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夜闇を、関羽は一人歩いている。
ずっと頭の中を色んなことがぐるぐると巡って、睡魔が全く寄りつかないのだ。
不可解な行動を起こした尚香と、それに何故か追従した幽谷の死。
尚香の死を喜んでしまった最低な自分。
猫族がこれからどうなっていくのか。
考えたくないのに、考えてしまう。
少し歩けば頭も冷えるのではないかと思ったけれど、全然そんなことはなくて。
尚香は、曹操と同盟を結ぶ為に、勝手に幽谷を連れ出して曹操軍への使者として船を出した。
それは孫権達は勿論、甘寧の命で曹操軍に潜入していたらしい封統にも思わぬ事態だった。
彼らの態度に嘘は無い。
ならば尚香が勝手に行動した?
呉と猫族が同盟を結ぶ為に劉備との婚姻を自ら提案した尚香様が?
関羽から見ても、彼女は曹操との同盟には反対だった。なのに今になって曹操と同盟を結ぼうとした……。
同盟の使者として行ったのなら、どうして二人が殺された?
刺された幽谷はどうして連れ去られたの?
暗がりでよく見えなかったけど、幽谷を背後から刺したのは薄着の男性だった。多分、関羽とそう年が変わらない程の。
一人だけ、記憶に残る者がいる。
李典だ。
けれども彼の姿は、幽谷が刺されるまで無かった筈なのだ。代わりに、封統の偽者がいた。
まさか、彼が封統に化けていた?
でも彼は人間よね?
分からないことばかりだ。
尚香様、幽谷……二人に何が遭ったの?
思案に没頭していた関羽は、ふと我に返って顔を上げた。
人の気配を捉えたのだ。
足を止めて顔を上げれば、そこには見知った人物が、凪いだ大河を見据えて佇んでいる。
「あ、諸葛亮……どうしたの? なんだか考え込んでいるみたいだけど」
歩み寄ると、諸葛亮は関羽を一瞥し、向き直る。
「今回のことを考えていた……。お前は、変だと思わないのか?」
「尚香様達のこと? それは、変だと思うけど……」
諸葛亮は沈黙し、目を伏せる。
小さく、吐息をこぼした。
「正直に言って、今回のことは私の予想外の事態だった。あらゆる可能性を考慮しても、今回のことだけは、不可解な点ばかりだ。これほどまでに知が通用しないとは……私たちの知らないところで、何が起きている?」
「それはわからないけど……でっも、諸葛亮だっていつも全てを知っているわけじゃないでしょう?」
「そういうことではない」ぴしゃりと言う。
関羽は首を傾げた。
「この世界で起きていることは、必ずどこかでつながっている。例え、想定していなかった事態が起きても、あとから調べてみれば、必ずああそうかと納得できる理由が見つかるものだ」
諸葛亮は眉間に皺を寄せ、腕を組む。
彼のこんな切羽詰まった悩ましげな顔は珍しい。……いえ、初めて見るかもしれない。
「だが……今回の、これは何なのだ? 一切のつながりが感じられない。その異様さが、不可解だと言っている」
「異様さ……?」
「まるで、人知を越えた何か大きな力が、我々に働きかけているようだ……。それでありながら狐狸一族がそのこと何も言及しないのには、強い違和感を感じる。それに甘寧様の容態が、急速に悪くなっていることも気にかかる」
「それは……」
確かに甘寧の顔色は出会った頃とは見違えて悪くなっている。
孫権達と船に乗る時にはすでに血色が悪かったように思うが、尚香達の死から一気に悪化した。
「諸葛亮は、精神的なものだと思う?」
「……言い方は悪いが、かの九尾の狐が、幾ら可愛がっているとは言え、娘と、気に入っている人間の少女を目の前で殺された程度であそこまで弱る程脆弱とは思えない。それ以外の原因があると思って然るべきだろう。……場合によっては、戦どころではないかもしれん」
諸葛亮が低い声で言った、その直後のことである。
「ふうん、でもさ……諸葛亮。そんなこと言ってないで、早く彼女から離れてくれないかな?」
深刻な会話に、水を差す声が闖入(ちんにゅう)する。
「じゃないと僕……仲間だっていっても君を殺しちゃうかもよ?」
「劉備!?」
静かに殺気立った劉備に、諸葛亮は涼しい顔で拱手する。
彼の側に、蒋欽の姿は無かった。
劉備は諸葛亮を見下して鼻を鳴らし、呆れ果てた視線を関羽に向けた。
「あいかわらず君は無防備だね。そんなんだから僕は周りの人間を全員殺したくなるんだよ」
「またそんなことを!」
「でも君が悲しむみたいだし今日はやめるよ。そんな気分にもなれないし」
はあ、と劉備は物憂げに溜息をつく。本人の言葉通り、気分が沈んでいるようだ。
「どうしたの、劉備?」
劉備は肩をすくめるだけで理由は話さなかった。
「折角、ここは凄く心地良いのに」
「心地良い?」
歩み寄って顔色を覗き込もうとすると、腕を掴まれ引き寄せられる。
劉備は一転、笑顔になる。
関羽の気を引きたいが為の嘘だったのだろうかと疑ってしまうくらいの豹変振りであった。感情のまま関羽に迫る今の劉備に限って、そんなやり方を考えないだろうとは思うけれども。
「りゅ、劉備……!」
「最近、このあたりは陰の気が強くなってる。ずっと僕のままでいられるのも、その影響なのかな?」
