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封統は走る。
水面を走る。
姿は誰にも見られていない。隠形の術を自身にかけているから、人間にはただ川面を風が揺らしている程度にしか思えぬだろう。
急がなければ。
曹操には妹とその主を丁重に扱うようにキツく言っておいたが、尚香がどう動くか分からない。
彼女のことだ、このことは秘密裏で動いている可能性も、遅れて孫権達を呼び出す可能性も高い。
白銅が望むのは血臭漂う残虐な絶望の殺戮。そして彼女の最愛の大妖の復活。
白銅ならば曹操軍の中に《彼女》がいると感づいていよう。
淡華には危ないと分かったらすぐに李典から離れるように言っておいたが、多分、従わない。
事は急を要する。淡華の為にも、幽谷の為にも。
早く甘寧へ報せなければ!
呉軍の陣に到着し、気配を探す。
幸い、気配はすぐに見つかった。
だが甘寧の気配が驚く程に弱っている。
《彼女》の気配が時を経るごとに濃くなっているからだ。
老いと、ある理由による弱体化の為に、甘寧の命は終わりに近付いている。
生き物を死滅させる障気とも言うべきかの気配が、それを更に早めているのだ。
悠長にしてられないってのに……いつまで劉備を甘やかすつもりなんだあの女狐は!
あれはもう、心の何処かで覚悟しているんじゃないか?
そう思える程、劉備に対して強攻策に出ない。
封統には苛立たしいばかりだった。
「――――甘寧!!」
甘寧は集団の中にいた。
蒋欽を横に、前には孫権と周瑜、周泰。
封統はその前に姿を現し駆け寄った。
「封統! オマエ曹操軍に潜入している筈じゃ――――」
「どうなってる!? 何故尚香が幽谷と共に曹操軍に来てる!」
封統が歩み寄ると孫権が片手を挙げて封統を止める。
「それは、本当のことか?」
「本当も何も、僕がこの目で確かに見たよ。とうとう呉も血迷ったのかと思ったけど!」
孫権は目を伏せた。長い長い溜息を漏らし、拳を握る。
「尚香……本当に曹操との同盟を望んでいるのか……?」
「念の為丁重に扱うように曹操には強めに言ってある」
「そうか……すまない。驚かせた」
「あんたが謝ることじゃないだろ。今あんたらが一緒にいるのは、尚香達のことと関係ある?」
蒋欽は頷き、先程尚香からの書き置きを見て、呼び出されているのだと語る。
白銅の考えることだ、嫌な予感しかしない。
封統も姿を消して同行することにした。
なるべく人目を避けた、離れた桟橋に船をつけ対岸に向かうらしい。一応、何が起こるか分からない以上、猫族にもこの件は伏せてある。
それが賢明である。劉備――――特に邪に染まった劉備などに知られれば、面倒だ。
だから、誰にも見つからずにと、そう、決めていたのに。
後少しというところで、周泰が足を止めた。
片手で一同を制し、声を張り上げる。
「そこで何をしている」
「えっ……?」
木の影になって見えなかったが、そこには二人程誰かがいたようだ。
気付かなかった封統は、知らず焦っていたことを自覚する。
そこにいたのは関羽と……劉備であった。
知られたくなかった奴に、会ってしまうなんて運の悪い……。
「おいおい、結婚の決まった奴が他の女と逢引かよ?」
「なっ! そんなんじゃないわ。劉備とはそこで偶然会ったのよ」
呆れたような、責めるような響きの周瑜に、関羽は顔を真っ赤にして否定する。
彼女と違い、隣の劉備は、こちらに不審の眼差しを向けている。
「……僕は、君たちの方が気になるけど。こんな時間に孫権と出かけるなんて……まさか、曹操のところへでも行くつもりだったとか?」
孫権の表情が、強ばる。
「え! 曹操のところへ!?」
「あれ、図星だったみたいだね。じゃああれだ、僕たちとの同盟を破棄して曹操と組もうってやつ?」
今の劉備は、邪に染まっている。
封統は舌を打った。
「本当に馬鹿だね。そんなことしたら、僕がお前たちを皆殺しにするだけだよ。曹操軍ごとね。なんだったら今ここで、そこの君主を殺しちゃおうか? 先代も死んだばかりだし、大変なことになるね」
「なんだと……!」
「じゃあその前に関羽を殺しちゃえば良いね」
封統の行動は早かった。
呆気に取られる関羽に肉迫、首を掴んで地面に引き倒し爪を咽に食い込ませた。
「あぐ……っ!」
「封統!!」
「関羽!! 封統! 何をするんだ!」
「ハナっから同盟なぞどうでも良い癖に、殺す理由にしてんじゃねえよ。化け物」
劉備が驚いて目を見開き封統を見下ろす。
封統は劉備を冷めた目で見返し、関羽の咽を解放した。
咳き込む関羽の髪をひっつかんで無理矢理に立たせ、後ろを歩かせる。
「いっ、痛いわ! 離して!!」
「だったら殺すまでだ」
刹那、封統の影から何かが飛び出す。
それは不定形の物体、うねりうねり形を変えながら関羽の頭上に広がり、大きな鎌に似た触手を関羽の咽に添えた。
劉備がざっと青ざめた。
「僕の指一つで関羽の首は飛ぶ。……言っとくけど、僕は誰が止めてもこいつを引っ込めないから」
こっちは急いでいるんだ。
これ以上邪魔をされる訳にはいかない。
大切な淡華や、幽谷と尚香を残している。
覚醒間近の《彼女》の側に。
劉備に時間を取られて良い筈が無い。
「この尻軽女の殺したら殺したで、それは僕の所為じゃない。劉備、お前の所為だ。お前の自己中心的行動の所為だ」
劉備は唇を戦慄かせる。
憤怒と、恐怖とで。
封統は鼻を鳴らし、関羽の髪を引っ張った。
「ついて来いよ。来れば分かるからさ――――」
「待て、封統。ちゃんと話そう」
「話が通じると思う? こいつはな、偽善ばかりなんだよ。この化け物のああしたいこうしたいは全部嘘なんだ。こいつは長としてとか言ってるけど実際仲間を守りたいなんて思っていない。むしろ関羽を手に入れる為だったら張世平みたいに簡単に殺してしまえるんだよ」
「そんなこと無いわ! 劉備は、世平おじさんのことも、猫族の皆のことも――――」
「尻軽は黙ってろ」
「尻軽って……!」
「封統」
封統は、口を噤んだ。
彼女を呼んだのは甘寧だ。
無表情に封統を見つめ、首を横に振る。
「急いで戻りたいのは分かるが、今は私情を出すな。せめて女の髪は大事に扱ってやれ」
「……はいはい」
封統は仕方なく、放す。
関羽はすぐに髪を手梳きで整え、泣きそうな怯えた顔で封統を見た。
なんて自分本位な娘なんだろう。お前以上の恐怖と絶望を、僕はお前達の先祖から受けたんだ。
憎悪がむくむくと膨れ上がるが、甘寧に再び呼ばれ、顔を逸らした。
それを見、孫権は語り始める。
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