27
利天は幽谷の身体を運ぶ。
急いで、急いで、急いで――――暗い山道を駆ける。
足場の悪い道を、闇の中駆け抜けるのは随分と久し振りである。
だが今の彼に懐旧の余裕は無い。
そんなことよりも、彼女の身体を一刻も水に浸けなければならぬ。
甘寧は狐狸一族の身体的特徴を加えて、元の四霊幽谷の身体に限り無く似せている。
幽谷の身体は、水に浸ることで如何(いか)なる傷も癒していた。
まだ彼女の息は微かに残っている。今のうちに水に浸せば、少なくとも《身体だけは》助かるだろう。
幽谷の自我が失われても、身体が使えるならば問題無い。
この身体だけで利天の目的は十分果たせる。
俺が必要なのは、奴を――――玉藻を封じ込めておく器だ。
四霊の器と同じ構造の身体に、狐狸一族の力も込められている幽谷の身体ならば、玉藻は馴染みながらも思うように動かせまい。
上手く行けば、そのままあの《大樹》のもとへ向かえば……彼女は浄化され、李典は助かる。
そう。
あの大樹の力を借りるのだ。
俺達の始まりも、華佗と砂嵐の悲劇も、俺達の終わりも、全て全て全て見ていた、あの大樹の……。
川の音が聞こえてくる。
水の匂いがする。
それは皮肉にも、李典の身体が人間から離れている証だ。
急げ……!!
「早く、《大悲樹》に帰らなければ――――っうぐぅぅう!?」
利天はその場に崩れ落ちる。
猛烈な頭痛に、幽谷の身体を手放してしまう。
しかしすぐに抱えなおした。
口が、勝手に動く。
「……ほんに、しつこい男よなぁ。利天」
声質も女ののったりとしたものに変わり、利天を嘲笑う。
利天は頭を激しく振って、口の自由を取り戻す。
「――――五月蠅い、黙れ……俺は、絶対ぇ李典を救う。お前の思うようには、させねえ……玉藻」
また、口を奪われる。
「――――ほ、ほ……愚かよ、愚か。この男の意識は、もう死んだぞ。元はこの男もそちも、妾の手駒。手駒が何をしようと、動かす者の意のまま――――いいや、動かす者は李典だ。李典の運命は李典だけのもの……てめえのものじゃねえ!――――その娘を使うてかえ? 確かに、それからは嫌な臭いがする。憎々しい臭いがする……おお、この臭いには覚えがあるぞ。あの憎らしい親不孝者の臭いだ。嗚呼、忌々しい、なんと忌々しい――――親不孝? ハッ、先に家族を捨てて男に溺れたのはお前だろうが。それでも封印で済ましてやった奴の、何処が親不孝だって? 恨むべき奴が憎まねぇで、お前が逆恨みしてるだけじゃねえか!」
奪われては奪い返す、その応酬は、端から見れば怪奇なもの。されど利天にとっては、まさに崖から落ちるか落ちぬか――――死ぬか死なぬかの瀬戸際に等しい逼迫(ひっぱく)した状況である。
自分が負ければ支配権を完全に奪われ、ようやっとこの娘を得たことが無に帰す。
負けてはならぬ。明け渡してはならぬ。
利天は必死だった。
幽谷の身体を川へと運びながら、自分の為に李典の命を歪めた凶大なる玉藻に抗い続けた。
けども、逆恨みと指摘した途端、利天を嘲笑っていた玉藻の意識が、利天を強く圧迫し始めた。
「あ゛ぁ……ぐ……うぅぅっ!!」
怒っている。
己の正当性を信じて疑わない愚かな化け物だ。
彼女に正当なものなど無い事実を、拒絶し続ける。
自分の恨みこそが正しいのだと、見苦しい自尊心が己の間違いを否定する。
こんな彼女を、あの赤い九尾は何故赦(ゆる)したのか……利天には、分かる。
情というものが簡単に捨てきれないものであると、知っているから。
だが、だからと言って遠慮は無い。李典を守る為に、邪魔なものは排除し、他人の事情は無視する。
利天は身体の支配権を決して手放さず、ようやっと、川へと辿り着いた。
幽谷の身体を放り込み、水飛沫を浴びてその場に両手を付いた。
口から飛び出したのは、黒い血だ。とても臭い。まるで死体が腐ったような、悪臭……。
何度も何度も吐き出した。
止まらない。
止めたいのに、止められない。
これは、《李典だったモノ》が溶けたものだ。
留めておかなければならないものが、口から落ちていく。
駄目だ。
お前はまだこの身体に残っていろ。
死ぬな。
死なないでくれ――――。
あいつの子孫すら、俺は守れないというのか。
あいつを苦しめ自害に追い込んだ俺に、李典を救う資格は無いと?
