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「劉備様、よろしいでしょうか……」


 声をかけ、中の二人の様子を窺う。
 驚き戸惑い、焦っているのが手に取るように分かる。

 相手の応えを待たずに天幕に入ると、密着した男女がばっと離れる。

 不快感に眉根が寄ってしまう。


「劉備様……これは一体……」


 傷ついたフリをして後退すると、幽谷が全身から怒気を滲ませて己の主人を背後に庇う。その手には匕首が握られている。

 劉備はばつが悪そうに顔を逸らし、


「尚香……ごめん。ちょっと、僕が眩暈を起こしてしまったから……戦の前に、情けない話だけど」


 ああ、嘘をつかれるのね。お兄様。
 不快過ぎて鳥肌が立つわ。


「……そう、ですか……」

「それより、僕に何か用だったんだよね」

「いえ……孫権が国から特別なお茶を持ってきてくれたので、劉備様と共にと思っただけで……ただそれだけなのでお気になさらないで下さい。……邪魔をしてしまって、本当に申し訳在りませんでした……あっ」


 ぽろり、と目から涙をこぼす。
 劉備がはっとこちらに手を伸ばすが、幽谷が払い退け咽元に匕首の切っ先を押し当てた。

 つう、と赤い筋が走る。


「幽谷!? 武器を収めなさい!」

「幽谷止めて!!」


 関羽が駆け寄ろうとするが、一睨みで動きを止める。
 幽谷は殺気を漲(みなぎ)らせている。今すぐにでも、劉備を本当に殺してしまいそうだ。

 関羽は青ざめ、尚香も表面上は緊張して見せる。
 だが人ならざる者の心は、憤怒に煮えたぎる。
 何をしているの!
 私の大切なお兄様に刃を向けるだなんて!
 必死に孫尚香を取り繕いつつ、幽谷に歩み寄り、匕首を持つ手にそっと触れた。


「幽谷。匕首を収めなさい。この方は猫族の長にして、私の夫になる方ですよ。私を思ってのことだとは分かっていますが、無礼な真似はお止めなさい」

「……」

「幽谷」


 幽谷は、渋々手を引いた。
 尚香に深々と一礼し、匕首を収める。
 劉備への謝罪をしないことに腹は立ったが、この場は流すこととした。

 人ならざる者は劉備に深々と頭を下げ、謝罪する。


「劉備様。申し訳ございません。侍女の無礼、お許し下さいまし」

「……ううん。僕が、悪いから」


 言いつつ、劉備は傷ついた顔で幽谷を見る。
 その表情が、いやに引っかかる。こちらの認識する関係とは違う……それ以上の感情を、劉備が一方的に向けているように思えるのだ。
 そう、まるで、母親に置き去りにされた幼子のような……。

 まさか……いえ、まさかね。
 孫尚香の記憶では、彼女は甘寧の命を受けて猫族と接触するまで、一切の面識が無かった筈。そう、幽谷本人から聞いていた。

 これは、どういうこと……?
 この魯鈍な女も、私の大事なお兄様に近付く邪魔で臭いゴミ虫だと言うの?

 ……厭(いと)わしい。
 人ならざる者の嫌悪は、幽谷にも向けられる。
 彼女もまた、彼の視界から排除せねばならぬ存在となった。

 また劉備に攻撃されては敵わぬと、彼女は幽谷をキツく叱りつける。


「幽谷。少し外を歩いて頭を冷やしていらっしゃい」

「え……」

「大丈夫よ。ちゃんとあなたの分のお茶も用意しておくわ。頭が冷えたら、戻っていらっしゃい」


 幽谷は一瞬だけ劉備に冷めた目を向けた。尚香に手を出すなと、牽制したのだろう。

 努めて、苦笑を作った。


「幽谷……早く。でなければお茶が冷めてしまうわ。折角持ってきて下さったのに」

「……はい。すぐに戻ります」


 幽谷は承伏しかねる顔を瞬時に消し、尚香に拱手して外へ出て行った。

 関羽も、青ざめて苦しげな顔をして二人から逃げるように外へ飛び出す。劉備の目が追い縋るのを、人ならざる者は見逃さない。
 舌打ちが出そうになったのを、すんでのところで耐えた。



