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 封統は仰天した。
 何故ここに彼女がいるのか。
 落ちた顎がなかなか戻らない。

 目の前の若者はまるで悪戯が成功した子供のように無邪気に笑っている。袖で隠した手で口を覆い、ころころと可愛らしい笑い声を上げる。
 無彩色の服を幾枚も重ね着し、更に紫がかった深い青の丈の長い分厚い衣を羽織ることで身体を隠し、体型を誤魔化している。

 面立ちは愛らしく、上品な女である。
 そう、女。
 体型を隠してそれらしい振る舞いをしてはいるが、鈍感でない限り顔を見るだけで性別はバレバレである。

 これでバレていないと思い込んでいる辺り、この人もかなり抜けてるよなあ……。
 いや、人間の世界と無縁になって長いから常人の感覚が欠けてしまったのかもしれない。

 これで上手く溶け込めているのは、ひとえに彼女の、精神に干渉する術の腕前故のこと。

 でなかったら陣中から追い出されてるよ……淡華さん。

 封統は頭を抱えたくなった。
 目を半眼に据わらせて目の前の、母や姉のように慕った女仙を見た。


「ええと……どうして、というかいつから、ここにるのさ。淡華さん」

「ここでは徐庶って呼んで下さいな。今、ちょっと放っておけない人がいて、その人を守る為にここにお世話になっているのです。ああ、大丈夫ですよ。ちゃんと術で、新参の軍師見習いだってことになっていますから。ちゃんと、男として振る舞えてもいます」


 いや、性別はバレてると思うよ。絶対。
 封統は溜息を漏らした。

 彼女の目的は大体予想がつく。

 華佗と縁深い《彼》ならば、当然淡華とも交流があっただろうから。


「……利天のことが、心配なのは分かるけど。もう、手遅れなんじゃない?」


 封統が指摘すると、淡華は眦を下げる。俯き、両手を組んで胸に押し当てる。
 わざわざ封統が言わずとも分かっているだろうが、諦めている様子が無いところを見ると、まだ可能性はあると言うことだろうか。

 ……けど、その可能性は、限りなく低いものだ。

 封統は薄々と感じている。
 戦を直前に控えた陣中の独特の張り詰めた空気が、徐々に汚染されている。
 濁っていく空気は……感覚で言えば《臭い》。

 これは嫌なモノ。
 これは危険なモノ。

 忌避すべきモノと警告している。
 このまま濃くなっていけば、利天が抗っている脅威の領域と化すだろう。
 それまでに、ここがまともに機能していれば良いのだが。
 封統は向こう岸を振り返る。

 川向こうには呉軍が睨みを利かせている。数で劣るなりに。

 あっちにも厄介なのが二匹いる。
 一匹は金眼。
 もう一匹は――――白銅。
 《彼女》だけでなく、彼らも揃わば阿鼻叫喚……いや、そんな言葉ではとても形容しきれない凄惨な状況に陥るだろう。
 ここで止められなければ地獄は大陸を急速に席巻していく。

 三匹もの怪物が引き起こす災禍は、人間や猫族だけでは止められぬ。

 三百年前は、強い甘寧がいたから《彼女》は劉軍と相対することが無く、封印された。
 だが、今は違う。
 甘寧に昔程の力は無い。

 最善は金眼と白銅を迅速に片付けて、人間や猫族の手を借りつつ狐狸一族全員で《彼女》を討ち倒す展開が望ましいと封統は思う。
 甘寧は、あくまで自分一人で《彼女》の相手をするつもりのようだが、それは不確実な手だ。本人だって分かっている筈。だのに甘寧は自分一人の手で決着をつけることに拘(こだわ)る。

 理由を思えば、それも分からなくもないが……甘寧という砦を越えられたら、世界の終わりと言っても過言ではない。周りを利用する妥協を覚えて欲しいところである。


「……ま、好きにやりなよ。少しでもかんねいが楽になるなら、万々歳だし」

「ありがとう。封蘭」


 淡華は慈母の笑みを浮かべて頭を撫でた。

 久方振りの感触が懐かしく、心地良い。
 封統は目を細めた。


「……封統だよ。今はそう名乗ってる」

「封統……封統になってしまったのです? 封蘭の方が女の子らしくて可愛らしいのに」


 残念そうに首を傾ける淡華。
 しかしすぐに納得した顔になると、


「大人の姿になったから、可愛らしいのが嫌だったのですね」

「うん、全然違うんだよな」


 緊迫した状況なのに、ぽやぽやした態度は全く変わらない。
 華佗や甘寧曰く、これが元々の彼女の性格らしいが、こんな場所でも空気がまるで読めないのは、如何(いかが)なものかと思う。

 厄介な性格の女仙に封統は嘆息する。


「……まあ、良いや。とにかく、淡――――じゃない、徐庶さんはこのまま利天の様子を監視するとして、僕は予定通りに動かせてもらうよ。ただ、あれが目覚めたら、すぐにクソ天仙のところに逃げること。良いね?」

「クソ天仙だなんて……女の子が、そんな下品な言葉を使ってはいけませんよ」

「僕の話聞いてた?」

「ええ。大丈夫。自分の分は弁(わきま)えています。あの方がお目覚めになられた時には潔く、あなたを連れて呉の方へ逃げます」


 いや。僕のことはどうでも良いんだけど……。
 心中苦々しいやら嬉しいやらで複雑である。
 封統は暫く淡華と共に行動することとして周囲を見渡した。

――――その時である。

 大河に、不審な船を見つけた。


「あれは……呉の偵察船か?」


 まだ、日は沈みきっていない。世界は未だ燃えるような朱に彩られている。
 しかも堂々と隠れるつもりなく近付いてくるではないか。
 周瑜が鍛え上げた呉軍の兵士ならこんな真似は絶対にしない。
 公に近付く理由……その意味するところは――――。


「焦臭(きなくさ)いな……ちょっと見てくる。徐庶さんは利天のところに戻ってなよ」


 念の為、術で姿を消す。
 封統は目を凝らし、真っ直ぐこちらを目指す船に近付いた。

 そして、彼女は再び頭を抱える羽目になるのだ。


「! おいおい……どうなってんだ!」


 あの化け猫! 何をしてやがる!?
 周りに姿が見えないことも忘れ、封統は毒づいた。

 船には二人の女が乗っている。

 片方は少女だ。背筋を伸ばして堂々と立ち、威嚇行動で矢を番える兵士達を見返している。ひらひらと風に衣が踊る。

 もう片方は成人女性。男性の欲を煽る魅惑的な肉付きに作られた身体は長身で、一点、人と明らかに違う部位があった。
 こめかみから突き出した、狐の耳である。

 見知った二つの姿に、封統は舌を打った。


 少女は孫尚香――――呉の姫君の皮を被った雌の化け猫、白銅。

 成人女性は幽谷。封統と縁深い、現在では狐狸一族の末の妹として生きる四霊である。


 封統はすぐに身を翻した。
 向かうは曹操。
 すでに兵士が報告に向かっているだろう。

 それを追い抜いて、封統は天幕に飛び込んだ。



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