21





 尚香の突飛な行動には、仰天させられる。
 警戒に集まる視線が突き刺さる中、堂々と歩く呉の姫君の後ろに付きつつ、幽谷は彼女への無礼を働く輩がいないか周りを睨みを利かせる。

 だが、幽谷自身恐怖に胸が震えている。
 ここは曹操軍の本陣。
 当然、夏侯惇がいる。
 まだ夏侯惇が恐ろしいのだった。

 尚香の護衛の為、側を決して離れない。その役目が、せめてもの救いだ。
 この地を踏んだ以上、孫尚香の命は曹操の掌の上だ。ここでは決して尚香から離れまい。何をしてでも、尚香の命を守り抜かねば。
 恐怖を忠誠心で押し潰し、幽谷は周囲を睨めつける。

 案内の兵士は、こちらを時折怪訝そうに振り返ってくる。こちらが怪しい動きを見せればすぐに殺せるように、手は剣の柄に添えられている。
 幽谷にかかればこの程度の兵士など、一瞬で始末出来る。

 兵士は、本陣奥の幕舎の前で足を止めた。「ここで待て」厳かに言い放ち、中へ入っていく。中にいる人間と話しているのが聞こえる。

 暫く待ち、兵士のみが姿を現し中へ招き入れた。

 尚香は兵士に頭を下げた。
 粛々として中に入り、そこに立っている二人の男に拱手する。
 幽谷は一瞬彼らを睨み主に倣(なら)う。

 片方は曹操だ。
 だが、もう片方の淡泊そうな男は見たことが無い。


「……女の使者とは。名を名乗れ」

「……お初にお目にかかります、曹操様。私は孫権の妹、孫尚香と申します。こちらは、私の侍女、幽谷」


「以後、お見知りおきを……」尚香は微笑み、首を傾けてみせる。

 一瞬、曹操の柳眉が顰(ひそ)められた。



‡‡‡




 ここで、少しだけ時を遡る。

 呉の本陣。
 日が沈み、暗い静寂に包み込まれた。

 冷えた空気に、孫権の生温かく憂えた吐息が溶け込んでいく。

 物憂げに伏せ目がちの彼を前に、甘寧は己の尻尾の上で足を組み替えた。

 その隣に周瑜と、蒋欽。周泰は広間の隅で事の成り行きを静観している。


「……劉備殿と尚香の結婚。本当に、よかったのだろうか」

「まだ言ってるのか?」


 孫権は目を開き、


「劉備殿の考えはわかる。彼は一族のためにこの条件を飲んだ」

「少なくとも素面の劉備はな」


 甘寧が冷たく口を挟む。
 彼女の顔色が優れないのは、この部屋が暗いからだろうか。

 孫権は狐狸一族の長を一瞥し、吐息を漏らした。


「……わからないのは、尚香のほうだ」

「愛や恋に理屈はないということだろ?」

「そうなのか。私には、よくわからない」


 蒋欽が、ふと甘寧の背中に手をやった。
 それを孫権は見逃さない。


「……甘寧様。ご気分が優れないのでは――――」

「孫権様! 周瑜様! 大変です!」


 突如、孫権の言葉を遮って兵士が駆け込んでくる。
 彼らが会話の途中であることに気付いた彼ははっと青ざめ謝罪する。
 孫権が何事かと訊ねると――――、


「しょ、尚香様が幽谷様を連れて曹操の元に向かわれたようです!」


 瞬間、その場にいた誰もが血相を変えた。
 甘寧が立ち上がり、よろめいたのを蒋欽が支えた。


「なんだと!」

「それは、どういうことだ?」

「尚香様付きの女官が、こんな手紙を見つけたのです!」


 周瑜がひったくる。
 書面に目を通し、舌を打った。


「周瑜、なんと書いてある」

「……孫権、周瑜。ようやく好機が来ました。今こそ曹操軍と同盟を結ぶ時。私は、その使者として曹操に会いに行きます。
 側に頼りになる幽谷がいます。我が身に危害を加えられることはありません。
 孫権と周瑜も、後から来てください。今、曹操と同盟を結ぶことができれば、呉の将来は安泰となります……だとよ」


 孫権は困惑した。


「……曹操と同盟? いったい、どういうことだ。これは、曹操軍の罠なのか?」

「罠かもな。だが、確かにこれは尚香の字だぜ。……幽谷がいながら、曹操軍に簡単に捕まるとも思えない」

「水軍の小船が出たのを、兵が目撃しています」


 甘寧が立ち上がる。
 姿を人間の男のそれに変え、広間を出ようと歩き出す。


「蒋欽。船を借りてこい。出るぞ」


 蒋欽は表情を曇らせた。
 歩み寄り、小声で問いかける。


「良いのか……お袋」

「状況を悪くしやがった、あのクソ猫……」


 憎らしげに低く声量を抑えた声を絞り出す長に、蒋欽は目を伏せる。

 白銅のことだ、劉備に宿る金眼を目覚めさせようと、戦を急いだのだろう。
 《彼女》のいる場所に白銅が行くのは、マズい。
 たまたま、ほんの一瞬、監視の目が逸れていた隙に……。

 最初から白銅のことを周りに伝えて対処させていれば、この事態は避けられたのかもしれない。
 だが……仮にそうなったとして、劉備があの状態では、甘寧の消耗が大きくなるだけだ。後に来(きた)る脅威を倒せなくなる。
 秤に掛けて、どちらが重要か、己がどうするべきか、自身の限界を考慮した上での選択だったのだ。

 思い通りに行かない悪影響は大きい。
 甘寧が昔の姿なら、こんなまどろっこしいことを考えずに済んだのだ。
 劉備だって、簡単に救えた。

 けども――――こうなることをした為に、今の狐狸一族は在る。

 甘寧を弱らせる最初の原因となった蒋欽には、歯痒いことであった。

 蒋欽は甘寧に頷き、周泰を見やった。


「……周泰」


 周泰は孫権を見、蒋欽に視線を戻す。
 己は孫権の護衛をしたい、との意思表示に、頷き返す。

 しかし、


「……私も共に行こう」


 孫権がゆっくりと言い放つ。


「いや、オマエはここで待ってろ。オレが行ってくるから」

「だめだ、私も行く。尚香は私のたった一人の肉親だ。回復したばかりの幽谷では、敵の本陣で尚香を守り抜くことも難しいだろう。放ってはおけない。それに戦いに行くわけではないだろう?」


 孫権は真っ直ぐに周瑜を見つめる。
 不動の意志宿る静かな眼差しに、周瑜は折れた。


「……わかったよ。いざとなったらオマエだけでも逃がすからな」


 大きく頷く孫権の後ろに、周泰がそっと立つ。


「甘寧。船はこっちで準備する。……だが、本当に大丈夫なのか?」

「問題無ぇ。さっさと行くぞ」


 嫌な予感しかしない――――。
 甘寧は心の中で、独白する。



.

- 154 -


[*前] | [次#]

ページ:154/220

しおり