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 なんと凄まじい圧力だろう。
 金眼とは比べるべくもない。
 正反対の存在ではあれど、あの妙幻すら凌駕する力を感じる。
 幽谷は嵐を起こす邪気を全身に受け止め、冷や汗を垂らす。

 悲鳴の途絶えた男は力を失いこうべを垂れている。

 その身体から、邪気は無尽蔵に溢れ出してくる。

 今のうちに四肢を斬り落としてしまうか――――いや、無理だ。
 あんなにも濃密な邪気に身を投じれば、こちらの身体にも悪い影響が現れかねない。
 安易に近付ける存在ではない。
 鳥肌が立った己の腕を一瞥し、男を睨む。

 やはりこのままこの場を離れた方が良さそうだ。
 遠くから様子を見て、状況を把握し、恒浪牙を捜そう。

 幽谷はじりじりと後退し――――


「――――何処へ行く……」

「っ、」


――――足を、止める。

 男が、立ち上がった。
 男が、姿を変えていく。
 爪先から頭頂までを陽炎のようなモノが包み、男の身体が、骨格から変わっていった。

 幼さを残す男から――――妙齢の、どんな男すらも抗い切れぬ魔性の魅力を備えた妖艶なる女へと。

 女である幽谷ですら、目を奪われる程に、女の裸体は美しかった。
 地面にまで広がる紗幕のような金の髪がこすれる白磁の肌は、誘惑しながらも他者に汚されることを許さない。
 空よりも蒼い双眼には、強靱な怒りが当て所を探し、貪欲な憎悪が破滅を求め、黒々しい邪な光を放つ。
 金髪の下から飛び出した耳や九本の尾は先端が黒く、まさに狐のそれである。

 彼女の美貌が恐ろしい。
 その肢体は不浄を拒んでいるのに、存在自体が何よりも邪に染まっているのだ。

 矛盾した圧倒的力を持つ女に対し、強い恐怖を幽谷を抱いている。
 だは何処か、既視感もあった。
 恒浪牙の妻に似ているような気がするのである。

 女が、まるで面のように眉一つ微動させない無表情をこちらに向ける。

 かと思えば――――にぃやりと笑む。
 どんっと心臓を刺し貫く恐怖。

 逃げなければ。
 戦ってはいけない相手だ。
 勝てない。
 そう思うのに、絶対的な魅力が、幽谷を逃さない。

 同じ女の幽谷でさえ、彼女には抗しきれぬ。


「……そちの器、気に入らぬ。あの女の臭いが、気に喰わぬ」

「……、わ、私の器が気に入らぬと?」

「嗚呼、不愉快よ、まこと不愉快。あの女、赦しておかぬ。あの女の作ったそちも、生かしておかぬ」


 女は、幽谷に、ゆっくりと近付いてくる。

 幽谷は動けなかった。
 動かなければならなのに、女の魔性に囚われた身体が言うことを聞いてくれない。

 女が、前に立った。
 頬に触れる。
 氷のように冷たい。

 だのに。


 たまらなく心地良く感じられるのだ――――。


「さあ、妾に身を委ねよ。さすれば至極の悦楽の中で、果てられよう……」


 逃げろ。
 逃げねば、殺される。

 どうして。

 どうして私は殺されることに喜んでいる?

 有り得ない。
 手に掛かることを受け入れるどころか歓迎するなんて、おかしい。
 私はどうしてしまった?

 女の裸体が、幽谷の身体を抱き締める。
 女は幽谷よりも僅かに背が高い。

 寒い。
 凍らされてしまうのではないか?
 だのに何故安堵する?