関羽は青ざめた。
「じゃあ、金眼の呪いが強まっているの!? お願い劉備! 殺すなんて言わないで!」
両の上腕を掴んで懇願すると、劉備は笑みをより深くする。
「君にお願いされるなんて嬉しいな。もっとかわいくおねだりして?」
「もう! ふざけないで!」
拳を握って怒鳴るが、劉備は笑顔を絶やさない。一転して機嫌が良くなった彼は、『かわいいおねだり』を待っているのだ。
さっきまでの劉備が、本当に落ち込んでいたのか分からなくなってしまった。
関羽は眦をつり上げて怒鳴ろうとしたけれど、
「……劉備様、その陰の気が強まった原因に何か心当たりはございませんか?」
途端に劉備の機嫌は急降下。
諸葛亮をぎっと睨んだ。
されども諸葛亮に、劉備を恐れる様子は全く無い。
「……せっかく彼女と話してたのに、邪魔しないでよ、諸葛亮。そんなの、甘寧や恒浪牙にでも訊けば良いことじゃないか」
「私が問うたとて、彼らは人間に話す可能性は無いに等しいでしょう。あなたが何かに気付いているのだとしたら、彼らはそれを敢えて我らに話していないことになる。どうですか、劉備様。何か気付きませんでしたか」
「……まあ、心あたりがないわけじゃないけど……」
「えっ! 劉備、何か知ってるの?」
劉備はつまらなそうに頷いた。
「何か大きな力が働いてるかもって言ってたでしょう? 流石は諸葛亮、いい勘してるね」
「劉備?」
「はっきりとはしないんだけどね。陰の気が凄いのは確かだ。特に強まったのは、僕が感じ取れただけでも二度。尚香が死んだ時と幽谷が連れ去られた時……」
遠い目をして思い出しながら語る劉備に、諸葛亮の目が細まった。
「尚香様と幽谷が関係あるの?」
劉備は特に『強まったのは』と言った。
そういう言い方をするということは、この戦場に於(お)いて陰の気はすでに強かったのだ。
だからずっと、彼は金眼の力を受けたまま……?
これは、劉備にとっては良くないのではないのか?
ざわりと胸がざわめいた。
「いずれにせよ、あの二人の周りで何かが起きていたと考えるべきでしょう。どちらが原因だったのか、どちらもが原因だったのか、それともどちらもただ巻き込まれただけなのかはわかりませんが……ですが、戦いに集中したいところではありますが、併せて調べる必要はあるようです。狐狸一族への確認も含めて」
劉備は肩をすくめた。
「甘寧は多分、諸葛亮の知りたいことを全て知ってるよ。何がどうなっているか把握している。その上で話さないんだ」
「恐らくはそうでしょう。私から、その意図を確認してみるつもりです。それでは私はこれで。明日も戦の準備が控えておりますので」
諸葛亮は、足早にその場を辞した。
きっと、そのまま甘寧のもとへ向かうのだろう。
関羽は劉備の言葉を反芻(はんすう)した。
確かに有り得ないことではない……と、関羽にも思えてしまう。
でも、完全に疑念を抱くのには、気が引けた。
だって彼女は、末娘を目の前で喪(うしな)ったのだ。
全てを分かっているというのなら、尚香と幽谷の死についても知っているということ。
知っていて周りに話さず、何かの目的で秘密にしているなんて、思いたくなかった。
「きっと勘違いよ。甘寧様だって体調が優れないのだし、それどころじゃないんだと思うわ。……あ、もしかしたらわたし達を不安にさせない為なのかも」
「どうだか。ひょっとしたら僕達を殺そうとしているかもしれないね」
「劉備!」
「安心してよ。その時は僕が返り討ちにしてあげるから」
「な……」
甘寧様を殺すなんて!!
劉備がにっこりと自信満々に言う姿に、関羽は青ざめる。
更に劉備は小さくなっていく諸葛亮の後ろ姿を見、また残酷な言葉を発するのだ。
「関羽。面倒だと思わない? 戦の準備なんかしなくても、僕が戦場に出れば、曹操軍なんて一瞬にして長江の藻屑にしてあげるのに」
「ダ、ダメよ! そんなことしちゃ!」
「どうして? だってその方が早いよ。大勢で攻めるだけしか能がない連中だ。僕が全部殺してあげる。……そうだよ、それが良い。これで仇も討てる。僕から関羽を奪おうとした曹操は、今度は君と同じくらい大事な彼女を奪ったんだ。相応の報いを受けさせなければとずっと思ってたんだ。曹操軍は皆殺しだ。生きている方が辛い程に苦しませて苦しませて、殺してしまえば守ってあげられなかった僕を許してくれるよ、そうだよきっと!」
「ダメ! そんなことしたらまた金眼の力が強くなっちゃうわ。そうしたら劉備は……」
関羽は俯く。
蘇るのは、悲惨な光景だ。
大事な劉備が、沢山の人を殺して、うっとりとか弱き者達を見下して嗤(わら)っている。
劉備のそんな姿を、どうして望むだろう。
いいや、望まない。誰も望まない。
わたしも世平おじさんも張飛も蘇双も関定も――――猫族の皆が望む訳がない。
拳を握ると、落胆した声が関羽を責める。
「やっぱり君は僕を否定するんだね」
はっと顔を見上げる関羽を、劉備は感情を押し殺した無表情で見下ろしていた。
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