17





「もうすぐ……もうすぐだわ……」


 尚香――――否、《人ならざる者》は笑みを抑えきれない。

 それも仕方のないこと。
 だって愛すべき兄や姉が、この地に集結しているのだから!!
 これを喜ばずにいられようか!

 嗚呼、なんて素晴らしい僥倖(ぎょうこう)なの。
 こんなにも身体と心が昂ぶることなんて無かったわ。

 人ならざる者は身を震わす。
 嬉しくて嬉しくて今すぐにでも殺戮に手を染めてしまいそうになる。
 擦れ違う人間達の喉元に噛みつき、骨を砕いて存分に血肉を啜り上げたい。

 されども、と自制する。
 それは一人ではつまらない。
 兄も姉も一緒に――――三人で楽しまなければ。
 姉はもうじき覚醒する。あの金色と黒の、濃密で甘い禍々しさの中にある誰しも跪かずにはいられない気高さを内包する圧倒的な絶美を再び見ることが叶う。
 兄も、もう一押しでその白き闇の御身を顕現させる。自分が、そうする。

 二人からねぎらいの言葉を受けるその時を思うと、全身が甘く痺れ、まるで頭がとろりと溶けていくような快楽の如(ごと)甘美な感覚にすら陥る。
 待ち遠しい。
 早く、早くその時が来て欲しい……。

 我らの晴れ晴れしい舞台はこの戦場だ。
 じきにこの長江は、深紅に染まる。
 死屍累々と水面に浮かび、遠き場所にも穢(けが)れを運んでいく。

 されば、か弱き同胞も力を得、世界の至る場所で暴虐の限りを尽くすこと間違い無い。
 世は脆弱な人間(えさ)達の恐怖に満ち、烈(はげ)しい混沌の世界と生まれ変わるのだ。

 我知らず、人ならざる者は不気味な笑声を漏らしている。
 気付いた時には口端から涎が垂れていた。
 じゅるり、吸い上げる。
 いけない、いけない。
 この本陣にいる間は、この身体の元々の持ち主に合わせておかなければ。

 ここには狐狸一族の長のみならず、長の弟と共に兄に刃向かった身の程知らずな仙人がいる。
 どうせ自分の存在にはとうの昔に気付いているだろうが、彼らにこちらの動きを悟られる訳にはいかない。
 だって、あと少しなのだ。
 あと少しで、愛して止まないお姉様とお兄様が、揃う――――。

 至福の心地で、人ならざる者は孫尚香としてとある天幕を訪れる。
 けれど二歩程手前で、不愉快な気配を補足する。
 ……なんて忌々しいの。
 天幕の中、大事な大事なお兄様と二人きりなんて。
 餌でしかない脆弱な下等生物がお兄様を独り占めにするなんて絶対に赦(ゆる)さないわ。

 許されるなら今すぐにでも八つ裂きにしてやりたい。
 だが、我慢だ。
 軽率な行動は敵に攻撃の理由を与えてしまう。
 慎重に、慎重に。
 確実に事を進めるのだ。


『それでも……思わずにはいられないんだ。すべてを投げ捨てて、君を取りたいと点。君とこのままどこかへ行ってしまいたいと』


 中からお兄様の声がする。
 苦しげに求める声が。

 ……正確にはお兄様の器の声だけれど、そんなことどうでも良い。
 事が無事に成れば混ざり合って完全なお兄様になるのだから。


『猫族の長であることも、その誇りも、責任も、罪の意識も……なにもかも全部! 一族の仲間すらも、すべて投げ出して……君を……、君だけを選びたいと……そう、思ってしまうんだ……。そんなこと、考えてはいけないとわかっているのに……』

『劉備……!』


 聞こえた別なる声に思わずぎり、と奥歯を噛み締める。
 嗚呼腹立たしい腹立たしい腹立たしい!!
 ごうごうと燃えたぎる腹の中。
 可憐な姫君の身体を乗っ取った人ならざる者は爪を伸ばし、ボキボキと鳴らした。


『金眼の呪いに染まった僕は君にこう言ったね。尚香とは結婚しないと……呉との同盟なんてなくても、僕が曹操軍をすべて滅ぼすからって……』

『でも劉備、それは……』

『僕はね……それでもいいと思ってしまうんだ……』

『なっ!』

『金眼の力を使って、例え心が邪に染まりこの身が呪いで喰い尽くされようとも……。それでも、この忌むべき力に縋りたいと……呪いに縋ってでも、君を諦めないで済むのなら! 君をこの手にすることが出来るのなら! それでいいと……そう、思ってしまうんだ』


 聞き捨てならない言葉だった。
 何ですって?
 あなたはお兄様になっても、あの女を選ぶの?

