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 尚香は、兄の為に、やりたいことが出来たと幽谷に説明した。

 幽谷だから教えるのだから誰に言ってはいけないと釘を刺され彼女は従った。主の力の籠もった言葉であった為に、一片の疑いも持たなかった。
 微かな違和感を感じていても、だ。

 違和感を、彼女は無視した。
 どうしてか、身体の内側から何も気にするなと言われたような気がしたのである。

 実は、恒浪牙が元の幽谷が目覚めた際に独断で術を施している。
 その術による誘導であるとは夢にも思わぬ幽谷である。
 すんなりと受け入れた。その言葉が、間違っている気がしなかったから。

 尚香は、愉(たの)しげに陣中を歩く。
 鼻歌混じりに、足取り軽やかに。

 何か良いことでもあったのだろうか。
 劉備と関羽のことで、酷く傷ついていたのに、今はその涙の跡も見られない。
 私がいない間に、何があったのかしら。
 後ろに従いながら、幽谷は問いかける。


「尚香様。何か良いことでもありましたか」


 尚香は足を止め、幽谷を振り返る。
 きょとんと首を傾け、不思議そうに幽谷を見上げた。


「あら、どうして分かるの?」

「先程から、とても嬉しそうです。猫族の長の件で傷ついておられたので、ようございました」


 尚香は納得した風情で頷き、微笑んだ。


「心配してくれたのですね。ありがとう、幽谷」

「いえ」


 主を心配するのは部下として当然のことだ。
 そう言うと、片手を握られた。両手で優しく、包み込む。
 彼女の小さな手は、とても冷たい。


「私はそんなあなただから、信頼出来るんです。これより先も、よろしくお願い致しますね」


 手の冷たさとは裏腹に、言葉は優しく、温かい。
 幽谷は自らの唇が自然と笑みの曲線を描くのが分かった。

 どうして彼女に違和感を感じたのだろう。
 尚香様は尚香様だ。
 孫尚香様――――私のたった一人の大切な主。
 何を疑うことがあるのか。
 恒浪牙の術によって誘導されているとも知らず、幽谷は安堵する。


「さあ、参りましょう。幽谷。全てはお兄様の為」


 幽谷は、拱手する。

 尚香の強固な決意が、小さな身体からひしひしと伝わってくる。

 彼女は兄思いの純粋な娘である。
 兄、孫権の為に何をするつもりなのだろう。
 姫君という身分では、この戦に於いて鼓舞する以外には何も出来ない。それでも何かをしたいと思い、行動する姿はいじらしく好ましい。

 何をしようとも、私はこの方をお支えし、お手伝いしよう。
 いつも思っていることを改めて、幽谷は心に決める。

 尚香は、人の目を避けて移動する。
 訳を訊ねれば人に見つかったらきっと大人しくしていて欲しいと諭されてしまうからだと言う。
 それも、尚香を思えば当たり前のこと。なればこそ、尚香も断りきれない。その為に、気持ちを無駄に終わらせたくないのだ。

 呉の為、孫権の為に――――。

 幽谷は、はっと足を止めた。
 付近に気配を捉えたのである。


「……尚香様、お待ち下さいまし」

「どうしたの?」

「近くに人が。見て参ります」

「そう。ではお願いね」


 尚香に一礼し、気配の方へ足早に赴く。

 幽谷の気配は、周瑜のものであった。
 彼はこちらに気付くと驚いたように軽く目を見張った。しかし、こちらへ足先を向けた直後に水軍の兵士に呼び止められ、幽谷を気にしつつもその場を離れる。

 どうせまた、猫族寄りになっていないか、無駄な懸念を抱いたのだろう。
 そんなことある筈がないと言うのに。

 劉備は尚香を苦しめる。
 幽谷の中で、彼の印象は悪化の一途を辿る。
 大事な主を苦しめる輩が許せないのだ。
 劉備と関羽以外は良い人達だと思う。特に張飛は、有り難くも自分と友人になってくれた。困った時には率先して力になりたいと思う。

 劉備と関羽に関しては、今となっては視界に入るだけで嫌悪が強く主張してくる。

 そう思うと、どうしてか胸の奥の、更に奥が締め付けられるような感覚が過(よ)ぎる。だがきっと気の所為だ。

 とにかく、自分が猫族に傾倒し、狐狸一族の足を引っ張ることなんて有り得ない。
 周瑜の懸念は杞憂に終わるに決まっている。

 幽谷は冷めた視線を彼の背中へ送り、身体を反転させた。
 周瑜の歩き去った方向は、尚香の行くそれとは正反対である。ならばもう問題は無い。

 幽谷の帰りを待っていた尚香は、「どうでした?」小首を傾げて迎えた。

 幽谷は近くに周瑜がいたこと、兵士に呼ばれて反対方向へ歩き去ったことを伝えた。
 尚香は胸を押さえ、ほっとする。


「では、このまま向かっても大丈夫なのですね」

「はい。参りましょう」


 「ええ」尚香は頷き、再び歩き出す。


「ところで、尚香様。どちらに向かわれるのです?」

「桟橋に行って、船を探します。小さな物で構いません。川を渡れればそれで良いのです」


 ……川を渡る?
 幽谷は不穏なモノを感じ足を止めた。

 川向こうは曹操の陣営である。

 敵地へ乗り込めば、呉の君主の妹である尚香は格好の人質。孫権への脅迫の種とされるのは必至。

 まさか和平交渉に? ……いや、有り得ない。
 尚香は曹操との決戦にはずっと肯定的だった。今になって否定に回る筈がない。それに、孫家の血を絶やされると分かっていて、どうして曹操を受け入れられようか。

 真意を計りかね、幽谷は首を傾げ眉間に皺を寄せた。

 それに、尚香は口元に軽く握った拳を当て、声を潜める。


「曹操様に、お会いするの。私にはこの膠着状態を揺るがす秘策があります」


 全身が凍り付くような恐怖が幽谷を襲った。


「そんな……そのような危険な真似を尚香様にさせる訳には参りません。ご指示下されば私が、」

「いいえ。これは私でなければ出来ません。大丈夫。何かあれば、あなたに守ってもらいますから。だから、あなたにだけお話ししているのです。私の一番信頼しているあなただからこそ、命を預けてこの秘策を成就出来ると確信しています」


 ですからどうか、誰にも言わないで。
 尚香は、頭を下げる。


「私はどうしてもお兄様の助けになりたい。その為なら、どんなことであろうと命を懸けて成し遂げる覚悟です」


 尚香の声は力強い。
 幽谷はつかの間逡巡し、渋々頷いた。


「分かりました。ですが、万が一の場合は、あなたを抱えてでもこちらに戻ります」

「構わないわ。ありがとう、幽谷」


 尚香は安堵したように笑い、再び歩き出した。

 幽谷も、その後ろに、続く。



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