
泣きそうな顔で、感情を真っ直ぐにぶつけてくる。
胸が締め付けられて、苦しい。
劉備は関羽に訴える。
「僕だって劉備なのに! 全部同じなんだよ……。どうして僕のことだけ嫌うのさ……」
「そんな……嫌ってなんか……」
劉備の手が離れていく。
立派な男としての手は、小刻みに震えていた。
「君に嫌われるなんて……なによりも辛いことなのに……」
消え入りそうなか弱き声に、関羽は首を左右に振った。
「劉備! ごめんなさい。あなたを傷つける気なんてなかったのよ」
劉備は泣きそうな顔で関羽を見つめ、顔を逸らす。
本当に、劉備を嫌ってなんかいない。
彼を嫌うことなんて、よしや天地がひっくり返ろうとも有り得ない。
関羽にとって、劉備は特別な存在なのだから。
どうすれば良い? どうすれば劉備に分かってもらえる?
関羽は必死に考えた。
考えて、劉備に歩み寄り顔を両手でそっと挟んだ。
驚き逃れようとする劉備を逃がさず、視線をしっかり合わせた。
「劉備、わたしの目をみて」
「……いきなり何を言い出すの?」
「わたしの目を見て応えて。わたしが本当にあなたを嫌っているように見える?」
劉備は、困惑に濡れた瞳を揺らした。視線を逸らそうとするのを、キツく名前を呼んで制した。
「わたしは劉備を助けたい……。そして、守りたいと思ってるわ。でも、まだあなたのことがわからないの。でもこれだけははっきりしてる。わたしはあなたを嫌ってなんかいないわ」
きっぱりと断じる関羽を見つめ、劉備は目を伏せる。
関羽の手に己の手を重ねて呼吸を二度程置いて「…………わかった」と。
「……君は卑怯だ。その目に見つめられたら、君を信じたくなってしまう……」
そっと優しい手つきで関羽の手を離し、僅かに目を開けた。睫毛が目元に影を作り、彼の儚げな表情に浮かんだ悲哀を強めた。
「……でも、きっと君は僕のことを受け入れてなんてくれない……」
「え?」
「だから僕は、君を力尽くで手に入れたくなるんだ……」
「そんな……劉備!」
関羽が近寄ろうと一歩踏み出せば劉備は同じ程逃げてしまう。
けれども、変わらない距離が、関羽には二倍にも三倍にも――――十倍にも延びたように感じられた。
視界そのままなら一気に踏み込んでしまえば劉備に触れることが出来る。
でも、無理。たとえそうしても、距離は縮まらない。
どうして、伝わらないのだろう。
関羽はもどかしさと、置いてけぼりにされた子供のような心細さに胸の中が寒くてたまらない。
胸に手を当てると、劉備は眦を下げた。
「ああ…………。僕はまた、君に嫌な思いをさせてしまった……ごめん」
「!」
いつもの劉備だわ!
関羽は目を瞠る。
張り詰めていた緊張が弛み、肩が下がる。
「でもそんな、本当にわたしは。わたしが劉備のことを嫌うなんてありえないわ」
どんなあなただって、わたしは好きよ。
何気無く、言う。
『好き』その一言に劉備が反応した。
「あ」関羽はつかの間固まった。
劉備にじっと見つめられ、顔に熱が集中していくのが分かった。
慌てふためき頭を抱えた。
「好きって、そういう意味じゃ……でも、えっと……何て言ったらいいの?」
遅ればせながら、簡単に自分の気持ちを表現しすぎたことに気付き、頭を回転させる。
そんな関羽を見ていて劉備はふっと笑みをこぼした。
「……君は優しいね。そうやって僕が傷つかないよう、いつも想ってくれる……。昔からずっと。でも……僕の想いは届かないんだね。君はやっぱり、僕には眩しすぎるよ」
「そんなことないわ……! わたしだって劉備に助けてもらってる!」
劉備は瞠目した。
「小さい頃、人間と猫族の混血だといわれ、ひとりぼっちだったわたしを救ってくれたのが劉備だった。初めて会ったときの劉備の顔は今でもはっきりと覚えているわ……」
そう、目を閉じれば眼裏に瞭然と浮かび上がる。
無数の思い出に埋もれること無く今なお一番の大切な記憶。
わたしには眩しい無邪気な笑顔で一緒に遊ぼうと言ってくれた時、わたしがどれだけ嬉しかったか。
わたしが欲しかった笑顔を、言葉を彼はくれたのだ。
わたしにとっては、劉備のその時の笑顔こそが、眩い光。
わたしが今のわたしでいられる、物凄い力を秘めた光だ。
今度こそしっかり伝えようと声に力を込めて、関羽は語る。
劉備は瞳を揺らす。
その様に少しだけ不安になったけれど、それでも関羽は言葉を止めなかった。