 そんなの駄目よ。
 あなたにあの女は似合わない。
 あの女よりももっともっと愛している者がここにいるではないか。

 だのにどうしてあの矮小な女を選ぼうと思えるの!!


『偃月の夜にしか出てこられない僕は世界の何も知らなかった……。満ちる月も、明ける空も、昇る太陽も、焼ける夕日も……何も……、何も、僕の世界にはなかった……。僕の世界は、関羽、君だけだった……』


 違うわ。
 あの女なぞはあなたの世界ではない。あの女風情が尊く愛しいあなたの世界であって良い筈がない。
 やはり殺すべきだわ、あの女。
 それは今ではない。今ではないの……。

 人ならざる者は、決して動かずに盗み聞きしているのではなかった。
 動けないのだ。
 今動いて天幕に入れば、彼女はたちまち最愛の兄に媚びを売る汚らわしい女を惨殺してしまう。
 すなわち自ら計画を破綻させかねないと思えばこそ、動かずにじっと耐えているのだった。
 ならばこの場を立ち去れば――――いいや、兄が何処まで狡猾な女に籠絡されているかを確かめなければならない。その度合いによって、女の罪の重さは変わる。

 鼻息荒い己に気付き、咄嗟に手で鼻と口を覆う。
 落ち着け……落ち着かなければ。
 お兄様やお姉様の為、これくらいの荊棘(けいきょく)、乗り越えなければ。
 自身に強く言い聞かせるうちに、二人の会話は少々進んでしまったようである。


『僕にとって、世界は君。君は僕のすべてなんだよ……。この姿を取り戻し、僕はこうして世に出ることが出来た。今では世界の色んな姿を知っている……。でも……でも……、君を失った。箱庭から出て、世界を知った代償に、僕は君を! 君を失ってしまったんだ……!』

『劉備……!』

『関羽……、僕は……』


 お兄様の声が縋りつく。
 あの女に。

 嗚呼、やっぱり駄目だわ。
 もう耐えられない――――。


「――――尚香様? そこで何をなさっておられるのです」

「!」


 不意に聞こえたのは、侍女の不思議そうな声。
 名前は何と言ったか……そうだ、幽谷。幽谷と言った。
 彼女も彼女で気配が少し姉に似ていて気に食わない。だが孫尚香に忠誠を誓う幽谷は魯鈍の気があり、狐狸一族らの動向を探るには丁度良い女だった。

 体調不良で安静にさせられていた筈だが……。


「幽谷。もう身体は良いの?」

「はい。もう床(とこ)を離れても問題は無いと」

「そうなのね。でも、無理はしないでちょうだい。元気なあなたが側にいないととても寂しいわ」


 幽谷は拱手した。


「私などには、勿体ないお言葉です」

「ふふ……ああ、そうだわ。丁度劉備様とお茶をしようと思っていたの」

「猫族の長と、お茶……でございますか」


 色違いの双眼に、警戒が灯る。
 幽谷は孫尚香が劉備に接触するのが気に食わないらしい。劉備に対して強い警戒心を抱いている。
 狐狸一族も同様に二人を接触させたがらない傾向が窺えるが、彼女は純粋に孫尚香を守ろうと義務感から警戒しているようだ。

 どうも、彼女は他の狐狸一族の男達と違って長の真意を知らぬらしい。
 そこにどういった意図が作用しているのか……狐狸一族の動きを探りつつ、一応の警戒をするようにしている。彼女自身は、尚香として振る舞う限りはさしたる脅威ではないのだが。


「分かりました。ご一緒致します」

「良かった。ああ、でも、少しでも気分が悪くなったら言って下さいね。まだ回復したばかりです。戦の前に頻繁に体調を崩していては、武人として情けないと兵達に笑われてしまいますよ」

「心得ます」


 尚香として笑い、人ならざる者は天幕の中にいる劉備に話しかける。
 幽谷に見つかったことで、今、彼女の心の波は穏やかに凪いでいる。

 これならば、劉備に色目を使う関羽を殺さずに済むだろう――――……。



.

- 150 -


[*前] | [次#]

ページ:150/220

しおり