26





 ごぼり、と血がこぼれる。
 止まらない。
 胸からも、口からも、止まらない。

 私も、刺された。
 心臓を貫かれているのだろうか。
 胸の真ん中を貫通しているのだから当たり前だ。

 痛い。
 とても、痛い……。

 胸に確かに開いた穴を指でなぞり、幽谷は姉がいた筈の場所に立っていた人物を茫然と見つめた。


「……李典!? 何故ここにいる!? それに……お前……っ!」

「……っ」


 李典は、ゆらりとよろめいた。
 双剣を床に突き刺し、大きく深呼吸を繰り返す。

 貪欲な眼差しで夏侯惇と曹操を見、徐(おもむろ)に青黒い血管が浮き出て脈打つ手を離す。
 一歩一歩力を込めて歩く。
 その先には、幽谷がいる。


「……悪いな。もう、時間が無ぇんだよ……今を、逃したら……もう、李典は……救えね、え――――ぇあああぁぁぁぁああっ!!」

「! 何だ……!?」


 突如、李典は咆哮する。苦しげに、憎らしげに、悲しげに。

 咆哮の中に女の悲鳴に似た声が混ざっていいるように聞こえたのは、己だけであろうか。
 足から力が抜けその場に座り込んだ幽谷は、自分の身体を抱き締めた。
 寒い……寒くて寒くてたまらない。

 曹操が尚香の血に濡れた剣を構える。

 李典は頭を押さえ、それでも幽谷に迫る。

 夏侯惇が止めに入る。
 双肩を掴んで怒鳴りつけた。


「李典!! 落ち着け! 何を言って――――」

「あぁ……あ……ああぁぁあうるせええぇぇぇっ!!」


 咆哮で返しながら李典は恩義ある夏侯惇の胸倉を掴み右に引き倒した。
 物凄い力だった。
 夏侯惇は縁に身体を強か打ち付け、呻きながら崩れ落ちる。

 曹操が彼の異常さに剣を咽元に突きつけるも李典は素手で握り――――。


 パキッ。


 容易く折った。
 愕然とする主を澱んだ目で一瞥し、幽谷の前に至る。

 幽谷は浅い呼吸を繰り返し、生気を失いつつある虚ろな目を李典へと向けた。


「……こんな形で……悪かったな」


 李典は幽谷の身体を慎重に抱き上げた。
 奥歯を噛み締めて唸り、何かに耐えるように歯軋りする。

 やがて食い縛った歯の隙間から呼吸をした後、曹操を見た。

 異常さに戦(おのの)く主に向けた目には、まだ理性が残っている。


「安心しろ。次戻ってくる、時には……元の、李典になってる……俺が、必ず……こいつを元に、戻す……」

「元の李典……? 何を言っている? お前は李典ではないのか?」

「……知らなくて、良い……」


 曹操に背を向け、大きく深呼吸を繰り返す。
 そして――――駆け出した。

 曹操は、彼の後ろ姿を見つめているしか無かった。



‡‡‡




 目の前の光景が信じられない。

 周瑜も、孫権も、ただただ身体を震わせた。

 尚香が殺され、幽谷も曹操軍の寝衣姿の少年に胸を貫かれて、何処かに連れて行かれた。
 何故だ、何故夏侯惇が止めたのに……曹操は彼を引き留めなかった!?


「おのれ……。よくも……よくも二人を、その手にかけてくれたな……」


 怨嗟(えんさ)の声が、孫権から絞り出される。


「許すまじ曹操……! たとえ天が許そうとも、私は決して貴様を許さない!! 地に落ちろ、曹操よ! 呉の誇りに代えて、必ずや貴様を討つ!」


 未だかつてここまで心が煮えたぎったことは無い。
 抑え切れぬ憤怒に全身を震わす孫権の隣で、周瑜は幽谷の胸を刺して連れ去った少年が呑み込まれた闇の奥を、憎悪の眼差しで凝視している。

 胸に渦巻くのは、やはり憤怒。
 己の懐から大事なものを奪い取られた、独占欲を逆撫でされて覚えた歪(いびつ)な激情である。

 これを、幽谷への執着故と言わずして何と言えば良い。

 縁に爪を立て、がりがりと表面を抉る手はぶるぶると震え、奥歯を歯が割れてしまうのではないかと言う程に食い縛る。

 その様を横目に、無表情に眺めていた甘寧は、一人、冷静だった。


「蒋欽、船を戻せ。陸口に到着後すぐに息子共を呼べ。周泰、お前もだ」

「分かった」


 劉備に歩み寄る甘寧と擦れ違い様、封統は一旦隠形の術を解き船首へと歩き出す。


「僕はあっちに戻るよ。僕に化けた奴を追いかける」

「追うよりも砂嵐のもとへいけ。あれは、必ずその化けた奴を追いかける――――いや、もう追いかけているだろう。深追いをしないように、下手に刺激して殺されないように、お前が抑えておけ。最悪、オレのもとに連れて来い」


 封統は縁に上がり、飛び降りた。
 川面に着地し姿勢を低くして曹操軍陣営へ駆けていく。

 それを見送る孫権の胸中は、未だ治まらない。
 燃えたぎる激情に握り締めた拳。掌に食い込んだ爪は肌を裂き、血を流す。
 浅からぬ傷の痛みに、彼は気付かない。

 気付いたのは、周泰だ。

 無言で孫権の手を掴み、手を解かせる。


「周泰……」


 見上げた彼のかんばせが、まるで死人のそれに見えたのは、妹を殺されたばかりか、何処かへ連れて行かれたからだろう。
 孫権は、そう思った。


「……激情で士気を上げたとて、それだけではこの戦は勝てませぬ。戦に勝つには何が必要か、何が妨げとなるか、その感情に踊らされて決して見誤りませぬよう。一つの見落としも許されません」


