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 よすがが消えていく。

 大事な大事な、俺の大事な姫の姿が、ぼやけていく。
 止めてくれ。
 俺から彼女を奪うな。

 奪われてしまったら俺は俺でなくなってしまう。

 奪われてはならないのに。
 奪われたくないのに。

 俺は俺で在りたい。

 ずっと、ずっと、ずっと。

 俺にはまだやることが沢山ある。
 やりたいことも沢山ある。

 嗚呼、溶けていく。
 俺が溶けていく。

 俺が溶けて、器から無くなってしまう。


『李典兄様! 次はいつ、ここへいらっしゃるのです?』


 期待のこもった眼差しを向ける、愛らしい姫君。

 嗚呼……彼女は、誰だろう――――。




‡‡‡




「なるほど。孫権の妹とはな。呉は、それほどに私と手を組みたいのか?」


 薄暗い幕舎の中。
 尚香の訪れからやや時が経っている。

 幽谷は先程兵士に報告を受けて幕舎に現れた夏侯惇に対する恐怖に身を震わせている。
 彼はやはり、ずっと幽谷を凝視している。あの、不気味に強過ぎる熱い眼差しで。
 今すぐにでもこの幕舎を飛び出したい。
 けども、それは尚香をこの場に残すことになる。主を守る役目を担っている以上、恐怖で放棄するなど愚かしい。

 使命感のみで彼女は何とかこの状況を堪え忍んでいた

 そんな幽谷の様子を知ってか知らずか……尚香は曹操の問いに微笑みやおら頷いた。


「もちろんです、曹操様……。そもそも、劉備軍と手を結んだのは、この地に劉備軍を集めるため……ここで呉と曹操様が組めば、一気に劉備軍をつぶすことができるのですから……」


 幽谷は胸の前で片手に握った拳を、もう片方の掌で覆った。


「尚香様……何を……?」


 掠れた声で問いかけると、彼女は幽谷に笑いかける。
 その笑みの妖しい冷たさに背筋がぞっとした。

 一瞬、この人は誰だと疑ってしまう程、魔的な笑みであった。


「……っ」

「なるほど。筋は通っているな。……だが、狐狸一族はどうなのだ? あの一族は」


 尚香は、ゆったりと頷いた。


「勿論、甘寧様にもご賛同いただいております。あの劉備という長の無能振りにはには呆れ果て、愛想が尽きたと申しておりました。猫族は、劉光の血を引く憎むべき敵……。この機に、一息に滅ぼすべきです……」


 尚香は、その場に片膝をつき、拱手する。

 彼女の言葉は、おかしい。
 甘寧が、そんなことに容易く賛同する訳がない。
 情報漏洩を防ぐ為に誰にも言わなかったのかもしれないが、尚香を同盟の使者として向かわせるつもりならば、彼らは当然側を守る幽谷にもその話をする。

 それにどうして猫族の祖の名があの小さな口から出てくるのか……はて、自分は彼女に猫族の成り立ちについて教えたことがあっただろうか?
 私が、忘れているだけ……?
 自分の記憶に自信が持てない。

 猫族を憎むべき敵だと言うのも、どうにも納得がいかなかった。
 そんな気配、微塵も感じられなかった。
 むしろ劉備に対してあんなにも好意的だった。だから関羽と劉備の関係に苦しんでいた。
 だのに、どうして、そのようなことを……。

 これは『秘策』なのですか? 尚香様……。
 心の中で、問いかける。


「どうか、曹操様……。呉との同盟、受けて下さいませ……」

「私が同盟を受けねば、どうするつもりなのだ?」


 尚香は曹操を見上げ、嫣然たる笑みを浮かべる。


「お許しいただけるならばここに留まり、曹操様が呉と手を組んでいただけるまでお願いし続けます……。どのみち、曹操様が動かねば両軍にらみ合いを続けるだけですもの……。時間は、いくらでもあります……」


 そこで、「ああ、そうです」と思いつく。


「それでは、この幽谷を差し上げましょう」

「え――――」


 一瞬、思考が止まった。


 こ の 方 は 何 を 言 っ て い る ?


 私を、『差し上げる』と、言ったの?

 何故?

 この問いに答えるように、尚香は思わぬことに隻眼を丸める夏侯惇を見やり、幽谷に笑いかけた。


「どうやらそちらの方は、私の侍女を気に入って下さっているようです。こちらのお願いが信用いただけるものである証左として、狐狸一族の娘を差し上げます」

「尚香様。何を……仰っておられるのです……?」

「彼女は甘寧様にとって大事な末娘。その彼女を差し出しても良いと、私は言付かりました。彼女がそちらの方に嫁ぐことこそ、狐狸一族の総意だとお思い下さいませ」

「……そんな、こと」


 声が、震えてしまう。

 裏切られた?