 女の両手が背中を撫でる。


「あぁ……」


 尾骨から甘い痺れが駆け上る。
 これは、快楽だ。
 同性に背中を撫でられただけで、この上無い快楽が身体を駆け回る。

 我知らず、熱い吐息を漏らす。
 理性も、麻痺していく。

 殺される。

 駄目だ。

 でも。

 この人ならば。

 私は殺されたい――――。


「お待ちいただけますか、玉藻伯母上」



‡‡‡




 ……とうとう、この世に顕現(けんげん)した。
 甘寧は組んでいた腕を解き、閉じていた瞼を上げた。

 背後には彼女の愛すべき狐狸一族が顔を揃えている。

 蒋欽が、甘寧を呼ぶ。


「……お袋」

「あの人が、現れたよ」


 静かな声だった。
 抑揚に欠けていたそれは、しかし雷撃のように狐狸一族の胸を刺し貫く。

 一瞬で張り詰めた空気に毛を逆立たせた狐狸一族の一人が、強ばった顔で問いかけた。


「……どうするんだよ、お袋。猫族の長も、白銅も、解決してねえぞ」

「オレが白銅も相手するしか無ぇだろうな」

「な……っ」


 息子達がどよめく。


「そ、それだけは止めろって! 今のお袋に、そんな力は無ぇだろ!」

「無理しないでくれよ。白銅はおれ達で倒しとくからさ! 金眼だって、暴走したとしてもおれ達が総力でかかればどうってこと、」

「お前らは、劉備と孫権達を守れ。あいつが目覚めた以上、周泰も平静ではいられないし、周囲に隠れる小さい妖が力を貰い一斉に暴れ出すだろう。そうなれば、曹操軍、呉軍、猫族全員の被害は甚大だ。お前らはなるだけ人外の者共から人間達を守り抜け」

「お袋……」


「これは命令だ」母を気遣う息子達に、甘寧は取り付く島を与えなかった。

 蒋欽が甘寧の小さな背中を見つめ、痛ましげに目を瞑る。
 弟達が、自分に縋る眼差しを向けて来るのが分かる。
 彼らがどんなに甘寧に感謝し、尊敬し、大事に思っているか分かっている。自分も、同じだ。

 だが、甘寧が今何を思って、何を覚悟しているか分かっているから、蒋欽は弟達の願いを拒む。


「お袋。儂は、猫族の長の側にいよう。儂ならば、白銅が金眼に近付いても、牽制出来るだろう」

「ああ。任せる」


 甘寧は深呼吸を二度して、狐狸一族を振り返った。


「良いか。一人たりとも死んでくれるな。オレに加勢しようと思うな。あの人も白銅も、オレが消す。消さねばならん」


 『あの人』を今度こそこの世から消し去る。
 それが、彼女の責任。
 己が背負うべきと覚悟した罪。
 蒋欽はなおも食い下がろうとする弟達に首を横に振る。

 彼らは一様に泣きそうな顔をして、長兄に促されるまま、散会した。
 周泰だけが、立ち去らずに蒋欽の側へ歩み寄る。

 誰よりも家族をこいねがった彼は、今自分の抱えるモノを抑えるので精一杯だろうに、母親を案じている。
 だが、周泰や蒋欽がどう言おうと、彼女は長年抱えてきた覚悟を曲げることは無い。


「……お袋。あいつらは、」

「分かってる。……良い息子に育ってくれて、嬉しい限りだよ」


 甘寧は片手を挙げ、無理矢理に笑みを浮かべた。
 疲労と心労による窶(やつ)れが酷い。
 こんな風になってしまう程、甘寧にとって彼女は大切なのだ。

 甘寧は、昔から家族が大切だった。
 己の命よりも、大事に大事にしてきた。

 そんな母が、《玉藻》と相対することの、どんなに辛いことだろう。



 母としても育ててくれた《実姉》と二度も敵対するのは、彼女にとってどんなにか苦しいだろう……。



●○●

 ようやくはらころのラスボスに当たる玉藻が出ました。

 夢主は、まだまだ翻弄されます。

 これからどんどん重くなっていきますが、何処かでちょっとした笑いを入れられたらと思います。いえ、入れられるように頑張ります。

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