「……幽谷」

「すみません……」


 周泰は腕組みして、眼前に正座した妹を見下ろしていた。
 幽谷は悄然(しょうぜん)として肩を縮め、居心地悪そうに視線をさまよわせていた。

 その腕には、彼女の外套に包まれた子栗鼠。栗鼠は怪我をしていて身動きが出来ず、それを癒す為に幽谷が拾ったのだった。
 そこで、猫族の一員に見つかってしまうとは、不甲斐ない失態であった。


「周囲の様子に、気を配れ」

「……はい」


 もう身体は馴染んでいる筈だ。
 それでもふとした時に注意力が散漫になってしまうのは、彼女が失った記憶を未だ気にしているからに他ならない。
 詮無きこととは言えど、そんな状態が続けば今回の任務に支障が出てしまう。

 周泰は吐息を漏らした。


「……記憶のことは、今は触れるな。怪我をする」

「分かっています」


 手を差し出せば、幽谷は申し訳なさそうに握って立ち上がる。子栗鼠が動いた所為で少しふらついたのをそっと支えてやった。

 子栗鼠は包みを抜け出して腕伝いに幽谷の肩へと上ると頬に顔を擦り寄せた。四霊の特製か、彼女も獣には良く好かれた。

 周泰は無言で子栗鼠の頭を撫で、身体を反転させた。
 何も言わずに洞窟の方へと歩いていく兄に、幽谷も大人しく従った。
 されどふと足を止めて天を仰ぐ。



 すでに夜は、明けていた。

 煽られた人間達が猫族を襲うのは今日の夜だろう。
 寡黙な兄の言葉が、脳裏をよぎる。



‡‡‡




――――騒々しい喧噪。
 誰かの悲鳴。
 夢と現の狭間を揺蕩(たゆた)う関羽は飛び起きた。

 事態を把握しきれずに当惑する関羽のもとへ、張飛達が飛び込んでくる。


「大変だ! 近くの村の人間たちが攻め込んで来たんだ!」

「なんですって!? そんな、どうして突然……」

「烏丸討伐で、曹操が許都からいなくなったからそれで、民衆の抑えが効かなくなったんだ。十三支達を追い出せって……」

「あんな奴でも、いないよりはいてくれた方がよかったのかよ!」


 悔しげに呻く関定の肩を、張飛が強めに叩いた。
 それよりも早く猫族の皆を守らなくてはならない。こんな奇襲に近い状況で、誰かが死んでしまうかも分からないのだ。特に、子供や老人達は。

 偃月刀を取ろうと身を捩った関羽は、不意に自分の側に違和感を感じた。
 おかしい。何かが無い。
 何かが――――。


「え、ちょっと待って! 劉備? 劉備はどこ!?」

「えぇ!? 劉備様、いないのかよ!? こんな状況だぜ!? マジでヤバイって!!」


 関羽は戦慄した。偃月刀を手に立ち上がって入り口へと駆け寄る。


「蘇双、関定! みんなをお願い。張飛も人間を食い止めて! わたしは劉備を探しに行くわ!」


 蘇双も関定も即座にこれを了承する。張飛も劉備のことを関羽に頼み、関羽を急かした。

 関羽は劉備の無事を祈り、熱気に包まれた村へと飛び出した。

 ようやっと手に入れた平穏は、人間達の手によって呆気なく壊された。
 でも、考えてみればそれは因果応報と言うものだろう。
 金眼の呪いに併呑された劉備は、それだけの過ちをおかしてしまったのだ。
 こうなることは、頭の何処かで分かっていた。誰もが予想していたこと。