 ……いや、そんなことは無い。
 尚香様はとても優しい方。
 私は裏切られてなんかいない。

 ……そう、これは演技だ。
 きっと、演技なのだ。
 尚香様には尚香様のお考えがある。
 信じなければ……信じなければ……。

 ぐらり、と頭蓋の中で脳が揺れたような気がした。
 気持ち悪い。
 心臓が膨れ上がって、破裂してしまいそうだ。

 何がどうなっているのか、何がどうなるのか……。
 尚香様を信じなければ。
 このまま尚香様を信じて本当に良いのか?

 青ざめ、幽谷は主を見下ろした。

 その様を静かに見つめる己の主人を横目に一瞥し、賈栩は顎に手を添えた。


「罠……にしては、見え透いていますね。それに、孫権の妹自らが来るとなれば――――」


 「――――と、言いたいところだが」賈栩は両掌を天へ向け、肩の辺りで上下に揺らした。


「さすがにその娘を差し出すとまで言われると、十三支殲滅は囮で、彼女が内側からこの本陣を、総大将を――――と、考えられなくもない。狐狸一族の甘寧とやらの思考が、必ずしも人間に図り知れるものと思えない。呉も、知らず知らずのうちに狐狸一族の駒にされている可能性は?」


 指摘されても、尚香の笑みは揺るがない。自信ありげに目が爛々と光り輝いている。


「確かに、有り得ないことではありませんね。そのお疑い、ごもっともでございます。でも、心配ご無用です……」


 私は、ただの使者でしかありません……。
 曹操に背を向け幕舎の入り口を見据えた。
 敵の総大将に安易に背を向けるべきではないと、窘(たしな)めなければならない。
 けれど、幽谷の身体は己の意思を全く受け付けなかった。言葉が出ない。身体が微動だにしない。


「呉の覚悟を知っていただくために、国主である孫権自身が、もうじき参ります」


 夏侯惇が、声を上げる。


「なんだと……孫権が!?」

「そろそろですわ……。さあ、曹操様。船上に出て、孫権を一緒に迎えましょう……」


 それはまるで、男を閨に誘惑するように、艶めかしく、しかし淑やかに……遅効性の毒の如き妖しさをまとい、尚香はそうっと曹操へ片手を差し出した。

 幽谷は、何も出来なかった。
 信じたい……これは、尚香様のお考えの為に必要なことなのだ。
 本当にそうか?

 惑う彼女へ、魔的な姫君は追い打ちをかける。


「幽谷。あなたはそちらの殿方のお側に。よろしいですね」

「尚香様……」

「大丈夫。これは呉と狐狸一族の繁栄の為なのです。あなたは何も、心配することはないのです……私を信じなさい」


 駄目だ、と頭の中で自分ではない誰かが警鐘を鳴らしている。

 孫尚香は大事な主。しかし今の彼女の言葉を信じてはいけない。
 考えるのだ。今周りにあるもの全てを疑うのだ。
 考えて、考えて、考えて。
 疑って、疑って、疑って。

 そこに在る疑念を、決して無視してはいけない――――。


「幽谷」

「……は、」


 駄目だ。

 駄目……駄目よ、幽谷。

 そこで思考を止めてはいけない。
 願望を取ってはいけないのよ。
 正しい選択を考えるの。

 簡単に逃げてはいけない……。

 この声は、誰だ。
 私ではない。
 私の中で聞こえるのに、だ。

 一体、誰なんだ――――。


「曹操。うちの長と孫権が、こっちに来てるよ」


 不意にまた、背後から違う声。
 頭の中に響くものではない。

 これは、聞き慣れた声だ。

 後ろから、頭を撫でられる。


「あ、姉上……」

「尚香。悪いけど、今はそれ、まだ待っといて。うちの長は、曹操が同盟に応じると決めた時にこそ、この子を嫁がせると言った筈だ。交渉の材料にしろとは言ってない筈」


 静かに、早口に言って、漆黒の猫族の女は、幽谷の腕を掴んで己の背後に隠した。

 幽谷は我知らず、ほう、と息を吐く。


「早く来てよ。じゃないと空気読めない長が大声であんたを呼び始める」

「……分かった。向かおう」


 曹操は、封統を見、口角をつり上げた。



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