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 利天は幽谷の身体を運ぶ。
 急いで、急いで、急いで――――暗い山道を駆ける。

 足場の悪い道を、闇の中駆け抜けるのは随分と久し振りである。
 だが今の彼に懐旧の余裕は無い。
 そんなことよりも、彼女の身体を一刻も水に浸けなければならぬ。

 甘寧は狐狸一族の身体的特徴を加えて、元の四霊幽谷の身体に限り無く似せている。
 幽谷の身体は、水に浸ることで如何(いか)なる傷も癒していた。
 まだ彼女の息は微かに残っている。今のうちに水に浸せば、少なくとも《身体だけは》助かるだろう。

 幽谷の自我が失われても、身体が使えるならば問題無い。
 この身体だけで利天の目的は十分果たせる。

 俺が必要なのは、奴を――――玉藻を封じ込めておく器だ。
 四霊の器と同じ構造の身体に、狐狸一族の力も込められている幽谷の身体ならば、玉藻は馴染みながらも思うように動かせまい。
 上手く行けば、そのままあの《大樹》のもとへ向かえば……彼女は浄化され、李典は助かる。

 そう。 
 あの大樹の力を借りるのだ。
 俺達の始まりも、華佗と砂嵐の悲劇も、俺達の終わりも、全て全て全て見ていた、あの大樹の……。

 川の音が聞こえてくる。
 水の匂いがする。
 それは皮肉にも、李典の身体が人間から離れている証だ。

 急げ……!!


「早く、《大悲樹》に帰らなければ――――っうぐぅぅう!?」


 利天はその場に崩れ落ちる。

 猛烈な頭痛に、幽谷の身体を手放してしまう。
 しかしすぐに抱えなおした。

 口が、勝手に動く。


「……ほんに、しつこい男よなぁ。利天」


 声質も女ののったりとしたものに変わり、利天を嘲笑う。

 利天は頭を激しく振って、口の自由を取り戻す。


「――――五月蠅い、黙れ……俺は、絶対ぇ李典を救う。お前の思うようには、させねえ……玉藻」


 また、口を奪われる。


「――――ほ、ほ……愚かよ、愚か。この男の意識は、もう死んだぞ。元はこの男もそちも、妾の手駒。手駒が何をしようと、動かす者の意のまま――――いいや、動かす者は李典だ。李典の運命は李典だけのもの……てめえのものじゃねえ!――――その娘を使うてかえ? 確かに、それからは嫌な臭いがする。憎々しい臭いがする……おお、この臭いには覚えがあるぞ。あの憎らしい親不孝者の臭いだ。嗚呼、忌々しい、なんと忌々しい――――親不孝? ハッ、先に家族を捨てて男に溺れたのはお前だろうが。それでも封印で済ましてやった奴の、何処が親不孝だって? 恨むべき奴が憎まねぇで、お前が逆恨みしてるだけじゃねえか!」


 奪われては奪い返す、その応酬は、端から見れば怪奇なもの。されど利天にとっては、まさに崖から落ちるか落ちぬか――――死ぬか死なぬかの瀬戸際に等しい逼迫(ひっぱく)した状況である。

 自分が負ければ支配権を完全に奪われ、ようやっとこの娘を得たことが無に帰す。
 負けてはならぬ。明け渡してはならぬ。
 利天は必死だった。

 幽谷の身体を川へと運びながら、自分の為に李典の命を歪めた凶大なる玉藻に抗い続けた。

 けども、逆恨みと指摘した途端、利天を嘲笑っていた玉藻の意識が、利天を強く圧迫し始めた。


「あ゛ぁ……ぐ……うぅぅっ!!」


 怒っている。
 己の正当性を信じて疑わない愚かな化け物だ。
 彼女に正当なものなど無い事実を、拒絶し続ける。
 自分の恨みこそが正しいのだと、見苦しい自尊心が己の間違いを否定する。

