25
「孫権。見えてきたぞ」
船首に佇む甘寧の低い声に、孫権が足早に歩み寄る。
孫権の後に周泰と周瑜が続き、彼女の視線の先にあるものを凝視する。
船団だ。
封統によってしっかり繋げられた曹操軍の大船団が、闇の中から浮かび上がった。
そのうち一隻の船首に複数の人影があったのを、甘寧の目は捉えたのだった。
関羽や劉備、蒋欽も近付く。
劉備が対岸を埋め尽くすかの船団を見渡し、鼻を鳴らす。
「ふうん、あれが曹操の船か」
「これ以上近づいたら、危険よ。もうすぐ夜も明けるし、見つかったら……」
「孫権。あれが分かるか」
そこで、甘寧が片手を挙げ一隻の船を指差した。
人影がある船だ。
それらが兵士でないことは、朧気ながら分かる。
孫権はそれへ目を凝らし――――顎を落とす。
「あの船……あれは、尚香だ! 幽谷もいる!」
「! 本当に!? 暗くてよく見えないけど……」
関羽も前屈みになって目を凝らしてみるが、彼女には、いまいち判然としないらしい。
周瑜と周泰が顔を見合わせて頷き合う。
「……どうやら、そうみたいだな。まったく、何の冗談なんだ」
「隣に誰かいるようだ。男のようだが……封統、尚香の隣にいる男は、」
孫権が、曹操に潜入している狐狸一族を呼ぶ。
されど封統は前方を睨めつけ、舌を打つ。
彼女の視線の先にいるのは、尚香でも、その隣に立つ男でもなかった。
その背後に男女の間に立つ黒の娘である。
「どうなってる……」
何で僕がそこにいるんだ。
心底気に入らないと言わんばかりに顔を歪める。
孫権は封統を見やり、再び曹操軍の船団へ視線を戻した。
尚香の側に男がいる。
その後方に、幽谷と、燃え盛る新野城で幽谷を攫おうとしていた男だ。名は確か、夏侯惇。
封統の姿は――――確かに、あった。
幽谷と夏侯惇の間に立っている。
闇に溶け込む姿をしている為に気付けなかったのだろうその姿をじっと見つめ、目を細める。
そして、後ろで苛立つ封統を振り返り、
「あれは……お前の術なのか」
「そんな術、かけていく余裕があったと思うか? いきなり尚香と幽谷がこっち来たってのに?」
「……いや」
「っていうか、疑わないんだ。僕が偽者かもしれないって」
孫権はまた沈黙する。
確かに、見たところ封統そのものだ。間違えてしまっても無理はない程。
だが孫権には、彼女が本物だとは思えなかった。根拠は無いが、違うと思う。
理由も何も無いのに、今不機嫌になっている封統こそが本物であると、はっきりと断じることが出来る。
それでも、自分のこの直感とも言える判断が正しいことを証明したくて、甘寧を呼ぶ。
「甘寧。あれは、」
「何かが化けてやがる。孫権、周泰の側を離れるな。蒋欽は劉備達の側に」
周泰も蒋欽も、無言で従った。
劉備はうざったそうに蒋欽を睨んだが、何を言おうが彼には通用せぬと諦めているようで口は閉じたままだ。
封統は幽谷の側に立つ己の偽者を見つめ、そうっと後ろに退がった。姿を消す札を口に銜え、成り行きを眺める構えである。
甘寧は、尚香達を強く見据え、舌を打った。
‡‡‡
「あれが、孫権か」
「ええ……」
近付いてくる敵の船。
その船首に立っている人影を見据え、目を細めた。
尚香が、小さく笑う。
その暗い微笑みを見やり、封統は蔑むように鼻を鳴らした。
