誰かが自分を呼んでいる。
 必死に泣きそうな声で呼んでいる。

 沢山の、沢山の人が、自分を呼んでいる。
 どれも苦しげで、自分を戻そうとしている。

 誰だろう。
 分かるけれど、分かりたくない。
 思い出したくない。
 この声は、懐かしいけど、苦しくなる。
 四肢が千切れそうになるくらい、痛くて苦しい。


「劉備様! 金眼の力に乗っ取られてはなりません!」

「劉備! 劉備! しっかりして!」


 『しっかり』?
 『しっかり』すると言うのはどういう状態なのだろうか。
 知らない。
 分からない。
 今、ぼくはしっかりしている?
 それも分からない。

 助けて。

 誰か、ぼくを元に戻して。


「うわああああああああああああああ!!!」


 自分の悲鳴なのに、自分の声とは思えなかった。
 苦痛の中に、確かにあった。

 殺戮(さつりく)への甘い甘い快楽が。

 幼い自分は、それが大好きな大好きな甘いお菓子に思えて。
 その欲求に抗う術が、分からなかった。

 だから――――こうなったのだ。


「劉備様っ! うっ……こ、これは……!」

「ああああ」

「りゅ、劉備様……なんてことだ。まさか、こんなことになるなんて……」


 声が、聞こえる。
 頭の中に、直接響いてくる。


『すまなかった』

『遅かった』

『俺が遅かった所為で間に合わなかった』

『俺にもっと力があれば』

『すまなかった』

『すまなかった』

『すまなかった』


 違う。
 違うんだ。
 君は悪くない。
 悪いのは、ぼくなんだ。

 ぼくが君を拒絶したから、君は昔のようにぼくを助けられなくなった。

 君はいつでもぼくを肯定してくれた。いけないことは理由を教えて否定してくれた。
 君のお陰で得られたものは沢山、沢山……数え切れない。

 だのにぼくは、拒絶した。
 些末なことが原因で、子供は安易に拒絶した。
 その結果がこれだ。

 ぼくは、罪を犯した。
 沢山の罪を犯し続けた。
 それを忘れて、のうのうと生きてきた。

 赦される筈がない。
 赦されてはならないのだ。

 だから、助けようとしないで。
 助けなくて良い。
 君に助けれられると、胸が苦しい――――……。


『劉備……お前は、周りのことだけではなく、自分のこともちゃんと見てやるべきだ』



‡‡‡




 孫尚香、幽谷、共に死す。
 その一報は、呉の陣営を大いに揺るがした。
 悲嘆する者、怒る者、戸惑う者、自責に奥歯を噛み締める者――――彼らの様々な感情は、一つにまとまり、帰結する。


 復讐心へ。


 彼らの激情を煽ったのは、彼らの中で自然と浮かび上がってきた話。

『心優しき尚香様が、幽谷だけを供に曹操へ和平を求めたが、共々殺されてしまった。』

 誰が言い出したか、その話はまことしやかに、ただちに広がっていった。
 真実は分からない。
 だが喪失の悲しみを憎悪へと変換した呉軍は見違えておどろしい士気へと高めた。

 曹操の同盟など、まして和平など断固拒否。
 徹底的に、曹操を撃破、その罪をその首にて償わせんと、呉軍は一丸となった。
 劉備軍との同盟破棄は彼らの頭から無くなった。劉備軍と共に戦い、劉備軍が果てても、狐狸一族に見限られても、戦い抜く。

 曹操に報いを受けさせるまで、この刃、決して止めぬ……。

 曹操に報いを。

 曹操に報いを。

 曹操に報いを。

 復讐に取り憑かれた呉軍兵士達は、口々に言う。
 忘れてはならぬと、互いに言い合う。

 意気最高潮に至る呉軍を、甘寧は生気の失せた顔で眺めている。

 そんな彼女を屋内から遠く眺めながら、関羽は暗鬱とした気分だった。
 気の所為だろうか。
 甘寧の顔色が急激に悪くなっている。
 動き回っている姿も見られない。

 幽谷が死んでしまったから?
 当初はそう思っていたけれど、どうも違う気がしてならない。
 あれは心労によるものではないように思う。
 大丈夫、かしら……。
 後で恒浪牙さんに相談して、何か作って行ったら、少しは……と思い、静かに首を横に振る。
 以前、自分は甘寧を怒らせた。
 今関羽がまた何かをして、怒らせてしまうかもしれない。
 心配でも、何もしない方が良いのではないかと思った。

 そんな彼女の隣で、蒋欽が腕組みして黙っている。

 蒋欽は、恐らくは甘寧の命で、劉備の側を離れない。
 劉備は鬱陶しがっているが、彼の辛辣な拒絶は蒋欽にはまるで効かない。効いた試しが一度も無い。
 今は関羽の隣で甘寧の様子を横目に窺っているが、猫族の集まりが終われば彼は劉備の側へ移動するだろう。

 劉備は関羽の側に他の男がいるのが気に食わないようだ。
 だのに何も言わないのは、蒋欽本人が、『儂は三百年前に死んだ嫁一筋よ!!』とにこやかに大きな声で言い切った上にそこから嫁自慢が延々と続いたのにすっかり毒気を抜かれてしまったからだ。


