23
孫権は、封統の暴力を詫びつつ、そっと尚香からの手紙を関羽に手渡した。
「……尚香が幽谷を連れて曹操の元に向かったのだ。このような手紙を残して」
「手紙?」
関羽は封統を警戒しながらも、手紙に目を通す。時間がかかって封統が舌を打つと、びくりと肩が震えたが、それでも尚香の残した言葉を目で追いかける。
隣から、劉備も覗き込んで眉根を寄せた。
愕然。
「こ、これは……!」
「へぇ……、やってくれるね。じゃあ僕は尚香に騙されてたんだ?」
暗い光を放つ金の瞳が、孫権に向けられる。
「誤解するな。まだ本当に尚香がやっているかわからないんだ。他の誰かが糸を引いてる可能性もある」
「で、君たちはこの手紙の通り、今から曹操のところに行くって訳? でも考えてみなよ。幽谷の強さに敵う人間は、曹操軍にはそうはいない。彼女が側にいて尚香が敵の手に落ちるなんてこと、とても有り得ない」
これを、甘寧は無表情に否定する。
「いや、一人いるな。力量だけなら婿と同等の武人が一人、曹操軍に紛れ込んでやがる。あいつは、うちの幽谷の弱点も隙も容易く突ける頭を持ってる。そうだろう、封統」
甘寧が咄嗟に言った人物は、尚香に直接関わっている訳ではないが、それでも看過出来ぬ危険因子ではある。
彼を使って誤魔化し、封統に同意を求める。
封統は舌を打ち、隠し持っていた毒塗りの匕首を鞘に収めて懐に戻した。
「ああ、そうだよ」
腕を組んで関羽と劉備を睨めつける。
甘寧は溜息をつき、「しゃあねえか」と後頭部を掻いた。
「悪いな、孫権。周瑜。今、訳あって曹操軍にはオレの姪も潜入してるんだ。こいつは姪に大層懐いててな。時間を無駄にしたくないだけだ」
さすがに弱っても姪の気配を見逃す伯母ではない。
彼女は勝手に曹操軍の中に潜入している。あの子のことだ、きっとこちらにはまだバレていないとでも思っているだろう。
利天を心配してのことでもあり、そして彼への償いの為でもあり、李典の中に潜む《彼女》を助けられたらとつまらない希望を抱いているのである。
父親に似過ぎて、困った姪である。
甘寧は封統の頭を撫で、歩き出した。
「周泰。……まだ耐えられるな?」
歩きながら肩越しに振り返り、確認する。
周泰は胸を押さえて無言で頷いた。
次に甘寧は蒋欽を呼ぶ。
蒋欽は心得たと返し周泰の横に並んだ。
そのやり取りの意味を、蒋欽と封統以外に分かる者が在ろう筈もなく、一様に問いたげな視線を甘寧の背中へ注ぐ。
が、彼女が答える筈も、勿論ないのである。
「尚香と幽谷がどういう経緯で曹操軍の陣へ入ったか分からない以上、時間が惜しいのは確かだ。劉備も関羽も、面倒だからついてこい」
勝手に決めて、甘寧は進む。
‡‡‡
長江は眠っているかのように静かだ。
封統と蒋欽が風を操り、曹操軍の陣へ向けて船を進める。
孫権の隣に立つ周泰は目を伏せ、僅かに眉間に皺を寄せている。
孫権が周泰に気付いていない筈がなく、気遣うように周泰の顔色を覗き込んでは声をかける。
その度に、周泰は異常は無いと繰り返す。
この地にいる限り、彼の不調は大なり小なり現れる。
こうなることは甘寧も周泰も最初から分かっていた。
そして、これからまた一層酷くなるであろうことも……。
腕を組んで縁に寄りかかっている甘寧は周泰を見つめ、腕に爪を立てた。
その近くで、場違いな声が聞こえる。
「関羽、見て。川に月が落ちてとても綺麗だ。月を掬って、君にあげたいな」
「劉備、今はそんな話……」
「ねえ、もっと近くにおいでよ。一緒に見ようよ」