 関羽は、この奇襲に胸を痛める。けれども、劉備のしたことを思えば人間を憎もうにも憎めなかった。
 中途半端な感情が胸を締め付ける。

 それを押し殺して関羽は劉備を呼ぶ。火の粉が身体にかかるのも構わずに、熱風に咽がやられるのも構わずに、白い姿を懸命に捜した。

 その途中で、


「関羽!」


 名を呼ばれ、足を止める。
 燃え盛る家屋の間から現れたのは趙雲と世平であった。


「趙雲……! それに、世平おじさんも!」

「ああ。オマエと劉備様を探してたんだ」


 世平が前に立つと、関羽は彼の腕に縋るようにしがみついた。


「世平おじさん! 劉備が……、劉備がいなくなっちゃったの!」

「なんだと!?」

「おじさん、どうしよう! 劉備に何かあったら、わたし……!」


 半泣きになって平静を失いかけた関羽を、横から趙雲が肩を掴んで強く揺さぶり声をかけた。


「いいか、落ち着いてよく聞け。今、この村を襲ってきている人間の数は俺たちよりも遙かに多い。加えて彼らは兵士ではない。許都の民だ。俺たちは普通の人間である彼らと戦うわけにはいかない……」


 つまりは――――逃げるしか方法が無いと言うこと。
 手にした平穏を自ら捨てて。


「残念だが、この村に住み続けることはもう無理だ。暴徒を追い返したところでいつまた同じことになるかわからない」

「襲ってきた民に反撃しても、猫族がさらなる恨みをかうだけだ。悔しいが、今は逃げるしかない……」

「そんな……」

「この村を、捨てるんだ……!」


 嫌だ。
 反射的に、そう思ってしまった。
 こんな形で宝が壊れてしまうなんて思わなかった。あまりに突然で、あまりに不如意な幸せの終わりに、関羽は目を剥いて立ち尽くす。

 こんなの、理不尽すぎる。
 普通の人間を傷つけてはならない。
 でも、普通の人間は猫族の幸せを壊す。
 それは許されるの?
 行き場の無い悲しみと怒りを、何処にぶつけたら良いのだろう。

 滲んでいく視界に中で、世平がキツく関羽を呼んだ。


「落ち込んでいる暇はないぞ。今はなによりもまず、劉備様を探すんだ。そして、この村から脱出するぞ!」

「……っ!」


 関羽は目を剥き、ややあって大きく頷く。目を袖で乱暴に拭って表情を引き締める。
 世平は彼女の様子を視認し、趙雲を見やった。


「趙雲。すまないが、頼まれてくれるか。女、子どもを連れて先に逃げてくれ。俺と関羽は、劉備様を探す」

「わかった! 劉備殿を頼んだぞ!」

「ええ、趙雲も気をつけて!」

「安心しろ。必ずみんなを守ってみせる。お前を悲しませるようなことには決してしない!」


 力強くはっきりと告げ、趙雲は駆け出した。
 彼なら、大丈夫。きっと皆を守ってくれる。

 世平は関羽の背中を軽く叩き、笑って見せた。


「関羽、村は捨てても俺たちは一緒だ。新しい地で、またみんなで一から築こう。俺たちの村を、穏やかな毎日をな」

「世平おじさん……ええ、そうね。みんなと一緒なら、わたしはどこでだって生きていけるわ……」


 その為に、劉備を見つけださなければ!
 関羽は世平と別れ、全速力で駆け出した。

 暫く走り、ふと足を止める。
 誰かに見られているような感覚に偃月刀を構えた。
 周囲を見渡し、近くの家屋の屋根に女が立っているのを見た。
 長身の女性だ。右目に眼帯をし、くすんだ水色の外套羽織った長身痩躯が燃え盛る民家に危なげ無く立っている。


「誰!?」


 女性は関羽の誰何(すいか)に応える代わりに、跳躍し、関羽の前に立った。
 無表情に関羽を見下ろし、何も言わずに背を向ける。

 虚を突かれて構えを解くと、彼女は肩越しに振り返った。


「猫族の長をお捜しなのでしょう」

「え?」

「こちらです」


 言葉少なに、彼女は歩き出す。
 呆気に取られていると、熱風に揺れる赤黒い髪の合間から《それ》が覗く。

 《それ》が何なのか分かった関羽は困惑に声を上げた。


 人間の耳がある筈のその場所に、見慣れぬ獣の耳を見たのである。







































 アラシ、スサブ。



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