‡‡‡




「劉備様。お茶が入りました……」

「あ、うん。ありがとう……」


 茶を受け取る劉備の笑みはぎこちない。
 尚香に対する罪悪感と、関羽に対する強い未練が隠しきれない、人ならざる者にとって不愉快極まりない笑みだ。

 あなたが大事にすべきは私。
 あなたが見るべきは私。

 あなたの全ては私。
 私の全てはあなた。

 それが正しい形なのよ。
 ねえ、お兄様……。
 心の中で、甘く囁きかける。


「ふふ……。このお茶、香りもよくて、劉備様に気に入っていただけるとうれしいです……」


 劉備が、ようやっとこちらを見てくれる。
 しかしそこに映るのは、孫尚香。自分の姿ではない。自分の現在の隠れ蓑の姿だ。
 そしてこの瞳も、兄の器のそれだ。

 最愛の兄の美しい金の瞳に本来の自分が映る時が待ち遠しい……。


「彼女のこと……聞かないの?」

「彼女? ああ、関羽さんのことですか……? 私が気にするほどの人だとは思いませんけれど……」


 劉備は瞳を揺らす。


「尚香、ごめん……。君との結婚を受けたのに僕は、僕は彼女を……。こんなこと言うべきじゃないかもしれないけど……」

「……」

「こんな気持ちで、君と結婚しようだなんて……」


 人ならざる者はそっと劉備の手に己のそれを重ねた。


「そんなこと。私はぜんぜん気にしてません……」


 にこりと、笑ってみせる。


「劉備様は、私を選んで下さった。それだけで、私はもう幸せなのですから……」

「だけど、僕は……それだけじゃないんだ」


 僕の手は、多くの血に染まってしまっている。
 劉備は苦しげに言い尚香の手から逃げるように手を離した。


「僕のそばにいると、君まで僕と同じように不幸になってしまうかもしれないんだ……」


 不幸?
 有り得ない。
 不幸じゃなくて、幸福の極みだわ!!


「気にしないで下さい。私は劉備様のおそばにいられれば、それで十分ですもの……」

「だけど……」

「怖がっているのですね、劉備様……」


 今度は劉備の手を逃げられぬよう両手で包むように握る。


「でも、ご安心ください……私は、私だけはどこまでもあなたの味方……。わたしは、あなたのことを誰よりもよくわかっている……。あなたの恐れも、あなたが欲しいと願う幸せも、全部……」


 そっと身を寄せると、劉備はびくりと身体を震わせる。
 関羽の臭いが残って苛立ったが、いつかこれが血臭に変わるのだと思えば耐えられる。


「だから、大丈夫……。心配しないで……。私に全部まかせてほしいの……」


 私に全部任せれば、私もあなたも、幸せになれる。
 血と恐怖と快感に奮い立つ、甘美で刺激的な地獄の世界で――――……。
 自然と笑いがこぼれる。涎が垂れそうになったが、垂れる前に舌で舐め取り嚥下(えんか)した。

 不吉な笑声になってしまっていただろうか。
 劉備が怪訝そうな顔で尚香を見下ろす。


「尚香……?」

「ああ、いけない……。そういえば、孫権が劉備様にお話があると言っていました……。私も幽谷に説明して、共に参ります……。先に行っていてください……」

「う、うん……」


 劉備は不思議そうにしながらも、言われた通りに天幕を出て行く。

 その後ろ姿を見つめながら、尚香の顔は歪んだ。
 異常なまでに口角はつり上がり、狂気的な光が目に宿る。

 誰もいない天幕の中、器の身体を抱き締めて、悦楽に震える。


「……そう。私だけが、あなたを助けられる……あなたのことを誰よりも愛しているのは、私なのよ……」


 お兄様……。
 愛おしい者を呼ぶように、人ならざる者はうっとりと熱を込めて囁いた。



 それから、暫く経って。
 幽谷は尚香のもとに戻ってくる。

 彼女は、幽谷に微笑んで見せた。


「幽谷……内密に、あなただけに付き合って欲しい所があるの」


 共 に 来 て く れ ま す ね?



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