18
「劉備様、よろしいでしょうか……」
声をかけ、中の二人の様子を窺う。
驚き戸惑い、焦っているのが手に取るように分かる。
相手の応えを待たずに天幕に入ると、密着した男女がばっと離れる。
不快感に眉根が寄ってしまう。
「劉備様……これは一体……」
傷ついたフリをして後退すると、幽谷が全身から怒気を滲ませて己の主人を背後に庇う。その手には匕首が握られている。
劉備はばつが悪そうに顔を逸らし、
「尚香……ごめん。ちょっと、僕が眩暈を起こしてしまったから……戦の前に、情けない話だけど」
ああ、嘘をつかれるのね。お兄様。
不快過ぎて鳥肌が立つわ。
「……そう、ですか……」
「それより、僕に何か用だったんだよね」
「いえ……孫権が国から特別なお茶を持ってきてくれたので、劉備様と共にと思っただけで……ただそれだけなのでお気になさらないで下さい。……邪魔をしてしまって、本当に申し訳在りませんでした……あっ」
ぽろり、と目から涙をこぼす。
劉備がはっとこちらに手を伸ばすが、幽谷が払い退け咽元に匕首の切っ先を押し当てた。
つう、と赤い筋が走る。
「幽谷!? 武器を収めなさい!」
「幽谷止めて!!」
関羽が駆け寄ろうとするが、一睨みで動きを止める。
幽谷は殺気を漲(みなぎ)らせている。今すぐにでも、劉備を本当に殺してしまいそうだ。
関羽は青ざめ、尚香も表面上は緊張して見せる。
だが人ならざる者の心は、憤怒に煮えたぎる。
何をしているの!
私の大切なお兄様に刃を向けるだなんて!
必死に孫尚香を取り繕いつつ、幽谷に歩み寄り、匕首を持つ手にそっと触れた。
「幽谷。匕首を収めなさい。この方は猫族の長にして、私の夫になる方ですよ。私を思ってのことだとは分かっていますが、無礼な真似はお止めなさい」
「……」
「幽谷」
幽谷は、渋々手を引いた。
尚香に深々と一礼し、匕首を収める。
劉備への謝罪をしないことに腹は立ったが、この場は流すこととした。
人ならざる者は劉備に深々と頭を下げ、謝罪する。
「劉備様。申し訳ございません。侍女の無礼、お許し下さいまし」
「……ううん。僕が、悪いから」
言いつつ、劉備は傷ついた顔で幽谷を見る。
その表情が、いやに引っかかる。こちらの認識する関係とは違う……それ以上の感情を、劉備が一方的に向けているように思えるのだ。
そう、まるで、母親に置き去りにされた幼子のような……。
まさか……いえ、まさかね。
孫尚香の記憶では、彼女は甘寧の命を受けて猫族と接触するまで、一切の面識が無かった筈。そう、幽谷本人から聞いていた。
これは、どういうこと……?
この魯鈍な女も、私の大事なお兄様に近付く邪魔で臭いゴミ虫だと言うの?