「……っくそぉぉ!!」
黒い血を撒(ま)き散らし、利天は岩に拳を叩きつけた。繰り返し繰り返し叩きつけた。
拳から流れる血も黒い。
血を見て、利天は動きを止めた。
奥歯を噛み締め、吼えた。
‡‡‡
獣が吼えている。
とても悔しげだ。悲しい響きに胸が締め付けられる。
幽谷は冷たい世界でゆっくりと瞼を押し上げた。
視界一杯に広がる夜空を認め、嘆息が漏れた。
また……《私》。
狐狸一族の幽谷ではなく、死んだ幽谷が目覚めてしまった。
恒浪牙殿が戻してくれたのに……どういうこと?
幽谷は身を起こし、獣を見た。
いや、寝衣をまとった男だ。少年と青年の境目だろう男がいる。
幽谷がいる川の畔で手と口を黒く染め上げ、獣の如(ごと)咆哮する。
幽谷は立ち上がり、彼に歩み寄った。
だが、岸に上がる前に、足を止める。
「……これは……」
なんて、禍々しい気配……。
男から立ち上る黒い煙が、幽谷には見える。
金眼のそれとは桁違いの邪気だ。
見た目は人間だが、もしや彼は……。
これに近付くべきではない。
幽谷は後退した。
だが。
「……待て……っ」
「!」
ぎろり、と青い眼が幽谷を捉えた。
「逃げるな……! お前は、李典を助ける為に、必要な……」
「私が?」
正しくは狐狸一族の幽谷ではあるが、相手がそれを分かろう筈もない。
幽谷は己の胸を押さえ、更に後退した。
「この場に私が立つ理由も経緯も分からぬ上に、貴様から途轍もない邪気を感じる。誰かを助ける為と言われて、納得出来ると、貴様は思うのか」
「てめえの都合なぞどうでも良い……時間が、無ぇ――――嗚呼、しつこいぞ消え損ないが!!」
「!?」
幽谷は咄嗟に身構えた。
急に、女の声が叫んだのだ。
周りを見渡しても女は自分以外いない。
まさか、今の声は、この男の口から……?
何なのだ、この男は。
異常だ。
この男は、やはり人間ではない。
幽谷は川から跳び上がった。後方の岸へ離れ、頭を抱える男を見据える。
「……ええい、面倒な男よ。李典は失せた。早う失せよ!――――うるっせえぇえ!! この身体は李典のものだ! てめぇのものじゃねえ!!」
「何が起こっているの……」
更に後退し、背後を振り返る。
幽谷は、確か陸口にいた。
どのくらい長江から離れたのだろう。
あの男が自分をここへ連れてきたのか。あの様子ではどれだけの時間をかけてここに至れたのか……。
幽谷が川に浸かっていたのは、恐らく怪我をしたからだろう。
幽谷の体質を知っていたのだとすれば、どうして長江に入れなかった? その方が早かった筈だ。
それとも、また戦場が変わった?
目覚めてからどれだけの日数が経過した?
猫族は、どうなった……?
分からない。
状況を把握したいが情報が少な過ぎる。
男から聞き出せば分かるだろうが……あの状態では難しい。
男は、まだ吼えている。
自分の口から飛び出す女の声と言い合っている。
――――と、その時だ。
「――――ッ!!」
女のとも男のとも取れぬ雄叫びと共に、邪気が噴き出した!!
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