「出会ったときから劉備はわたしのすべてよ。それからは、劉備を支えられるように一生懸命だったの……だから……」
言葉は遮られた。
劉備が抱きついてきたからだ。
「劉備? 急に抱きついてどうしたの?」
「……ごめん、嬉しくて。君が僕をそんな風に想ってくれていたなんて知らなくて……」
だから抱き締めたくなったのだと彼は言う。
今だけはと許しを請う劉備の身体は、先程よりはだいぶ治まっているが小さく震えている。劉備に包まれていると、全身でそれが感じられる……。
「――――わたし、劉備に言わないといけないことがあるの」
「どうしたの?」
その懺悔は、自然と口からこぼれ落ちた。
劉備が他人と結婚することに寂しさを覚えたこと、尚香の死に対して思った醜い本音も、掠れた声で全て吐露する。
劉備は黙して聞いてくれた。
「わたし……なんてひどいことを……。だからね、尚香様と劉備に謝らなきゃって……」
ずっと包んでいた温もりが離れ、入り込んだ冷たい夜気が関羽を慰めるように撫でる。
劉備は優しい顔をしている。
微笑んで首を左右に振った。
「……もういいよ……わかったから。やっぱり君はやさしい……」
「……そんなことないわ」
「ううん、言いにくいことだったのにちゃんと話してくれてありがとう」
やっぱり君はすごいな。
にこやかに、言う。
けれどもすぐに、関羽を許した笑みは陰ってしまった。
俯く劉備の顔が、美しい銀髪に隠れてしまう。
「君は僕に助けられたと言っていたけど……僕はそれ以上にたくさんのものをもらったよ。それが嬉しくて、悲しい……」
……どうして、悲しいの?
心の中で、劉備に問いかけた。
助けたい。劉備を。
溢れ出してくる。
わたしじゃ助けられないの?
わたしはこれからも劉備を支えていきたい。
一緒に呪いに打ち勝ちたい……。
それを言ったところで、言葉では伝わらないかもしれない。
だから関羽はもう一度劉備を抱き締めた。
遠い昔誰かが、どうしても気持ち伝わらない時は、抱き締めると存外伝わる時があると教えてくれた。
とても幼い頃のことで、夢だったか現実だったか分からない。
けれど、その優しい声だけは、覚えている。
伝わって。
お願い。
願いを込めて、力を強めた。
「そう……君に好きでいてもらうには、僕は罪を犯しすぎた……」
「劉備?」
「それがすごく悲しい……」
彼の言わんとしていることが、関羽には分からなかった。
眉間に皺を寄せて劉備の背中を撫でる。
劉備は一度だけ強く関羽を抱き締めて、彼女の身体を優しく押し退けた。自嘲に力無い笑みへ関羽が手を伸ばすが、逃げるように背を向ける。
「……少し話しすぎたね。明日も早い。もう寝ないと」
おやすみ……関羽。
劉備は歩き去った。白銀はすぐに闇に溶け込み、関羽は独りになる。
手を伸ばしたままの関羽は、黙って見送るしか無かった。
追いかけたかった。
彼の言葉の意味――――どうして悲しいのか、自分に話してくれないのか、訊きたかった。
だが、追いかけられなかった。
足が、動かなかったのだ。
劉備が、わたしを怖がっている気がして……。
わたしは、あなたを支えたいのに。
独り、呟く。
その時である。
「おーい、おーい……」
「!」
困り果てた声が、関羽の心を引き上げた。
「誰かそこにいるのなら、助けてくれないかー」
「ええっ!?」
た、助けて!?
関羽は周囲を見渡した。
「ど、何処にいるんですか!」
「それが、川縁なのは分かるのだが……あっ――――」
――――ぶくぶくぶく……
「嘘、溺れてる!?」
関羽は大慌てで川縁に駆け寄り、辛うじて見えた腕を掴んで引き上げた。
成人男性だ。男にしても身長がとても高く、すらっとした痩せ形である。
陸に引きずり出した関羽は、彼の見てくれに文字通り驚倒した。俯せに伏す男性の前に尻餅をつき、まじまじと頭と臀部(でんぶ)の上を凝視する。
男性は髪と同じ真っ黒な耳を頭部に持ち、濡れた所為で貧相に痩せてしまった九本の尻尾が尾骨から生えている。
「ふ、狐狸一族の方ですか?」
「あー、それは……ぐっ! げふっ、ごぼっ!!」
「あっ、ああすみません!!」
関羽は大急ぎで彼の身体を反転させ、起こしてやった。
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