「幽谷と尚香殿が、死んだだと!?」


 趙雲の大声が、空気を震わす。
 彼の顔は堅く強ばり、青ざめている。尚香よりも、幽谷が死んだという報せの方が、衝撃は大きかったのだろう。


「う、嘘だろ? 幽谷がついてたんだろ? なんかの間違いじゃねーのかよ」

「……ううん。わたしも、蒋欽さんも、この目で見たわ。はっきりと。尚香様は曹操に刺された後、川に落ちてしまって……探し出すことは出来なかったけど、おそらく……もう……」

「姉貴……幽谷は? あいつは、刺されて、連れ去られただけなんだろ?」


 張飛は趙雲の様子を窺いながら、問いかける。

 関羽は蒋欽を見上げた。
 正直を言えば、関羽にももしかしたらと言う思いはあった。
 心臓を貫かれていたが、その後何処かへ連れ去られ、死亡を確認出来ていない。

 だが……。
 蒋欽は静かに首を横に振る。


「幽谷は、四霊の性質として水に浸かれば傷が癒える。だがな、心臓を貫かれれば死ぬ――――それは生き物の道理よ。儂もお袋も、この状況に在りて薄い希望に縋ることは出来ぬ。それにばかり囚われて、我らまでやるべきことを疎(おろそ)かには出来ぬ。ここは戦場。生きるか死ぬかしか無いのだ。呉が復讐の権化と化すならば、狐狸一族はあくまで冷静に物事を見届け、孫権様らを守らねばならん」


 弔い、悼(いた)むのは、戦が終われば幾らでも時間がある。
 狐狸一族は、復讐心にすら変えないことを選んだ。
 偏(ひとえ)に、尚香と、狐狸一族の末娘の復讐に燃えたぎった呉を勝たせる為に。
 猫族は皆、そのように解釈した。
 そして、この姿勢に、同情を寄せる。

 治めるべき一族を見渡し、劉備はつまらなそうに鼻を鳴らした。

 趙雲は目を伏せ、蒋欽に小さく謝罪する。
 蒋欽は笑い、首を左右に振った。


「……それにしても、おかしい。曹操が、使者として訪れた二人を斬る理由がわからない」

「それをいうなら、どうして尚香様が、幽谷を連れてとはいえ、曹操のところへ行ったんだろう……そもそも、そっちの方がおかしいよ」


 関羽は視線を逸らした。
 彼らには、言っていない。
 尚香が、曹操と呉が同盟を組もうとしていたなんて、どうして彼らに言えよう。

 それに、尚香がどのような経緯で曹操軍に向かったのか、そこに彼女の意思はあったのか、どうして幽谷はそれを許容し彼女に付いていったのか、謎は何も明かされぬまま二人は命を落としたのだ。
 関羽も、この状況に戸惑っている。

 これからどうなっていくのか……猫族や呉軍は勿論、劉備のことも……。

 と、不意に諸葛亮が背を向け、歩き出した。


「あ、諸葛亮? どこに行くの?」

「……少し出てくるだけだ」


 諸葛亮は一瞬、屋外の甘寧の方へ視線を向けた。
 目を細め、再び歩き出す。

 猫族の参謀を見送り、関定は肩をすくめた。


「どっちにしろ、呉の連中はやる気になったみたいだぜ? オレたちだって、もともと曹操と戦うために呉と同盟を組んだんだろ」


「それに……」関定は張飛に視線をやる。


「幽谷は張飛のダチだった。ちゃんと、二人の仇討ちしねぇとな……」

「ああ、そうだな。おかしいとか変だとか言ってる場合じゃねー。狐狸一族は辛いの我慢して、オレ達を勝たせようとしてる。オレたちだって戦に集中して全力でかからねえと」


 ここが、曹操との決戦場だぜ。
 拳を握り締め、張飛は強く言う。

 趙雲も己の手を見下ろし、目を伏せた。唇が動く。その動きは、幽谷の名だった。
 ややあって、


「それしかない、か。確かに、今の俺たちにできることは、戦うことだけだな」


 切り替え、張飛と頷き合う。

 関羽はその様を見、眦を下げた。
 張飛と幽谷は友人だ。幽谷のことを友人として張飛は日常の中でもよく助けたりしていた。
 趙雲は目に見えて幽谷に好意を持っていた。その好意故に、彼の感情はきっと大きく乱れているだろう。それでも、戦に勝つことを優先した狐狸一族を気遣い、押し殺す。
 幽谷が喪われたことが、とても悲しい……。

 いや、彼女だけではない。
 尚香様だって、そうよ。
 尚香様は死んでしまった。
 彼女の死によって目的が一致し、呉と猫族の結束は強固になった。

 元々は劉備と尚香が婚姻を結ぶことによって果たされた同盟である。
 それが、尚香の死で固められ――――。


「あ……」

「ん? どうした」

「あっ、い、いえ……」


 ぞくり。
 全身の毛が逆立った。

 今、わたし……。


 ほ っ と し た ?


 背筋がぞっとして、己の身体を抱き締める。
 今わたしの頭に、よぎった言葉。とても恐ろしい言葉。


 また、劉備と一緒にいても、責められない。


 何を言っているの?
 尚香様と幽谷が死んだのよ?
 どうしてそんな自分本位のことを思うの?

 ……最低。

 最低。

 最低最低最低。


 わたし、最低だ――――……。


 関羽は床をじっと睨んだ。



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