恐怖に青ざめた幽谷を夏侯惇から守りつつ、舌を打つ。
「長ってば……何で人間の男に化けてんの」
「人間の男……」
「孫権の隣にいる赤毛に褐色の肌をした男。あれ、狐狸一族の長が化けた姿だよ」
どうせ、下らない気まぐれだろうけど。
呆れ果てる封統を幽谷は見下ろす。
一瞬夏侯惇が身動ぎしたのに、彼女はびくりと震えその場から大きく退いた。
だが、彼が見ているのは、孫権達の乗る船である。
「どういうことだ。その側にいるのは劉備と十三支の女ではないか!」
「劉備様が……?」
空気は一変する。
冷え切った目で曹操が尚香を見下ろした。
封統は隻眼を細め幽谷の手を握ってじりじりと後退を始めた。
疑念が呉の姫君へ集中する曹操達は、気付かない。
「理由を教えてもらいたいものだな。裏切るはずの劉備も連れてくるとは、呉の真意が我が軍との同盟にあるとは思えん」
「女、答えろ!」
夏侯惇が怒鳴る。
曹操は封統を呼んだ。
彼女にもこの事態の説明を求めようとするが、距離を取った彼女は夏侯惇に怯える妹を背に庇いながら双剣を構え、尚香の背中を睨んでいる。僅かな殺気が、漏れている。
狐狸一族と親しい呉の姫に、強い敵意を向けているではないか。曹操は柳眉を顰(ひそ)めた。
「封統?」
「…………ふふ」
その時だ。
「呉の真意……? うふふ……そのとおり、よっ!」
「なにっ!?」
封統の様子に気を取られていた、僅かな隙を尚香は突いた。
か弱い姫君とは思えぬ素早さで曹操に襲いかかる。
白刃一閃。
曹操は咄嗟に身を捩ってこれ回避、尚香が腕を伸ばした瞬間剣を抜いて構えた。
「曹操様!」
「っ、尚香様!?」
「幽谷!」
幽谷が封統を押し退けて前に出る。その手には匕首。
夏侯惇に怯えていても、彼女は尚香の侍女だ。主を守らねばと言う使命感に駆られたが故の行動だろうが、封統に肩を掴まれ引き留められてしまう。
尚香はにたり、と口角をつり上げた。手には、鈍い光を放つ刃。
毒が塗布されているのだろう不気味な輝きに、曹操は鼻を鳴らす。
「……やはりな。私の首が目的か」
「ふふ。さすがは曹操……。今の一撃をよく受け止めたわね……」
「下手な真似はよせ。次は容赦せぬぞ」
「尚香様! お退がり下さいっ」
封統の腕を振りきり、幽谷が尚香に駆け寄る。
肩に手を置こうとした瞬間、白刃が幽谷の首を狙った。
「え?」
幽谷はほぼ反射で一閃を避けた。
しかし主人からの思わぬ攻撃に、踏ん張ることを忘れ、尻餅をつく。
冷淡な主の視線に、幽谷は戦慄(せんりつ)する。
「な、にを……?」
震える声を絞り出すと、尚香は冷笑を浴びせかける。
「何をって? もう、邪魔なのよ……あなた」
「じゃ、ま……?」
幽谷は茫然とした。
これは、誰だ?
尚香様じゃない。
でも姿は尚香様だ。
けど尚香様だとは思えない。
思いたくない。
こ の 少 女 は 誰 だ ?
「呉の為に、では……なかったのですか」
「呉の為? ……ふふ、あなたってば、本当に……ふふふ、うふふふふ……」
からん、と落としたのは手にした毒塗りの凶器である。
にやぁ……背筋が凍る程の残虐な笑みを浮かべ、尚香は顔を片手で覆って天を仰いだ。
「私が呉の為に自ら曹操の首を討ち取るとでも……? ふふ、残念ね……。全然違うわ…………私の目的は――――」
これよ!
尚香は再び曹操に飛びかかった!