 こんな彼女を、あの赤い九尾は何故赦(ゆる)したのか……利天には、分かる。
 情というものが簡単に捨てきれないものであると、知っているから。

 だが、だからと言って遠慮は無い。李典を守る為に、邪魔なものは排除し、他人の事情は無視する。

 利天は身体の支配権を決して手放さず、ようやっと、川へと辿り着いた。
 幽谷の身体を放り込み、水飛沫を浴びてその場に両手を付いた。

 口から飛び出したのは、黒い血だ。とても臭い。まるで死体が腐ったような、悪臭……。
 何度も何度も吐き出した。
 止まらない。
 止めたいのに、止められない。

 これは、《李典だったモノ》が溶けたものだ。
 留めておかなければならないものが、口から落ちていく。
 駄目だ。
 お前はまだこの身体に残っていろ。
 死ぬな。

 死なないでくれ――――。


 あいつの子孫すら、俺は守れないというのか。


 あいつを苦しめ自害に追い込んだ俺に、李典を救う資格は無いと?


「……っくそぉぉ!!」


 黒い血を撒(ま)き散らし、利天は岩に拳を叩きつけた。繰り返し繰り返し叩きつけた。
 拳から流れる血も黒い。
 血を見て、利天は動きを止めた。

 奥歯を噛み締め、吼えた。



‡‡‡




 獣が吼えている。
 とても悔しげだ。悲しい響きに胸が締め付けられる。

 幽谷は冷たい世界でゆっくりと瞼を押し上げた。
 視界一杯に広がる夜空を認め、嘆息が漏れた。
 また……《私》。

 狐狸一族の幽谷ではなく、死んだ幽谷が目覚めてしまった。
 恒浪牙殿が戻してくれたのに……どういうこと?
 幽谷は身を起こし、獣を見た。

 いや、寝衣をまとった男だ。少年と青年の境目だろう男がいる。
 幽谷がいる川の畔で手と口を黒く染め上げ、獣の如(ごと)咆哮する。
 幽谷は立ち上がり、彼に歩み寄った。

 だが、岸に上がる前に、足を止める。


「……これは……」


 なんて、禍々しい気配……。
 男から立ち上る黒い煙が、幽谷には見える。
 金眼のそれとは桁違いの邪気だ。
 見た目は人間だが、もしや彼は……。

 これに近付くべきではない。
 幽谷は後退した。

 だが。


「……待て……っ」

「!」


 ぎろり、と青い眼が幽谷を捉えた。


「逃げるな……! お前は、李典を助ける為に、必要な……」

「私が?」


 正しくは狐狸一族の幽谷ではあるが、相手がそれを分かろう筈もない。
 幽谷は己の胸を押さえ、更に後退した。


「この場に私が立つ理由も経緯も分からぬ上に、貴様から途轍もない邪気を感じる。誰かを助ける為と言われて、納得出来ると、貴様は思うのか」

「てめえの都合なぞどうでも良い……時間が、無ぇ――――嗚呼、しつこいぞ消え損ないが!!」

「!?」


 幽谷は咄嗟に身構えた。
 急に、女の声が叫んだのだ。
 周りを見渡しても女は自分以外いない。
 まさか、今の声は、この男の口から……?

 何なのだ、この男は。
 異常だ。
 この男は、やはり人間ではない。
 幽谷は川から跳び上がった。後方の岸へ離れ、頭を抱える男を見据える。


「……ええい、面倒な男よ。李典は失せた。早う失せよ!――――うるっせえぇえ!! この身体は李典のものだ! てめぇのものじゃねえ!!」

「何が起こっているの……」


 更に後退し、背後を振り返る。
 幽谷は、確か陸口にいた。
 どのくらい長江から離れたのだろう。
 あの男が自分をここへ連れてきたのか。あの様子ではどれだけの時間をかけてここに至れたのか……。

 幽谷が川に浸かっていたのは、恐らく怪我をしたからだろう。
 幽谷の体質を知っていたのだとすれば、どうして長江に入れなかった? その方が早かった筈だ。

 それとも、また戦場が変わった?
 目覚めてからどれだけの日数が経過した?
 猫族は、どうなった……?

 分からない。
 状況を把握したいが情報が少な過ぎる。
 男から聞き出せば分かるだろうが……あの状態では難しい。

 男は、まだ吼えている。
 自分の口から飛び出す女の声と言い合っている。

――――と、その時だ。


「――――ッ!!」


 女のとも男のとも取れぬ雄叫びと共に、邪気が噴き出した!!



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