はしゃぐ劉備に、困惑する関羽。
そして――――それに冷たい言葉を浴びせる殺気立った封統。
「そりゃあ良い。巨大な月を尻軽猫に放り投げて押し潰して殺せば良い。劉備からの贈り物で死ねるんならそいつも本望だろうさ。さすがは化け物。愛故の殺しもするなんて化け物のお前らしい。何なら僕がそれらしい物を作って贈ってやろうか? なに、心配要らないさ。ちゃんと痛みも無く圧死出来るように脳天から落としてやる」
「封統。少し静かにせい」
先程のことを思い出し、怯える関羽を見かねて蒋欽が咎めるが、彼女はぷいと顔を背ける。
劉備がじっと封統を見つめるのを遮るように、甘寧が間に立った。
「おいおい、遊びに来たんじゃないぜ」
「そっ……そうよ劉備。静かにしないと。罠かもしれないんだから」
関羽が慌てて劉備を窘める。
興醒めした劉備はつまらなそうに二人を見、「罠ねぇ……」
「そもそも君たちはどう思ってるの? 本当に尚香の仕業じゃないと思ってる?」
孫権は暫し沈黙した。
「こんなこと正気の沙汰ではない。普通ならば、尚香が考えたのではないと、そう思う」
だが、わからないのだ……。
孫権の顔が曇る。
案じるような表情を、暗闇の向こうに広がる曹操の船団へ向ける。
「……何か、よからぬことが、起きねばいいのだが」
甘寧が耳をぴくぴくと震わし、腕を組む。
徐(おもむろ)に船首に移動し、その姿を変じた。
黄祖配下の将として人の世界に交わって生きていた頃の、人間の男の姿だ。
関羽達も見たことがある姿だ。
蒋欽が物言わず何処からか取り出した物を投げつけた。
リンリン、からからと音がするそれは、紐に狐の頭部を模した鈴と土鈴を複数交互に取り付けた物だ。
長男を振り返らずに鈴付きの紐を受け取った甘寧は腰に巻き付けた。
「あれは、」
「お袋が人間の戦に参加する折は、必ず人間の男の姿に化ける。そして、音で存在を周囲に知らせる為、あの鈴を取り付けるのよ! 『鈴の甘寧』ここに在り! とな」
蒋欽が誇らしげに語る。
それを劉備がうざったそうに横目に睨んだ。
「今、そうする意味が何処にある訳?」
「分からぬか? 分からぬのならば、恐らくずっと分からぬであろうなあ」
劉備は舌を打つ。俄(にわか)に殺気立つ。
蒋欽は怯える様子など一切無く、むしろ揶揄するようにこれを笑った。
周瑜に対する態度と変わらないのだが、側で見ていて関羽は冷や汗が止まらない。いつ劉備が蒋欽に襲いかかるか……そうなった時、蒋欽や甘寧がどう動くのか――――。
「蒋欽。空気を読めよ」
甘寧が、静かに言う。
「おお、すまぬな、お袋」
蒋欽はにこやかに謝罪して、関羽と劉備の頭を撫でた。
劉備は大きな手を不快そうに振り払ったが、やはり蒋欽はそれすらも楽しんでいるようだ。
何だか、甥をからかって楽しむおじさん、みたい……。
それも、邪に染まった劉備を全く怖がる様子を見せないのが、また一層親しげに見せる。
「あ、あの……」
「ん?」
「あなたはどうして劉備をそんな風に……」
「さあて、どうしてだったか。忘れたな」
問うも、蒋欽は快活な笑みで誤魔化してしまった。
忘れてしまう程、わたし達は長い付き合いではないのにと、関羽は心中でツッコんだ。
劉備程ではないが、彼も空気を読んでいないように思うのは、関羽の浅慮である。
「さて……幽谷と尚香様は、無事なのやら」
呟いた彼は、顔こそ笑みを浮かべているが。
その青い双眼は厳しく母の背中を見据えている。
.
- 156 -
[*前] | [次#]
ページ:156/220
しおり
←