曹操の反応は早かった。
『容赦せぬぞ』その言葉通り、彼は躊躇い無く剣を尚香へ振り下ろした。
迫る白刃を前に尚香の笑みがより凶悪に、より歓喜に染まる。
幽谷は、動けなかった。
己が守るべき小さな両手が、曹操の白刃を直に受け止める様を、ただ、ただ、茫然自失と眺めているしか無かった。
「なっ! す、素手で曹操様の剣を掴んだ!? 何考えてるんだ! 刃で手が裂けるぞ!」
尚香は、己の手を流れ落ちていく真っ赤な血を、うっとりと愛でた。舌なめずりし、目を潤ませる。
しかし、曹操の力でも、尚香の拘束は外れないのだ。
見た目を裏切る剛力に曹操は目を剥く。
「ああ、痛い……痛いわぁ……。刃を食い込む……痛い痛い……。肉が切れて、手が血だらけ……」
「貴様……! 何のつもりだ! その手を離せ!」
尚香は大事に大事に真っ赤な指先で刃を撫でた。
「ふふ……、絶対に離さない……。指が落ちようと……、手の平が裂けようとも、この剣は離さない……」
ぐっと、更に更に力を込める。
刃はより肉を裂き、血を啜(すす)る。
痛みが強まれば強まる程、血が流れれば流れる程、尚香は身を震わす。
彼女の瞳から涙がこぼれた。
その涙を見て、ぞっとする。
「ああ、痛い……痛い……」
「くっ!」
「この女! 気でも触れたのか!? 血だらけではないか!」
夏侯惇が横目に幽谷を見やる。
が、幽谷は座り込んで尚香を見つめたままだ。
隣に立つ封統が尚香を睨めつけている。彼女らの様子を見るに、尚香のこの行動は二人にとっても想定外だったようだ。
幽谷の様が痛々しく、夏侯惇の胸は痛んだ。
――――この時、彼の幽谷に対する情念は、弱まっていた。
それを知るのは、誰もいない。
封統の姿を借りる人物もまた、気付いていない。
そんなことよりも、重要な事態が、目の前で動いているから。
「ふふ……。そろそろかしら……? これだけ近づけば、お兄様たちにもきっとよく見えるわ……。綺麗に見えるはず……」
「見える? 一体何のつもりだ!?」
尚香は、嗤(わら)う。
嗤う。
嗤う。
「見せてあげるの……私の……」
死に様を!!
歓喜に声が弾む。
それは激流のように、目にも留まらぬ速さで駆け抜けていった。
尚香は嗤ったまま刃を己の首にあてがい頸動脈を違わず斬る。
噴き出した血が、紗幕のように空に広がる。
それだけでは終わらない。
その刃を今度は己の胸に向け、貫いた。
醜い悲鳴が、尚香の口から飛び出した。
ただ一人。
幽谷だけは。
曹操達にとっては一瞬であった凶事が、ゆっくりと、焦らすように緩慢に流れていた。
「しょうこう、さま……?」
ゆらり、と立ち上がる。
尚香は、未だ嗤っている。
満足そうに、幸せそうに、狂気を滲ませて嗤っている。
彼女の目は、幽谷を捉えてくれない。
「ふふふ……この光景を、孫権や呉の兵たちが目の当たりにすれば、どう……なるでしょうね……?」
「貴様……国のために、自らの命を捧げるか!」
「国の……ため? ふ……ふふ。違うわ……」
尚香は曹操の刃を抜き、よろめいた。
くるくると踊るように縁に背を預け、
「すべては…お兄様の…た…め…………」
足に力を加え、後ろに傾ぎ――――。
落ちた。
幽谷はふらりと歩き出した。
尚香の落ちた縁に両手をかけ、口を開閉させる。
声が出ない。いや、出たとしても何を言えば良い?
何が起こっている?
尚香様が、尚香様なのに尚香様でなかった。
尚香様が、曹操に襲いかかり、刃を握った。
尚香様が、痛い筈なのに痛みを喜んで血を愛でていた。
あれは尚香様だったのか。
分からない。
ただ、分かることは。
尚香様が自ら、自らの命を奪い、河に落ちたこと。
そして今、自分の《胸が痛い》ということ――――。
「――――え……?」
嗚呼、彼女は何故、気付かなかったのか。
乳房の間から前へ、細い鉄の棒が飛び出しているではないか。
真っ赤な血が何本もの筋を作り、交差し、滴り落ちている。
これは、何だ?
触れる。
硬い。暖かいのは、幽谷の体温の所為だ。
顔を上げ、曹操を、夏侯惇を見やる。
どちらも驚いたように幽谷の背後を凝視している。
後ろ?
後ろには、確か、姉上が――――。
「あねうえ……」
呼んだ瞬間、棒が後ろに引き抜かれる。
船縁に寄りかかって血を吐き、振り返る。
瞠目。
封統ではなかった。
青白い顔の少年が、双剣の片方を血に染めて、立っていた。
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