 周泰は掌を解放し、一歩退がって拱手する。


「陣に戻った際には、然るべき手当てを。一時、お側を離れます」

「ああ。……ありがとう、周泰」


 幾らか頭が冷えた孫権に深々と一礼し、周泰は次に周瑜の方へ向かう。
 ぎりりと歯軋りが聞こえた彼の頭部を容赦無く、拳で殴りつけた。


「って……!! 何しやがる!?」

「……都督殿。軍議には我らは参加出来ぬ」


 わざとらしく役目を強調する周泰。

 周瑜はそれに反応するよりも先に彼の顔色の悪さにぎょっとした。
 それが幽谷の件の衝撃による、精神的なものではないと、周瑜にはすぐに察しがついた。


「周泰、お前……」

「……」


 周泰は周瑜に背を向けた。
 孫権に拱手し、足早に甘寧の側に立つ。


「蒋欽。船を」

「あい分かった。特急で戻そう」


 蒋欽は長江に飛び降りた。

 ぎょっとした関羽が船縁によって覗き込むと。川面を大股に走って船首へ回り込む巨漢が。
 関羽はほっと息を吐いた。

 だが、甘寧に抱き寄せられた瞬間、


 ふわりと、不気味な浮遊感に襲われたのである。


「え――――」


 人間の姿のままの甘寧は嫌がる劉備の肩も抱き寄せて、「気を付けろよ」と小声で二人に注意喚起した。

 その言葉の真意を問う暇も無かった。


「ぬううぅぅぅおん!!」

「っきゃあああぁぁぁぁ!?」


 大きく船体が揺れた。
 大きく上に突き上げられたかと思えば床の感触が無くなる。着地する前に床が下から突き上げてくる。更には左右に大きく揺れる。船から振り下ろされてしまいそうになったのも一回や二回ではない。
 甘寧が抱き寄せて支えてくれていなければ、関羽も劉備も、体勢を崩して転倒していただろう。

 関羽は甘寧にしっかりとしがみつき、どんな天変地異よりも烈(はげ)しい揺れを耐え凌いだ。
 劉備が甘寧を憎らしげに睨んでいたのが見えたが、彼もまたこの大きな揺れでは甘寧に寄りかかる他無く。甘寧に抱きつくことは絶対にしなかったが、不動の彼女の支えを拒むこともしなかった。

 大急ぎで蒋欽が長江を駆け抜けてくれたお陰で早く戻れたものの、本陣に着いた時、関羽も劉備も足取りが危うかった。
 関羽は素直に蒋欽の肩に乗って船を降ろしてもらったが、劉備は肩を貸すと言う甘寧の申し出を頑なに拒んだ。
 関羽達と違い、周瑜や孫権は慣れたもので、船首の縁にしがみついて座り、互いに片腕をしっかり絡めて耐えていたらしい。足取りは、関羽達よりもしっかりしていた。


「甘寧。オレ達はすぐに軍議を開き全体にこのことを伝える。アンタらは、狐狸一族で集まるんだったな。何か決まったならオレに必ず言ってくれ。その上で、諸葛亮と話す」

「ああ。分かった。なるべく早く済ませる」


 甘寧は足早に去る呉の君主と都督へ片手を振り、元の狐の耳と九本の尻尾が生えた少女の姿へ戻る。

 取り乱した様子が一切無い彼女を不機嫌そうに見、劉備はぽつりと漏らした。


「……可愛がってる娘が二人も死んだ割には、不気味なくらいに冷静だよね」

「りゅ、劉備!」


 袖を掴み咎める関羽を押し退け、劉備は甘寧に詰め寄った。

 甘寧は劉備を流し目に見た。


「これから、呉は憎悪に呑まれ、士気が高まるだろう。曹操の大軍を前に、それは良いことだ」


「だが……」甘寧は周瑜が向かった方角を鋭い眼差しで見据え、


「誰もが、冷静のつもりで冷静になりきれてねえだろう。なら誰かが、非情と取られるくらい、誰よりも冷静に状況を見て対処してやらねえと。激情で士気を上げただけで勝てる程度なら、曹操が華北を制定出来た筈がねえ。それは、オレらよりもお前らがよく分かっている筈だろ」


 甘寧は視線で関羽に問う。

 関羽は頷いた。


「だけどそれじゃあ……」

「オレの分は息子達が嘆いて、怒ってくれる」


 だから、オレはオレの責務を果たす。
 甘寧は片手を挙げ、歩き出した。

 その後に、周泰が続く。

 蒋欽はそれを見送り、


「お袋がああするのは、猫族を曹操から守る為でもあるのだぞ」

「え?」

「幽谷や尚香様だけでなく、目をかけている長殿や、金眼討伐の折に手を貸した劉軍の子孫に何かあれば、さしものお袋も落ち込んでしまおうなぁ」


 蒋欽は関羽と劉備の肩を叩き、大股に長を追いかけた。

 関羽は「わたし達を守る為……」胸に手を当てて呟き、眦を下げる。

 けれども、劉備は舌打ちして、関羽の手を握った。大股に歩いてその場を離れる。


「行こう、関羽」

「えっ、ええ……あ、大丈夫よ。もう一人で歩けるから……」


 劉備は、関羽の手を放しはしなかった。



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