……厭(いと)わしい。
人ならざる者の嫌悪は、幽谷にも向けられる。
彼女もまた、彼の視界から排除せねばならぬ存在となった。
また劉備に攻撃されては敵わぬと、彼女は幽谷をキツく叱りつける。
「幽谷。少し外を歩いて頭を冷やしていらっしゃい」
「え……」
「大丈夫よ。ちゃんとあなたの分のお茶も用意しておくわ。頭が冷えたら、戻っていらっしゃい」
幽谷は一瞬だけ劉備に冷めた目を向けた。尚香に手を出すなと、牽制したのだろう。
努めて、苦笑を作った。
「幽谷……早く。でなければお茶が冷めてしまうわ。折角持ってきて下さったのに」
「……はい。すぐに戻ります」
幽谷は承伏しかねる顔を瞬時に消し、尚香に拱手して外へ出て行った。
関羽も、青ざめて苦しげな顔をして二人から逃げるように外へ飛び出す。劉備の目が追い縋るのを、人ならざる者は見逃さない。
舌打ちが出そうになったのを、すんでのところで耐えた。
‡‡‡
「劉備様。お茶が入りました……」
「あ、うん。ありがとう……」
茶を受け取る劉備の笑みはぎこちない。
尚香に対する罪悪感と、関羽に対する強い未練が隠しきれない、人ならざる者にとって不愉快極まりない笑みだ。
あなたが大事にすべきは私。
あなたが見るべきは私。
あなたの全ては私。
私の全てはあなた。
それが正しい形なのよ。
ねえ、お兄様……。
心の中で、甘く囁きかける。
「ふふ……。このお茶、香りもよくて、劉備様に気に入っていただけるとうれしいです……」
劉備が、ようやっとこちらを見てくれる。
しかしそこに映るのは、孫尚香。自分の姿ではない。自分の現在の隠れ蓑の姿だ。
そしてこの瞳も、兄の器のそれだ。
最愛の兄の美しい金の瞳に本来の自分が映る時が待ち遠しい……。
「彼女のこと……聞かないの?」
「彼女? ああ、関羽さんのことですか……? 私が気にするほどの人だとは思いませんけれど……」
劉備は瞳を揺らす。
「尚香、ごめん……。君との結婚を受けたのに僕は、僕は彼女を……。こんなこと言うべきじゃないかもしれないけど……」
「……」
「こんな気持ちで、君と結婚しようだなんて……」
人ならざる者はそっと劉備の手に己のそれを重ねた。
「そんなこと。私はぜんぜん気にしてません……」
にこりと、笑ってみせる。
「劉備様は、私を選んで下さった。それだけで、私はもう幸せなのですから……」
「だけど、僕は……それだけじゃないんだ」
僕の手は、多くの血に染まってしまっている。
劉備は苦しげに言い尚香の手から逃げるように手を離した。
「僕のそばにいると、君まで僕と同じように不幸になってしまうかもしれないんだ……」
不幸?
有り得ない。
不幸じゃなくて、幸福の極みだわ!!
「気にしないで下さい。私は劉備様のおそばにいられれば、それで十分ですもの……」
「だけど……」
「怖がっているのですね、劉備様……」
今度は劉備の手を逃げられぬよう両手で包むように握る。
「でも、ご安心ください……私は、私だけはどこまでもあなたの味方……。わたしは、あなたのことを誰よりもよくわかっている……。あなたの恐れも、あなたが欲しいと願う幸せも、全部……」
そっと身を寄せると、劉備はびくりと身体を震わせる。
関羽の臭いが残って苛立ったが、いつかこれが血臭に変わるのだと思えば耐えられる。
「だから、大丈夫……。心配しないで……。私に全部まかせてほしいの……」
私に全部任せれば、私もあなたも、幸せになれる。
血と恐怖と快感に奮い立つ、甘美で刺激的な地獄の世界で――――……。
自然と笑いがこぼれる。涎が垂れそうになったが、垂れる前に舌で舐め取り嚥下(えんか)した。
不吉な笑声になってしまっていただろうか。
劉備が怪訝そうな顔で尚香を見下ろす。
「尚香……?」
「ああ、いけない……。そういえば、孫権が劉備様にお話があると言っていました……。私も幽谷に説明して、共に参ります……。先に行っていてください……」
「う、うん……」
劉備は不思議そうにしながらも、言われた通りに天幕を出て行く。
その後ろ姿を見つめながら、尚香の顔は歪んだ。
異常なまでに口角はつり上がり、狂気的な光が目に宿る。
誰もいない天幕の中、器の身体を抱き締めて、悦楽に震える。
「……そう。私だけが、あなたを助けられる……あなたのことを誰よりも愛しているのは、私なのよ……」
お兄様……。
愛おしい者を呼ぶように、人ならざる者はうっとりと熱を込めて囁いた。
それから、暫く経って。
幽谷は尚香のもとに戻ってくる。
彼女は、幽谷に微笑んで見せた。
「幽谷……内密に、あなただけに付き合って欲しい所があるの」
共 に 来 て く れ ま す ね?
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